オプス・デイ属人区長の書簡:「信仰年にあたって」(前半)

オプス・デイ属人区長が信仰年に際し書き送った司牧書簡を紹介します。祈りにおいてキリストと一致しつつ信仰を深め、社会の中で信仰を宣べ伝え、新たな福音宣教に取り組むことの必要性を語っています。

目次

新たな福音宣教の必要性 福音の原点に戻ること

初代信者の模範

信仰の問題

強力な支え 優先すべき分野

研究と教育

信仰と理性の調和

公衆道徳

家族制度 信仰を体験し実行する

信仰の模範

聖ホセマリアの模範

信仰を願う、そして深める

 愛する皆さん、イエスが皆さんをお守りくださいますように!

1.教皇様が「信仰年」開催を告示された自発教令「信仰の門」は私たちに大いなる喜びをもたらしました。ベネディクト十六世は、福音書の内容を21世紀の人々に分かりやすい言葉で伝えようと惜しみない努力を傾けていらっしゃいます。この書簡で、2011年10月11日、第二バチカン公会議開幕50周年を記念して、この10月11日から2013年11月24日の王たるキリストの大祝日までを、「信仰年」とすることを告示されたのでした。この開始日は、福者ヨハネ・パウロ二世が、使徒憲章Fidei depositum「委ねられた信仰の遺産」 によって、個人の形成のため、またあらゆるところで私たちが弛みなく続けるべき要理指導のために特別の価値を持つ「カトリック教会のカテキズム」を発布された20周年にあたります。

「信仰年」は、教会の子供たち一人ひとりに、改めて信仰を活き活きとしたものにするようにと呼びかけます。信仰の知識を増し、それを実行し、同時にそれを広めるよう熱心に努めましょう。信仰に基づく生き方を、模範と言葉で、多くのイエス・キリストとまだ出会ってない人や主とのお付き合いを疎かにしている人たちに伝えるのです。

教皇様は、カトリック信者と思われている人たちも含めて、多くのキリスト者に関して心を痛めていらっしゃいます。「キリスト信者はしばしば自らの活動の社会的・文化的・政治的結果に関心を向けます。そして、信仰を社会生活の当然の前提と考えています。実際には、この前提は当然のものではなく、しばしば公然と否定されています。過去においては、統一的な文化状況を見いだすことが可能でした。信仰の内容と、信仰から霊感を受けた価値観に訴えることも広く受け入れられていました。しかし、現代においては、社会の広い分野において、同じことを言うことはできません。信仰の深刻な危機が多くの人々に影響を及ぼしているからです。」[1]

2. このような状況は今に始まったことではありません。矛盾しているように見えることですが、すでに第二バチカン公会議終了直後から、教会の各分野で詭弁と思える危険が垣間見られていたからです。というのも、あの会議の成果を前にした熱狂が言葉の上だけに留まり、信者の生活に深い影響を与えるには至らず、しかも公会議の教えを曲解し、純粋なキリスト教精神によって超自然のレベルに引き上げるどころか、世俗的精神に迎合する不適切な態度が、教会の各分野垣間見られていたからです。

あの時期に居合わせた人は、公会議終了後、教会のいろいろな分野に表れた、信仰と規律、典礼と従順の危機をしばしば嘆いておられたパウロ六世を思い起こします。聖ホセマリアは、教皇様のご憂慮に応えて、公会議終了の少し前に、子供たち宛に手紙を送って胸中を吐露されたのです。「私がどれほどの愛を込めて、この公会議期間中、祈りと数回の仕事を通して協力したかを知っているでしょう。また、私自身が、皆さんともども、聖なる教会の決定に対して、権威の下にある臣下としてではなく、キリストの神秘体の一員としての愛情を持つ子供としての心をもって、些細な点に至るまで忠実でありたいと望んでいることも知っているはずです。

また、ある人たちの行動を嘆いていることも事実です。その人たちは、公会議を教会生活の荘厳な儀式として、また聖霊の超自然的な働きを表しているものとして受け入れるのではなく、個人的な意見を無制限に述べ立てる機会、あるいは、もっとひどいことには、教会を傷つける自己主張の機会としてしまっているからです。

公会議は終わろうとしています。何度もこれが最後の会議になるだろうと伝えられました。この手紙が皆さんの手元に届く頃には、もう公会議後の時代が始まっていることでしょう。私は、教会が新たな傷を負うことになるのではないかと恐れています。

公会議後の数年はいつも重大な年月です。承知された決定を実行に移す際には、素直さ、超自然的な精神をもって神と神の教会を愛し、教皇に忠義を尽くす固い信仰とが求められます。」[2] 

