「主が家を建てられなければ、建てる者の労苦はむなしい。主が町を守らなければ、見張りはむなしく目をさます」(詩編127[126]・1)。この聖書の言葉は、オプス・デイのセンターの聖櫃における主の現存を思うとき、特別な輝きを放ちます。主こそが家を建て、主こそが町を守ってくださるのです──私たちがそれをゆだねるなら。「もしあなたの思いと希望の中心が聖櫃にあるなら、どれほど豊かな聖性と使徒職の実りがあることか!」[1]と聖ホセマリアは書いています。その通りです。神から出発し、他者のために生きるとき、人は聖性を促し、鼓舞し、力づける存在となり、それこそが家庭を支える最も堅固な基盤となるのです。
場所と人による異なるニュアンス
この「いつも他者のことを考えるという聖なる心理的習慣」[2]という奉仕のダイナミズムは、人によって表れ方が違います。各センターは一つのモザイクのように、それぞれの人が家族の温かさのために自分の才能を差し出して形作られる、独自のものです。家庭が自分にとって何を意味するかという期待は人それぞれ異なるので、単純な適用基準のリストで律することはできません。
それぞれのセンターには、祝日をどのように祝うか、家庭の物的維持で互いにどのように助け合うか、使徒職のプロジェクトをどのように推進するか、家族との関わりをどう育むかなどに独自のニュアンスがあります。共通しているものもあります。それは、愛情、ユーモア、超自然的な感覚、家庭的な集まり、パドレやオプス・デイの家族からのニュース、喜びに満ちた質素さ、心から安らげる超自然的な落ち着きです。同じ精神がどこにでもあるけれど、それぞれの場所では生き生きと具体化されます。そのため、他の地域や別のセンターに行っても常に「我が家」にいるように感じるのです。なぜなら、オプス・デイの一致と多様性──その豊かさ──を実感するからです。
奉仕の論理があっても、自分自身や他人の欠点がなくなるわけではありません。また、一緒に住む人と心地よく過ごせるかどうかの違い、家庭や活動がうまく組織されているかどうか、周囲の人を理解しようと努力する必要、あるいは必要なときに赦しを請う、または赦す必要がなくなるわけでもありません[3]。しかし──決定的なことは──この論理によって、常に前に進むための資源を見いだし、神にもっと近づくことができるのです。
家庭を「奉仕」という観点から築くと、すべてが生き生きと輝きます。おしゃべりや食後のひとときには、他の人が休めるように会話を盛り上げることにより注意を払います。兄弟的説諭は、相手の限界に対する苛立ちからではなく、大きな愛情をもって祈り、考えながら行います。また、多くのことを笑顔で受け流し、気にしないようにできるのです。本物の奉仕は、自分の小さな利己心から抜け出す努力を必要としますが、結局は「ウィン・ウィン」です。仕える側と仕えられる側の双方にとって常にプラスとなります。そして、あまりにも自然なので、わざわざ「奉仕」と名付けるのがかえって気恥ずかしくなるほどです。それは単に兄弟愛なのです。
家庭を築くための大切な役割
パドレは、召命のあり方についての書簡の中で、管理部がセンターの家庭的な雰囲気をつくり出すうえで決定的な影響を持っていることを思い起こさせました。「あなた方の仕事において、一人ひとりを中心に置き人のことを優先的に考えることにより、その仕事によってオプス・デイの生活を守り、奉仕しているのです。そうすることで、オプス・デイは家族であることが非常にはっきりと示されます。それは比喩などではなく、真の家族なのです」[4]。それは「文字通り形成、形を造る」、つまり、ふさわしい雰囲気を生み出す働きです。管理部が家庭的な雰囲気に貢献することは、皆の基準になります。とはいえ、それを具現化し、命あるものにするためには、家の中で皆がそれぞれに果たすかけがえのない役割が必要です。
センター委員会のメンバーにとって、神がオプス・デイを通して彼らに託している奉仕の務めは、何よりもまず各人が必要とする形成と霊的同伴を受けられるようにすること、また適切な物質的安定を保証することにあります。聖ホセマリアはこの務めを次のように要約しています。「父と母の心遣いをもって、委ねられた人々の霊魂と体を世話してください」[5]。この務めは責任を伴うとともに、多くの忍耐と神への信頼が求められます。つまり、それぞれの性格や強みを理解し、それを土台に成長を助け、個人としてもセンター全体としても成長できるように支えること。真に大切なのは「物事がある一定の形で進むこと」ではなく、「皆が神に近づくこと」であるとより明確に理解すること。そして、必要ならば赦しを乞う用意があること。赦しを願うことは権威を失わせるどころか、むしろ人と人を近づけるのです。この観点からセンターの組織が考えられるとき、その雰囲気は聖性を追い求めるうえでの基準の高さを保ちながら、その追求を本物にする喜びと静けさを得るのです[6]。そのときセンター全体は、この家庭の存在理由と一体になり、共通の目的と各人の個別の目的は一致するのです。
