センターを「家庭」にする(2)

キリスト者の家庭とは、家族一人ひとりが共に支え合いながら生きる場ですが、時にひずみも生じます。本稿ではその原因となるものを分析し、本来の姿を取り戻すためのヒントを探ります。

前回の記事を読む


オプス・デイの子どもたちへの最後の手紙の一つで、聖ホセマリアは地上における神の家族の「新しい論理」について黙想しました。すでにナザレで主の誕生を待つ日々から、主はマリアとヨセフを、仕えるために来られたあの幼子の考え方と生き方に倣い、すべてを捨て去るよう導きました[1]。これは、すべてのキリスト者の家庭に神が望んでおられる論理でもあります。

「キリストが生まれる環境を見てください。そこではすべてが、無条件の奉献を私たちに訴えています。数々の苦難に満ちた出来事と、イエスの守護者となる喜びとが入り混じったヨセフの人生を見てください。自分の名誉、仕事の安定、将来の平穏を手放して、命懸けで神が求めることにすぐ応じようとする人生でした。マリアは『主のはしため』(ルカ1・38)として現れ、そのフィアット(なれかし)によって自らの全存在を神の救いの計画に従うものへと変えました。ではイエスは?私たちの神が幼子として現れる、ただそれだけで十分でしょう。すべてのものの創り主が小さな被造物の産着の中で私たちにご自身を示されるのです。私たちが、『イエスは、真の神であり真の人である』ことを疑わないためです(…)。神が地上に降られたときに始まったこの新しい論理を、私たちは身に染み込ませなければなりません。ベツレヘムでは誰も何も自分のために取っておきません。そこでは、誰も自分の名誉も、時間も、仕事も、考えも、好みも、お金も、何も口にしません。すべてが人類との神の壮大な物語、すなわち贖いの業に奉仕するために捧げられるのです」[2]

家庭生活は、この「壮大な物語」としての奉仕に基づいて新たにされ、豊かにされていきます。その奉仕は、卑屈さでもなく、また冷たい義務の積み重ねでもなく、他者のために生きようとする恒常的な姿勢、神の日々の配慮の道具となる生き方として理解されます。聖ホセマリアが時に「他者を常に思いやるという健全な心理的習慣」[3]と呼んだこの生き方は、オプス・デイのセンターにおける共生の基本的な調べでありたいものです。

そして実際、神に感謝すべきことに、多くの人々がそこを訪れるときに様々な形で感じるのはこの雰囲気です。すなわち、他者の生活を心地よくするための姿勢、未処理のことに追われていても相手に時間と耳を傾けること、問題を解決する手助けをすること、必要なときに謝ること、笑顔で先んじること、疲れた人や遅れて到着した人の代わりに任務を引き受けること……そして共に暮らす日々の中で次々と訪れる無数の機会に応えることです。

とはいえ、どの家庭でもそうであるように、日常生活は時に摩耗のような作用を及ぼします。そして時とともに、家や私たち自身の性格の中に別の傾向が根を下ろすこともあります。網羅的に語るつもりはありませんが、それらを四つの逸脱に要約できます。そこでは家庭の「運営」に過度に焦点を当てることで、そこに住む人々が犠牲になり、また「人間関係の誤解」とも呼べる共生に関する誤った考え方から生じる人間関係の葛藤が生まれます。もちろん、以下に述べるものが「純粋な形」で現れることはまずなく、むしろ少しずつ入り込み、時に互いに入り混じりながら、人間の弱さがいかに大切で愛すべきものと溶け合ってしまうかを示すものです。これらについて少し考えることによって、「(私たちの)ぶどう畑を荒らす小狐」(雅歌2・15)を見分けることができるでしょう。そうして、神が家庭、そして特にオプス・デイのセンターに望んでおられる「論理」が、対比の中でより鮮明に描き出されます。

効果的だが冷たい

奉仕の本来の論理を曇らせるおそれのある最初の二つの逸脱は、機能面に関わるものです。聖ホセマリアがしばしば用いた表現に、オプス・デイは「家庭であり、同時に軍隊でもある」という言葉があります[4]。ここでの危険は、この二つのバランスが崩れ、「軍隊」の側面が「家庭」を覆い隠してしまい、結果として効率的ではあるけれども温かみに欠ける家庭となり、場合によっては緊張や隠れた傷を抱えるような状態になることです。