こう語る聖ホセマリアに、悲観的なかげりがいささかもあったわけではありません。このように語ることで、当時も、そしていつの時代にも、信仰に生きる男女の存在が必要であることを際立たせたかったのです。

3. 今日までの半世紀間に及ぶ教導職の様々な努力と聖人たちを含む多くの信仰の証にも関わらず、全世界に混乱が広まって行きました。教皇様が述べておられます。「私たちは塩に塩気がなくなり、光が隠れたままでいるのを受け入れることができません(マタイ5,13-16参照)。現代の人々も、サマリアの女と同じように、井戸に向かい、イエスの言葉を聴かなければならないと感じることができます。イエスは、イエスを信じ、イエスから湧き出るいのちの水を飲むよう私たちを招いているからです(ヨハネ4,14参照)。私たちは教会が忠実に伝えてきた神のことばと、弟子たちを生かすために与えられた命のパンの味を再発見しなければなりません(ヨハネ6,51参照)。実際、イエスの教えは現代においてなお同じ力をもって響き渡ります。『朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい』(ヨハネ6,27)。聴衆が述べた問いは、現代の私たちが発する問いと同じです。『神のわざを行うためには、何をしたらよいでしょうか』(ヨハネ6,28)。私たちはイエスの答えを知っています。『神がお遣わしになったもの信じること、それが神のわざである』(ヨハネ6,29)。それゆえ、イエス・キリストを信じることが、決定的な仕方で救いに至るための道です。」[3]

4. 信仰年は、私たちが頂いた神的な宝である信仰を深め、神の恩恵で、この徳を同心円状に世の隅々まで伝え、現代が必要としている新たな福音宣教を力強く推し進めるためのまたとない機会です。まず、私たちは、日々、三位一体の三つのペルソナと親しく交わることから始め、聖ホセマリアがキリストとの一致、神のみ旨への一致を深めるため、観想し、驚嘆していたマリアとヨゼフのような信仰を固く守ることにしましょう。人々を神に近づけようと望むなら、何よりも私たちのキリスト者としての生き方を通して話さなければなりません。

私たちは、創立者が絶えず十二使徒と初代信者に目を向けておられたことを知っています。十二使徒と、あの初代教会の共同体には、キリストとそのみ教えに対するゆるぎない信仰が満ち溢れていました。彼らは、救世主が人類の間を通られた足跡を知り、さらにそれを細かく調べたいと思っていたのです。イエス・キリストが、病人や体の不自由な人たち、信仰をもって主に近づく人たち自身が祈り、信仰をもって願うように執拗に要求されたことを、彼らが心にしっかりと留めたはずだと言っても大げさではないでしょう。また信仰の不足を、父親として咎めたことをしっかりと心に刻み付けていたことも確かです。それは、まさに、全世界に入って良き知らせ、福音を述べ伝えるように委ねられる直前のことでした(マルコ16,14-15参照)。

最初のキリスト信者たち一人ひとりが、み教えを広めなさいという師のご命令を果たすためには、天からの恩恵を固く信じるべきだと自覚していたことは明らかです。その振舞いを通して伝えた素晴らしい証言がたくさんあります。

十二使徒とあの時代の私たちの兄弟姉妹は、神の御子が求めたこの徳によって、贖い主のご計画が成就されるという希望に道が開かれることを自覚していました。それと同時に、三位一体の神への愛と感謝は日ごとに強まり、より使徒的な人間になっていきました。つまり、あらゆる状況や職業の人たちを「真理」の方へ引っ張っていくことができるようになったのです。

5. 子供たちよ、聖ホセマリアが私たちに繰り返したように、手段は今も同じ、すなわち「生きた」福音と十字架像です。

信仰の喜びと確実さを再認識することは普遍教会と全ての教会の義務であることを、いつも述べ伝えるようにしましょう。それゆえ、福音宣教は司牧者だけではなく、全信者の務めなのです。教皇様が、教会の特別年を公示するこの自発教令で述べておられるように、まず司牧者が模範と励ましによって先頭に立たなければなりません。しかし、全ての信者は、イエス・キリストの教えという宝を人々に伝える務めを引き受けるよう招いておられます。

教理省は、この1月6日の文書で、司教たちに勧めたのは、託されている信者の状況に留意しつつ、このテーマで司牧書簡を発布するようにと[4]。この手紙の目的は、一人ひとり、思い思いに、また人々との交流のうちに、神から頂いた信仰の美しさに改めて目を見張り、日々の生活でそれを実行し、体面を気にすることなくそれを広めるように、更なる励ましを伝える以外にありません。