司祭は一方で、しばしば聞き手となり、落ち着きを与え、日々の共同生活の様々な面を広い視野と鋭い眼差しで見る助けとなります。聖ホセマリアはこう書きました。「司祭は、他の人々と同じ精神を持たねばなりませんが、とりわけ理解、慈愛、すべての人と共に生きる精神、躓かせないこと、支え、助けること──まるで母のように──を特に持たねばなりません」[7]。ですから、他の誰よりも司祭こそ、一致と希望の道具であるべきなのです。「人間的未熟さのしるしである臆病や劣等感なしに、また超自然的感覚に欠ける聖職者的な驕りなしに」[8]。ディレクターたちにとっての危険が「管理の論理」であるとすれば、司祭にとっての危険は「功績の論理」です。司祭はいつも目に見えるかたちで、区別され、かけがえのない形で他の人々に仕えており、もし自分の努力が評価されていないと感じれば、気づかぬうちに「犠牲者意識」を生み出してしまうかもしれません。ドン・アルバロはこうした心構えに対してこう語りました。「もし本当に司祭的魂がどこに表れるのか知りたいなら、天国のパドレとともにこうまとめましょう:決して『もう十分だ』と言わないことです。愛に対して『もう十分』と決して言わず、犠牲の前で立ち止まらないことです。キリストのように」[9]。
「普通、多くの家庭では、祖父母、父母、子どもたちなど、異なる世代が一緒に暮らしていたり、性格の異なる者同士が一緒に暮らしていたり(…)します。これらの状況が、家族の一致を損なう原因になる場合もあるかもしれませんが、同時に、多くの場合は、真の愛を生きることによって、そのような、あるいは他の困難な状況が家族をより固く結びつけることも事実です」[10]。したがって、同じセンターに住む人々は、最も古参の者から最近加わった者まで、それぞれが神から与えられた才能と自分らしさをもって家庭を築く使命を担っているのです。こうして家は、それぞれにとって親密さ、無条件の愛、穏やかな休息の場となります。この務めの中で誰もがかけがえのない役割を持っています。なぜなら、自分に神が与えた才能を最もよく知っているのは自分自身であり、それを率先して惜しみなく皆のために用いることができるからです。それゆえ、各センターで生きられる兄弟愛は、アソシエートやスーパーヌメラリーの生活にとって安らぎの場、そして霊感の源となり、またオプス・デイの温かさに触れるすべての人々にとってもそうなります。
特別な役割を果たすのは病人たちです。なぜなら「 愛する人にとって、幼児と病者はキリストだからである」[11]だけでなく、先に触れた「逸脱」(センターを「家庭」にする[2])に対する最も直接的かつ実践的な挑戦でもあるからです。世話を受け入れ、できることをすることによって貢献し、「十分に愛されていない」と感じる心の論理に屈することなく、病人たちはセンターの結束の軸となることができます。彼らを助ける努力は、最も必要とする人々に仕える働きを一層強めるのです。
このような土台の上に築かれるセンターの家庭生活は、神の愛をその周囲に輝かせ、そこに住む人々、また訪れる人々に少しずつ、神が愛する人々のために準備してくださった家の扉を開いていきます。聖ホセマリアはこう語りました。「もし互いに愛し合うならば、私たちの一つひとつの家は、私が“見た”家庭、思い描いた家庭となることでしょう。そして兄弟の一人ひとりは、仕事の一日を終えた後、『家に帰りたい』という聖なる渇きを抱き、そしてまた、平和を実現すべく戦うために、外へ出ていく熱意を持つことでしょう」[12]。
[1] 聖ホセマリア『鍛』 835番。
[2] 同、861番。
[3] フェルナンド・オカリス、2023年2月16日付司牧書簡、3-8番参照。
[4] フェルナンド・オカリス、2020年10月28日付司牧書簡、15番。
[5] 聖ホセマリア、手紙27、39番。
[6]「あなたがたは皆、想像もできないほど喜びに溢れておられる」と言う人がいた。遠くではキリストの敵どもが悪魔的な試みを続けている。神にすべてを捧げた人は〈しかめ面〉をするはずだと、飽きも疲れもせずに陰口を広めているのだ。そして、悲しいことだが、〈善き人〉たらんとする人々の中にも〈悲しそうな面持ちで徳を実行し〉、そのような噂を広めるのに手を貸している人がいる。主よ、ありがとうございます。あなたはこのような滑稽な偽りを、幸いな喜びに満ちた生き方で消し去るようお望みになりました。主よ、私たちがこの点を忘れることのないようお助けください」(聖ホセマリア『拓』58番)。
[7] ホセマリア・エスクリバー、会議メモ、1961年3月19日(San Josemaría, notas de una reunión, 19-III-1961, en Crónica II-1993, p. 189 [AGP, Biblioteca, P01])。
[8] 聖ホセマリア『会見集』4番。
[9] 福者アルバロ『家族への手紙』(Beato Álvaro, Cartas de Familia, n. 377 [AGP, Biblioteca, P17]。
[10] フェルナンド・オカリス、2023年2月16日付司牧書簡、14番。
[11] 聖ホセマリア『道』419番
[12] 聖ホセマリア(San Josemaría, Crónica VII-1956, p. 7 [AGP, Biblioteca, P01])。