第一の逸脱は「相乗効果の論理」と呼べるものでしょう。この論理は、近年の社会の発展とある程度関係しています。多くの恩恵や可能性をもたらす一方で、請求書、行政手続き、メッセージなど、数え切れないほどの用事や対応すべきことが生じるようになりました。その結果、私たちはしばしば出来事や用件を追いかけることに時間を費やしてしまいます。普通の家庭でも、仕事や家事、子育て、やるべきことに気を取られるあまり、夫婦が友愛の絆(親密さや愛情)をおろそかにしてしまうことがあります。同様にセンターでも、特に複数の使徒職の活動を担っている場合、互いの関わりが「こなすべき事柄」だけに限定され、形式的・機能的なものになってしまう危険があります[5]

そうなると、センターは「相乗効果」(シナジー:syn–ergon=共に働く)によって機能する一方で、「共感」(シンパシー:syn–pathos=共に感じる)に欠けてしまいます。それぞれが自分の仕事や計画をこなし、家はまるで精密機械のように動いているかもしれません──すべてが秩序正しく整ってはいるものの、他者と共に喜び、共に苦しむ能力が失われてしまうのです。聖ホセマリアはこの危険について、強い言葉で警告しています。「もし私たちが互いに他人のように、あるいは無関心な者のように暮らすなら、その日こそオプス・デイを殺してしまうのです」[6]。そして、人間的なレベルでも、共感が欠ければ、最終的には相乗効果そのものさえ損なわれてしまうでしょう。

第二の逸脱は「秩序の論理」と呼べるでしょう。普通の家庭でも同様のことがあります。夫婦のどちらかが、時間割や物の配置、役割分担などに過度にこだわりすぎる場合です。もちろん、家庭が混乱に陥らないためには一定の秩序は必要です。しかし、ときに理想的な家庭像や「正しいやり方」への過大な期待が生じ、それを何があっても守ろうとする結果、家庭の平和が犠牲になることもあります。実際、多くの家庭の経験が示すように、ルールばかりが肥大し、親子の関係を大切にしなければ、子どもは自然に不満や反抗を覚えるようになります。聖パウロも次のように書いています。「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(コロサイ 3・21)。

このような見方や行動は、センターにおいても同じように問題を引き起こしかねません。一つには、そこに暮らすのはそれぞれ自由と責任を持つ大人だからです。もう一つには、センターは「機能」すべき使徒職的な活動の拠点であると同時に、住む人たちにとっての「家庭」でもあり、単なる職業生活の延長ではなく、家庭として感じられる必要があるからです。普通の家庭と違い、センターでは「家庭」と「仕事」が常に共存しています。そして、使徒職の仕事に携わる人々は「自分の自由意志で」そこにいるのです。これは最も超自然的で根本的な理由であり、同時に繊細さと気配りを必要とする理由でもあります。聖ホセマリアはこう教えています。「とても霊的に、超自然的であるためには、とても人間的でなければならない。人間的な感覚を深くもって生きる努力をしなければならないのです」[7]

これらを踏まえると、規則や基準、目標などに過度に重点を置くことの問題性が理解できます。時間が経つにつれ、その弊害が表面化してきます。最も明らかなのは、予定やルールを中心に考える人は、手段と目的を取り違えてしまい、異なるやり方が可能なことについて他者の自由を制限してしまう危険があることです[8]。さらに、「あるべき姿」を重視しすぎて、家庭生活に不可欠な自発性との調和を欠けば、雰囲気は重苦しくなり、緊張が高まります。そして何より、状況をコントロールしようとする人は、いつも脆い勝利しか得られません。効率を優先するあまり、本当に重要なこと──仲間の心をつかみ、自由の中で成長を助けること──を実現できないのです[9]。結局、状況を支配しようとする人は疲れ果て、周りの人々もまた疲弊してしまい、その家庭づくりに主体的に関わっていると感じられなくなるのです。

人間関係における誤解

家庭生活に入り込む可能性のあるもう二つの逸脱は、人間関係における誤解、あるいは「ショート」とも言えるものです。前述のものと同様に、これらも実際の家庭生活に類似点があり、そこに巻き込まれた人に根本的な不満を引き起こすのが特徴です。主のたとえ話の登場人物の一人が、このような状況を体現しています。それは父に数々の不公平を訴えかける長男で、最終的に次のような言葉を言われる必要がありました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(ルカ15・31)。

この逸脱の第一は、「功績の論理」と呼ぶことができるでしょう。それは、外面的には周囲の人々に気を配り、家庭やそこに住む人々のために大きな犠牲を払うことができる人、しかし一般的に無意識のうちに、自分の努力に対して他者からの愛情を報酬として得られるだろうという期待から行動している人に当てはまるものです。この論理は人生の多くの場面では妥当ですが、家庭においては当てはまりません。なぜなら家庭の本質は無償性にあり、私たちは「家族」なのですから、愛されるために功績を積み上げることは意味がないからです。