前述の文書はまた「聖人と福者は信仰の真の証人です」[5] と確言し、司牧者たちに多くの聖人の生活や教えを人々に知らせる努力をするようにと願っています。それゆえ、この手紙は、愛するオプス・デイの創立者、聖ホセマリアの著作や口述による教えに基づくものであることは言うまでもありません。創立者は、多くの実りを生み出し、神に徹底した忠実な生き方を示した聖人だからです。

新たな福音宣教の必要性

6. 多くの人々が心の奥底にある望みに気づかないとしても、人は、神のみことばと知識を渇望しつつ、これまでも、そしてこれからも歩みを続けてきます。主は、信仰の恵みを頂いた者である私たち自身が目覚め、冬眠状態に陥っているような人たちを目覚めさせる責任をお与えになりました。「信仰年」は、新たな福音宣教に関するシノドス通常総会によって幕を開けますが、このことは皆にとっても更なる励ましになるでしょう。ゴールを目前にするランナーのように、歩みを速める時が来たのです。

尊者アルバロ・デル・ポルティーリョが新福音宣教の務めを個人的に実行するよう励ましたことをはっきりと覚えています。1985年のクリスマスには司牧書簡を送り、キリスト者としての生活が日増しに弱まっているある国々を再キリスト教化するため、より熱心に協力することを勧めておられました。経済的な発展の著しい国々から生まれる「新たな異教主義」と闘うよう励ましておられました。その手紙で、当時、「安楽志向はきわみに達し、そのための代価を恐れず、苦痛をもたらすものから全面的に逃れる、というよりも恐れ、真のパニック状態に陥っている」[6] と指摘された状況、今もなお続いています。

この膨大な使徒職の仕事の上に、何十年もの間、唯物論的な共産主義に支配されていた中央ヨーロッパや中東の国々や社会に向けたケアがさらに加わりました。彼らは長い間沈黙を強いられた殉教的な生活の中で、自由を享受していた私たちを支えてくれていたのです。

毎日、人間生活の頂点と中心にキリストを据える望みを新たにしなければなりません。そのためには、神との個人的な交わりを深め、人々への奉仕に励むことです。日々、私たちが小さいながら惜しみない心で献身することは、恩恵と主が使徒たちに託された福音の塩による新たな世界を建設するための、一握りの砂となるのです。時折、懸命に努力しているにもかかわらず、なかなか実りが見えないがゆえに、失望感に襲われることがあるなら、それを撥ね除けなければなりません。というのも、神のご計画を成就するには決して、ちっぽけで欠点だらけの私たちではないからです。聖書のいろいろな場面の数知れないたとえは、inter medium móntium

pertransíbunt aquae山々の間にも水は流れる(詩篇104,10)、ことを強調しています。この確信があるゆえに、最悪の状態に陥ったとしても、私たちには落胆のほんの僅かな兆しさえないはずです。それこそ天国に至るためのふさわしい道なのです。神は恵の水でそれを清め、私たちのあらゆる限界を乗り越えさせて、神と共にいることができるようにしてくださいます。

7. 帰天少し前の聖ホセマリアの言葉が記憶によみがえります。1973年にすでに多くのところで倫理観や価値観の箍

(たが)が緩み、信仰が危機にさらされているのを見て、超自然的な観点で使徒職に燃え立ちつつ、次のように記しておられます。「教会の歴史上、深刻な危機状態の中で、忠実に信仰を守り、悪にきっぱりと立ち向かおうと、倫理的知的な手段を駆使して霊的生活と教理の知識を深めるよう努めた人は決して多くはなかったのです。しかし、これらの少数の人たちによって教会と世界が新たな光で満たされたのでした。」[7] 多くの男女が恩恵のうちに生活することを受け入れ、この恩恵という避難所で守られ、強められるよう、気遣いましょう。

この新たな福音宣教は、特にヨーロッパと先進国において特に急を要することです。使徒的勧告「ヨーロッパの教会」で、福者ヨハネ・パウロ二世は、宗教に関する旧大陸の社会事情を記しておられます。ヨーロッパのシノドス特別総会の結論を取り上げることを目的としたものであるにも関わらず、その内容は他の多くの国々にも当てはまります。事実、20世紀を経た今日、キリスト教国と言われた国においてさえ「洗礼を受けていない人が増えています。他宗教の人たちが数多く移住してきたこともありますが、伝統的なキリスト者の家庭の子供たちも洗礼を受けていないのです。」[8] 教皇様はこう結論づけられています。「実際、ヨーロッパは、さらに新たな福音宣教を必要とするあの伝統的なキリスト教国の一部ではなくなってしまいました。そうではなく、最初の福音宣教を必要としています。」[9] 現代の教会と世界の状況が要求している福音告知には、〈最初の〉福音宣教と〈新たな〉福音宣教という両形態があるのです。

