ローマで日本人司祭誕生

2003年5月31日(土)、ローマで日本人を含む様々な国籍からなるオプス・デイの信者26人が叙階された。

その人、木村昌平神父は、木村家の長男として1962年3月6日、大阪に生まれた。8歳のときにまず母が受洗し、4年後、本人も洗礼を受けた。叙階式には、日本から父親と二人の兄弟が駆けつけた。さらに、本人を驚かせ喜ばせたのは、お世話になった井上神父が茨木教会の信者を連れて7名のグループで参加したことだ。

「井上神父様と数名の信者さんが来てくださると知って、胸にぐっと来るものがありました。茨木教会は、江戸時代のキリスト教弾圧が厳しいときも、たくさんの隠れキリシタンがいた素晴らしい土地です。私の召し出しは、けしてお世辞でも大げさでもなく、茨木の人々のためでもあると思います。」

木村昌平、新司祭とのインタビュー

司祭になるまでの道程で、特に心に残っていることは何ですか?

私は、12歳で洗礼を受けました。たくさんの人の世話になりました。まず、両親です。母親は、私より4年早く洗礼を受けましたが、それは、友人の勧めがきっかけでした。その方がよくロザリオを祈っていたのを覚えています。なぜか、ガダルーペの聖母に特別の信心を持っておられました。その方が、私に一人の神父様を紹介してくださり、カトリックの勉強が始まったのです。

父についても忘れられないことがあります。いつも私の自由を尊重してくれました。信者ではないし、私の洗礼に賛成してくれたわけではありませんが、母や私の洗礼を快く思っていない親戚の人々に対しては弁護してくれました。ある人たちにとって、先祖代々の宗教を離れて洗礼を受けるのは裏切りだと思えたのです。私の場合、長男ですから殊更でした。しかし、父はそう考える親戚の人に対して、「そっとしておいてやってくれ。本人が受けたいというなら、どうやっても洗礼を受けるだろう」と、弁護してくれたのです。とてもありがたいものでした。今も感謝しています

カトリックの勉強で、どんな思い出がありますか?

小教区のバンベール神父様(マリアのけがれなき御心会)のことが心に残っています。カトリック要理の勉強のために、毎週土曜日、わざわざ私の自宅まで来てくださいました。ご自分で来られない場合は、代わりにシスターが二人で来られました。教会でもよく見かけたことがありました。日本では普通ですが、私の家は教会からずいぶん遠くにありました。それでも、約3年間も続きました。この恩は一生忘れません。

13歳のとき、家族は大阪の別の町に引っ越し、そこの教会でサレジオ会のジョゼフ・ヘリバン神父と出会いました。ベルギー人でした。いつも愛想よく、落ち着いた方で、私はよく助けてもらいました。また、とても大切なことを教わりました。ある日、一冊の本を頂き、それを読んで『将来は先生になりたい』とはっきり考えるようになりました。また、信心生活も目指したいと思いました。その本は、ドン・ボスコの伝記でした。後に大学で英米文学を勉強しているとき、友人がオプス・デイを紹介してくれました。自分の道はこれだと分かりました。

当時を振り返り、もっとも影響を受けたのは何でしたか?

客観的に見て非常に困難な状況の日本で、一所懸命に働いている司祭がたくさいます。その英雄的な模範と聖性だと思います。バンベール神父様は例外ではなく、そのような方がたくさんいらっしゃいました。信仰を強制されたと感じることは一度もありあません。その逆です。いつも、その生き方に心惹かれました。あの神父様方は聖人だったと思います。「愛と奉仕」の素晴らしい模範を見せてくださいました。

教皇様からどんな影響を受けましたか?

教皇様の姿勢から、愛することを学びました。年齢を重ね体が弱っても言い訳せず、キリストと教会に人生のすべてを捧げておられます。キリストを伝えるためなら、疲れを知らず、世界中の隅々まで出かけられます。そして、あらゆる文化、国家に対して心を開くように呼びかけ、若者、病気の人、全ての人の心をつかまれるのには驚きます。教皇様が旅をされるとき、私たちも一緒に旅をしているのだと考えるようにしています。

ローマで勉強されましたが、「永遠の都」ローマで何が心に残りましたか?

教会が一番気に入りました。日本はカトリックやキリスト教の国ではありませんから、雰囲気はずいぶん違います。私は、ローマのカトリック的な風情が大好きです。信心を強めてくれます。たとえば、一日中ご聖体を顕示している教会があります。よくそこを訪問しました。また、ローマの歴史や人々からもたくさんのことを習いました。

聖ホセマリアの列聖式に参加され、聖人の生涯で特に印象に残った点は何ですか?

スペイン市民戦争中、死の危険を冒しても司祭としての仕事を果たしていた点に感動しました。司祭職、それだけが心配事でした。憲兵に追われ発見されそうになった時、死を覚悟して、側にいた人に自分が司祭であることを打ち明け、告白を聴き、ゆるしの秘跡を授けたのです。キリストのために死を望んでいたにもかかわらず、足がガタガタ震えた、と述懐しています。日本でもたくさん迫害があったので、とても印象的でした。

神父になることを、家族や友人はどう受け止めていますか?

全般に好意的です。日本では、人々に奉仕する職業を高く評価する伝統があります。たとえば、学校の先生や看護婦さんなど。聖職と言われたりもします。三人の友人から手紙が届きました。二人は未信者、一人は信者ですが、皆、祝福してくれました。そして、司祭を人々のために祈る仕事だと考えています。

父親が叙階式に来てくれることが、とても嬉しいです。期待していませんでした。召し出しのことを理解できませんから。兄弟が二人来てくれるのもありがたいです。日本では、仕事を休むのが大変難しいのです。休めば、その穴埋めに大変苦労します。母は10年前に亡くなり、この場にいないのは残念ですが、私が司祭になるようにいつも祈っていました。自由を尊重してくれましたが、よく私に言っていました。「昌平、神父になるのは、とても素晴らしいことですよ。」