年間第25主日(A年)福音書の黙想

「時間を持て余すようなことがあってはなりません。たとえ一秒たりとも。別に誇張するまでもなく仕事は山ほどあります。世界は広く、しかも、この広い世界でキリストの教えを聞いたことのない人々が数限りなくいるからです」(ホセマリア・エスクリバー)。

年間第25主日(A年)の福音朗読ではマタイによる福音書20章1ー16節が読まれます。朗読箇所に関連する聖ホセマリアの言葉を紹介します(説教より抜粋)。


「天の国は、ぶどう園の働き人を雇うために、朝早くから出かける主人のようである」[1]。これはすでによくご存じの一節でしょう。主人は何度か広場に出て、働き人と契約を結びます。ある人たちは夜明けに呼ばれ、またある人は日暮れ近くに招かれました。

全員が一デナリオンずつ受け取ります。「ここで言う<デナリオン>とは約束の俸給、つまり神の似姿のことである。デナリオン貨幣には王の像が刻んであるのだ」[2]。これこそ、私たち一人ひとりの事情を考えてお呼びになる神の慈しみと言えるでしょう。神は「すべての人が救われるよう」[3]お望みです。私たちは信者の家庭に生まれ、信仰のうちに育まれ、確かに神の選びを受けました。これも現実です。それなら、たとえ招かれたのが日暮れ近くであったとしても、呼びかけに応える義務を知りながら、時間をもて余して日向ぼっこをするあの大勢の労働者のように、広場で暇つぶしをしていてよいものでしょうか。

時間を持て余すようなことがあってはなりません。たとえ一秒たりとも。別に誇張するまでもなく仕事は山ほどあります。世界は広く、しかも、この広い世界でキリストの教えを聞いたことのない人々が数限りなくいるからです。あなたがた一人ひとりに話しかけたい。時間が余るというのなら少し考え直してみようではありませんか。生温い状態に陥っているか、ひょっとすれば超自然的に見て、足が動かなくなっているのかも知れない。あなたは鎮座を決めこみ動こうともせず、まるで実をなさぬ木のようである。周囲や傍にいる人々、職場や家庭で共に毎日を過ごす人々に、幸せを伝え広めなければならないのに、手をこまねいているのではないだろうか。

たぶん、あなたは言うかもしれない。どうして私が努力しなければならないのか。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てる」[4]からであると、聖パウロが答えてくれます。愛徳の領域を広めるために一生は短すぎるからです。広い心で実行する決心を立てて欲しいので、倦まず弛まず次のように繰り返してきました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」[5]。ほかでもないこの愛徳をみて、人々は私たちがキリスト者であることを認めるでしょう。どのような活動に従事するにしても、信者の活動の出発点は愛徳ですから。

キリストは純潔この上ない方でしたが、清い生活こそ弟子と認められるためのしるしであるとは仰せになりませんでした。主は節制に徹したお方で、枕するところもなく[6]何日も祈りと断食[7]で過ごされましたが、「あなたたちが大食漢や大酒飲みでなければ、人々はあなたたちをわたしの弟子であると認めるであろう」とも、仰せになりませんでした。

いつになっても同じことが起こります。過去においてもキリストの清らかな生活は、今もよく見られるように、腐敗した当時の社会に大きな平手打ちを食わせました。宴会に明け暮れる人々、食っては吐き、吐いては食う輩、「神は自分の腹である」[8]という、サウロ(パウロ)の言葉を自ら地で行くがごとき人々に、キリストの節制は鞭打ちのような衝撃を与えました。

私事にかまけて一生を過ごす当時の人々にとって、主の謙遜はもう一つの衝撃となりました。私が口―マに住みついてから何度も繰り返したので、もうお聞きになったことがあるかもしれません。今日では廃墟となったあの凱旋門の下を、自惚れと傲慢と思い上がりで膨れあがった勝利者や皇帝や将軍たちが行進したものです。壮大なアーチを通り抜けるときに威厳に満ちた額をぶつけまいと少し頭を下げて。ところで謙遜そのものであるキリストは、「あなたたちが謙遜で慎み深いなら、わたしの弟子であると認められるであろう」とも、おっしゃらなかったのです。

注目して欲しいことがあります。それは、二十世紀を経た今も、先生である主の掟は新しい掟としての力を維持しているのみならず、本当に神の子であることを示す紹介状の役割を果たすという事実です。司祭生活を通して、私は実に何度も繰り返し説いてきました。遺憾ながらこの<新しい>掟の実行に努力を傾ける人は皆無に等しい。従って、この掟は相変わらず<新しい>掟です。嘆かわしい限りですが、これが現実です。救い主の言葉には、紛う方なき明白さがあります。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。だからこそ、この主の言葉を絶えず想い起こす必要を感じるのです。聖パウロは言葉を続けています。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」[9]。時間は余っていると自分を偽って時間を浪費するあなた、けれども、仕事に追われて困り果てる兄弟や友人が大勢いるのではないでしょうか。礼を失せぬよう優しく微笑みながら、相手が気づかぬよう、さり気なく手を貸してあげましょう。相手が感謝する必要を感じないほど、あなたの愛徳が慎み深く、さり気なく、人目を引かぬものであるように。

油のない灯を携えて行くあのかわいそうな乙女たちは、自由な時間はなかったと弁解することでしょう。広場の男たちはほとんど一日中時間を持て余していました。主は朝早くから急きたてるようにして人をお探しになったのに、彼らは手助けの必要さえ感じなかったからです。主の求めや要求には快く応じたいものです。「一日の労苦と暑さ」[10]を愛ゆえに忍びましょう。とは言え、愛があるなら忍ぶ必要もないでしょう。

(ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』42ー44)


[1] マタイ20・1

[2] 聖ヒエロニムス『マタイ福音書註解』3, 20 (PL 26, 147)

[3] 一テモテ2・4

[4] 二コリント5・14

[5] ヨハネ13・35

[6] マタイ8・20参照

[7] マタイ4・2参照

[8] フィリピ3・19

[9] ガラテヤ6・2

[10] マタイ20・12