8. 聖ホセマリアが「道」848番に記している「使命を帯びた宣教師であっても宣教師と呼ばれない」という現実は、「父が私を遣わされたように、私もあなた方を遣わす」(ヨハネ20,21)、という責任の根本的かつ起源的な瞬間にその原点を持つものであって、それは教会に引き継がれ、実際にいろいろな形になって現れています。カトリック信者の信仰を守る司牧と兄弟愛から、異教者に救い主キリストを告げ知らせる根本的な福音宣教に至るまでのこと、あるいは、全面的な主との交わりに入るよう後押しするカトリックでないキリスト者と付き合う一致運動から、洗礼を受けていてもその恵みを放棄し、キリストの教えを受け付けないキリスト者に、改めてキリストを告知し、その教えを伝える新福音宣教に至るまで、種々の形があるのです。オプス・デイの信者は、全面的に世俗の人ですから教会の唯一の〈使命〉のこれらのさまざまな分野を、全面的に引き受けるよう招かれているのです。

聖ホセマリアは執拗に繰り返していました。「私たちは使命のある宣教師ですが、宣教師とは呼ばれません。ローマやニューヨーク、パリやメキシコ、東京やブエノス・アイレス、リスボンやマドリード、ダブリンやシドニーの整備された通りでも、アフリカの真ん中でも、同じ宣教師なのです。」[10] 信仰を伝える必要のあるところは、伝統的に「宣教国」と呼ばれていた国々だけのことではなく、悲しむべきことに全世界に及んでいます。私たちは、この大きな仕事に取り組まなければならないのです。

しかしこの責任を考えるだけに留まってはなりません。一人ひとりが自分はどのように貢献できるかを考えるべきです。さらにそれ以前に、私たちの振る舞いにどれぐらい信仰が反映されているか、またこの偉大な宝を日々感謝しているかどうか、もししているなら、人々にこの偉大な宝を伝えるようにしているかどうかを糾明しなければなりません。皆がよく祈るためにadáuge nobis fidem(ルカ17,5);(私たちの信仰を増してください)と、主に心を挙げて願いましょう。また、私自身が自己を聖化し、人々を聖化しながら働くためadáuge mihi fidem(私の信仰を増してください)と願いましょう。 私の友情がキリスト教的な意味を持ち続けるためにも祈りましょう。模範こそが最もよい宣教師であることを忘れないようにしましょう。Cœpit fácere et docére(使徒言行録1,1参照)行い、そして教え始められた、というイエス・キリストの足跡をたどることです。

確信しましょう。多くのところで「洗礼を受けている人たちも含めて改めて教えを告げ知らせることが必要です。現代の多くの人が(・・・)、キリスト教のことを知っていると信じていますが、実際には知っていないのです。ほとんど信仰の基本的な知識さえ知らないでいます。」[11] 私たちは自分の生き方と教理的形成でこの現状に立ち向かわなければなりません。悲観的になることなく、主がキリスト者を、神の子であることを自覚している私たちを、使徒職に促しておられますが、この使命を遂行するには、置かれた環境や場所の状況、一人ひとりが出会う人たちによって、異なったやり方があることを考えに入れておきましょう。どんな場合でも、周りの人や付き合っている人たちを、キリストに近づけるようにしなければなりません。救い主とはどんな方かを伝えたり、救い主に再会するよう仕向けたりしながら、世の流れに逆らわなければならないとしても、主に従って歩むよう助けることです。

9. 何と偉大な仕事が待っていることでしょう。謙虚に、聖性の熱意を持ち、何よりも私たちの模範で人々を導かなければなりません。個人的な惨めさを持ちながらも、私たちは、主がお望みの世を照らす光となるよう、本物のキリスト者として振舞う努力を片時も忘れないようにしましょう。たとえ物的、あるいは社会的な損失を招くことになるとしても、カトリック信仰と両立し得ない点に関しては、周りと衝突することすら恐れてはなりません。「私たちキリスト者は、世の流れに逆らって歩まなければならない、という信念を自分のものとし、人々にも納得させてください。イエスは流れに逆らって歩まれたのです。ペトロと初代信者もそうでした。幾世紀もの間、多くの人々が絶えず神なる師の弟子として歩むことを望みました。ですから、イエスの教えを時代に合わせるのではなく、時代こそ救い主の光で照らし出されるべきだと強く確信してください。」[12]