もちろん、自分の家族を自分のものとして感じる人は、そのために心を砕きます。しかしそれは、親が子どもを愛するために見返りを求めないのと同じです(むしろ予想に反して、その尽くすことの中に幸せを見いだすのです)。確かに、ときには自分の努力に対してある程度の感謝が欲しいと感じることもあるでしょう。しかし、普段から自分の行為に見合った見返りを期待しているなら、視点は自己中心的になってしまいます。それはちょうど、父の家に住みながらも本当に自分のものだと感じられなかった長男のようです。彼は「わたし」「あなた」「彼」という単数形だけを用いて、不満や比較の論理に生きています。そして父が彼を招き入れようとする「わたしたち」を忘れているのです。時間が経つにつれ、この論理は深い不満を露わにします。彼は他人(父や弟)の自由を比較し、監視し、裁きます。なぜなら、与えるもの、受けるものが自分の見方からすると「不当」に見えるからです(ルカ15・29-32参照)。こうして、彼の目に「正当な要求」と見えるものは、実際には苦い妬みであり、傷ついた誇りに過ぎないのです。

最後の逸脱は、「感情の論理」と呼ぶことができるでしょう。これは家庭生活を評価する基準を自分の感覚に置くものです。すなわち、「家庭生活は自分をどう感じさせてくれるのか?」「自分は気持ちよく過ごせているか?」という問いです。もちろん、これらは無視できない大切な問いです。家庭の雰囲気を良くする要因や、逆に不快を生む要因に互いに敏感であるべきです。しかし、感情的な快適さが重要な指標であるにしても、それが家庭を築く上での主な基準、根本的な動機となってはなりません。

もしこの論理にとらわれれば、家族を大切にしようとする努力は「良い感覚」を得られるかどうかに依存するようになります。しかし家庭には、自分の好みを脇に置かなければならない時があります。パドレが繰り返し思い出させてくれるように、「もし愛によって、愛を込めてなされるのであれば、たとえ骨の折れる仕事であっても、喜んで果たすことができます。つまり、自由に果たすことができるのです」[10]。その難しさを乗り越えられない人は、「自分には愛される権利がある」と感じ、それを無条件の愛として要求する一方で、自分自身の貢献を問おうとしません。これはたとえ話の長男と同じで、父が自分に何らかの「特別なもの」を必要としているかを考えず、自分が享受できなかった宴会のことだけを気にしているのです(ルカ15・29参照)。

愛情を要求することに偏りすぎると、人を分け隔てする傾向が生まれます。兄弟愛に固有の真実で開かれた友情[11]の代わりに、排他的・独占的な「特別な友情」[12]の関係が入り込むのです。その結果、家庭には「友」と「その他」という区別が生まれます。このような態度は当然ながら家庭の雰囲気を害するだけでなく、本人自身にとっても有害であり、最終的には苦々しさや情緒的な貧困に陥ってしまいます。本来は「すべての人を愛する大きな力」を生み出すはずの独身の賜物も、このように悲しくも小さく矮小化されてしまうのです[13]

奉仕の論理は「贈り物の論理」

これまで見てきた逸脱に共通しているのは、「ここまで」と線を引き、努力や自己奉献を制限してしまう点です。ときには──これは社会のあらゆる分野でも起こりうることですが──肉体的・精神的な危機や崩壊の背後に、冷たい効率性や管理への執着、功績を積もうとする態度、愛情を求める姿勢、あるいはいくつかの要素が混ざり合った「論理」が隠れている場合があります[14]

こうした危機は、人生が私たちを現実に立ち返らせようとする機会であり、浄化や修正のチャンスになり得ます。つまり、正しい視点を失っていた、あるいはそもそも見出せていなかったことに気づく機会です。しかし、もし向き合わなければ、それは逃避願望や、欲求不満を埋め合わせるための特別な出来事への依存へとつながってしまいます。けれども根本を解決していないために、それでは決して満たされません。その結果、本来は家庭生活における最も祝祭的で特別な瞬間──日常の外にある出来事──さえ十分に楽しめなくなります。満足できる「見返り」は決して得られず、本来なら与えられているものに感謝して喜べるはずが、いつも持っていないものにため息をつくようになるのです。

