年間第32主日(A年)福音書の黙想

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。

年間第32主日(A年)の福音朗読ではマタイによる福音書25章1ー13節が読まれます。朗読箇所に関連する聖ホセマリアの言葉を紹介します(説教より抜粋)。


時という宝

マタイ福音書の第二十五章を開いてみましょう。「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」[1]。賢い乙女たちは時間をよく活用したと福音史家は書いています。慎重に前もって油を準備していたので、「『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がしたら」[2]、灯を大きくし、大喜びで花婿を出迎えます。 最後の日は必ずやって来ます。しかし、恐れる必要はありません。神の恵みに信頼しきって今から灯を携えて、寛大かつ勇敢に小事を愛する心で、主にまみえる日を待てばよいのです。天の国では盛大な祝宴が待っています。「愛する兄弟たちよ、キリストの婚宴にあずかるのは我々である。すでに教会を信じ、聖書に養われ、教会が神に一致していることを喜ぶ我々が招かれているのだ。それゆえ、婚宴のための礼服を身に着けているか否か、注意深く自らを省みてそれぞれの思いを糾明せよと勧める」[3]。ここであなたがたに保証し、私自身も再確認したいことが一つあります。婚宴の礼服とは些細で取るに足らぬ仕事を通して得る神の愛、その神への愛で織った礼服であるという事実。小事を疎かにせず、見たところ値打ちもなさそうな事柄に心を配るのは愛する人の特徴ではないでしょうか。

喩えの筋を追ってみましょう。愚かな乙女たちはどうしたのでしょうか。最後の時になってやっと花婿を迎える用意を始めます。そして油を買いに。しかし、後の祭りでした。彼女らが油を買いに行っている間に、「花婿が着いた。用意のできていた乙女たちは花婿と一緒に宴席につき、戸は閉ざされた。やがて他の乙女たちが来て、『ご主人様、ご主人様、どうぞお開けください』」[4]と叫んだ。彼女たちが何もしなかったわけではありません。少しは努力したのです。しかし、聞こえたのは、「わたしはお前たちを知らない」[5]という厳しい返事でした。よく注意して熱心に準備すべきことを知らなかったのか、あるいは、準備する気がなかったのか。とにかく、前もって油を買い入れておくという当然の用意を怠りました。わずかなこととはいえ、依頼された事柄を最後まで仕上げるという寛大な心を持ち合わせていなかったのです。時間は充分あったにもかかわらず、活用しなかったのです。

勇気を出して自らの生活を振り返ってみましょう。自分に関係のある仕事、自らを聖化する手段である仕事を丹念に仕上げる時間が、ときどき見つからないのはなぜだろうか。なぜ家庭の務めを疎かにするのだろう。なぜミサ聖祭にあずかるときや祈りのときに気が急くのだろうか。自らの義務を果たすときは気もそぞろに大慌て、ところが楽しみのためであれば悠々と時間を割くのはなぜだろう。いずれも小さな事柄です。しかし、その小さな事柄こそ肝心の油、焔と燃え上がらせ明るい灯を保つために必要な私たちの油なのです。

(ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』40ー41)


[1] マタイ25・1ー2

[2] マタイ25・6

[3] 大聖グレゴリウス『福音についての説教』38, 11 (PL 76, 1289)

[4] マタイ25・10ー11

[5] マタイ25・12