こうした人生や召命をちっぽけなものにしてしまう逸脱に対して、立ち向かうのは「神が人類と共に織りなす壮大な物語──すなわち贖いです」[15]。奉仕の論理は、受け取ろうとして与えるのではなく、「わたしたちに対する神の愛を知り、また信じてい(る)」(一ヨハネ4・16)から与えるのです。私たちの人生の中心におられる神は、私たちを愛し、惜しみなく恵みを注ぎ、寛大に与えるよう招いてくださいます。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10・8)。このとき、人はもはや「計算」から家庭を築くことはありません。奉仕の論理は、人を次第に父や母の「単純さ」へと導きます。彼らは目標を掲げたり、奉仕の行為を数えたりする必要がありません[16]。ただ自然に自分を差し出し、家を堅固にし、家庭の温かさを守るための目立たない礎石となるのです。そして、自らが築いている家庭の美しさを眺めながら、喜びと感謝に満たされるのです。

これこそイエスの子としての論理です。御子は本当に御父にこう言うことができます。「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのもの」(ヨハネ17・10)。ここで最大の報いは、常に先立って私たちを愛してくださる神の愛です。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し(た)」(一ヨハネ4・10)。この愛によって、他者と共にいるとき、心は満たされます。その愛は休むことも疲れることもないのです[17]。なぜなら、本当に人を疲れさせるのは「自分自身の周りをぐるぐる回ること」[18]だからです。確かに、奉仕し、他者のために生きることは、時に大変なこともあります。しかし根本的には、それは疲れるものではありません。


[1] フィリピ 2・7、マタイ 20・28参照。

[2] 聖ホセマリア、1974年2月14日付手紙、 2番。

[3] 聖ホセマリア『鍛』 861番。

[4] 「オプス・デイは確かに家族であり、同時に軍隊である。喜びと優しさで結ばれた家族、霊的な戦いに最も適した軍隊である」(De Spiritu、64番)。

[5] これに加えて、今日の文化的特徴としてもう一つ挙げられるのは、余暇を個人主義的に過ごす傾向があることです。つまり、仕事でないものはすべて、自分の関心事、好み、活動、社交生活などに集中しがちです。当然のことながら、このような態度は家庭の温かさを著しく損なうでしょう。

[6] フェルナンド・オカリス、2023年2月16日付司牧書簡、9番に引用。

[7] 聖ホセマリア、手紙27、34番(Burkhart - J. López, Vida cotidiana y santidad en la enseñanza de San Josemaría, Rialp, Madrid 2013, vol. III, p. 600に引用)。

[8] フェルナンド・オカリス、2018年1月9日付司牧書簡、 8番参照。

[9] 「要求する必要性を疎かにすることなく、生涯にわたって提供される形成には、《展望を開く》という重要な面があります。もし、要求したり要求されることだけで終わるなら、出来なかったことだけに目を留めたり、自己の欠点や限界のみに目を向けて、私たちを愛する神の愛という、もっとも大切なことを忘れる恐れがあります」(フェルナンド・オカリス、2018年1月9日付司牧書簡、 11番)。

[10] フェルナンド・ オカリス、2018年1月9日付司牧書簡、6番。

[11] フェルナンド・オカリス、2019年11月1日付司牧書簡、14-17番参照。

[12] 特別の友情という概念は、キリスト教の伝統において長く複雑な歴史を持っています。カイサリアの聖バシレイオスの著作で最初に言及され、『キリストに習いて』やアビラの聖テレジア、聖フランシスコ・サレジオの著作から西方で特に発展しました。聖ホセマリアにおけるこの概念の理解については、Camino, edición histórico-crítica, n. 366を参照。

[13] フェルナンド・ オカリス、2020年10月28日付司牧書簡、22番参照。

[14] 同時に、聖ホセマリアは次のように記しています。「ディレクターたちが、真の必要がないのに、私の子供が絶え間ない英雄的行為を要求されるような状況に陥ることを許すならば、それは重大な過ちであろう。なぜなら、そのような状況は一時的なものであり、できるだけ早く終わるための適切な手段を探すべきだからである」(手紙27、 38番)。

[15] 聖ホセマリア、1974年2月14日付手紙、2番。

[16] 「愛があれば、わざわざ決心をたてる必要もないと断言できます。私の母が私を愛するために決心する必要などなかったはずです。しかも、どれほど濃やかな愛情をそそいでくれたことか」(聖ホセマリア、家族の集まりからのメモ、サルバドル・ベルナル『ホセマリア・エスクリバー、オプスデイ創立者小伝』精道教育促進協会、1985年、45頁に引用)。

[17] 聖ホセマリア『神の朋友』296番参照。

[18] 福者アルバロは言います。「本当に疲れるのは、子供たちよ、傲慢さ、つまり自分自身を中心に回ることです。それは重荷になるだけでなく、魂が神に近づくことを妨げます」(Beato Álvaro, en Crónica, XI-1989, p. 1141; AGP, Biblioteca P01)。