それゆえ、贖い主に目を移し、私たちに平和を与えてくださるように、また無理解を後押ししている人たちを許し、愛することができるようにと願い、教会と位階制を、またカトリック信者を晒しものにしようと執拗に攻撃する人々のために、私たちは執拗に祈り続けましょう。個人的な弱さを自覚し、倦むことなく、悪に善をもって報いることを捜し求めましょう。私たちは神と一致しているのですから、信仰を迫害しようとしたり、信仰を香部屋や私生活の分野だけに閉じ込めたりしようとしている人々をも、愛しましょう。

他方、世間体を気にして使徒職の熱意にブレーキをかけてはなりません。たとえ、個人的な弱さや手段の不足に対する現実的な考えに囚われてはなりません。私たちは自分の力ではなく神の恩恵に頼っているのですから、ómnia possum in eo, qui me

confórtat(フィリッピ4,13), 私を強めてくださる方のお陰で、私には全てが可能、なのです。このことについてオプス・デイ創立者はこうコメントしていました。「皆が祈りのうちに一致していること。これこそ(・・・)、私たちの喜び、私たちの平和、私たちの落ち着きの源泉です。そして、私たちの超自然的な実りの源でもあります。」[13] そして他の折にこう述べています。「他にどのような助言をすべきでしょうか。昔から、まじめにキリストに従う信者が使ってきた方法、キリストの励ましを感じながら初代の信者が講じていた手段、これらが私たちの手段です。聖体にまします主との絶えざるつきあい、子供のように任せきって聖母に馳せよること、謙遜、節制、感覚の犠牲(・・・)、そして償い、など。」[14] 全能の主を信じきる固い信仰が必要です。聖ホセマリアの楽観的でゆるぎない態度を説明するのは困難です。多くの文書の中でも、詩篇のin lúmine tuo vidébimus

lumen(詩篇35/36,10)あなたの光に、私たちは光を見る、という言葉に励まされていたのです。主と一緒なら暗闇は全く消え失せてしまうからです。

福音の原点に戻ること

10. ヨーロッパは、過去に度々、難しい転換や危機の時期を経験しました。しかし「いつも汲み尽くすことのできないいのちの力を保持している福音から新たな活力を引き出して乗り越えました。」[15] 1995年の福者ヨハネ・パウロ二世のこの言葉は、私たちに進むべき道を確信させてくれます。他の道はありません。信仰の源泉に赴き、伝えられたいのちの泉にどっぷりとつかり(このためオプス・デイでは私たちに教理的形成を与えるのです)、そして、あらゆるところで男性も女性もがキリストとの交わりを持つようにするのです。

聖ホセマリアは「信仰を生きることは信仰を人々に伝えることでもある」と確言していました。そのためには、人々と共に歩まなければなりません。道すがら、キリスト教に対する彼らの問題に耳を傾け、彼らを理解するようにしなければなりません。そして、彼らが、いつも理解されていると感じ、私たちの会話で照らされるようにするのです。このように人々と共に歩みつつ、細やかに愛情深く、福音つまり主の生きたみ言葉を彼らに伝え、理性と信仰を調和させ、またあらゆる疑問に応え、人々の不安を解消するキリスト教精神の素晴らしさを示します。こうして、彼らが秘跡を望み、受けるように仕向けていくのです。

多くの場合、人々のうちに恩寵は超自然の建物の土台を築いていきます。人々は善をなし、連帯を深め熱意を持っているこの機会に、新しい世代の人たちが、といっても彼らだけではなく皆が、救い主と出会うようにします。言葉の賜で主の教えを伝え、人々がキリスト者としてしっかりと歩むことができるまで基礎固めをするために少しずつ坂道を登るように導いていくのです。

初代信者の模範

11. しばしば繰り返しますが、十二使徒と信仰上の初期兄弟たちの生活態度を振り返ってみることです。少人数でしたし、人間的な手段に不足していました。その中には、少なくとも、偉大な学者とか社会的に著名な人とかの姿は長い間見られませんでした。彼らは、無関心主義に囲まれ、価値観を気にしない雰囲気の中で生活していました。多くの面で、今の私たちが遭遇しているのと同じです。しかし彼らは恐れませんでした。「彼らは出会う人、伝道旅行や巡礼でさがし求めた全ての人と素晴らしい対話をしていたのです。もし使徒たちと当時の人たちとの間に超自然的会話もなかったなら、今の教会はなかったでしょう。」[16] 彼らと同時代の人たちは、神の恩恵に触れ、心の底から変容されたことを実感したのです。それは、これまでに聞いたこともないより完璧な新しい宗教に出合ったというだけのことではありません。彼らは信仰によって、イエス・キリストを見出し、彼らのためにご自分をいけにえとしてささげ、彼らのために天国の門を開くため復活された、神であり人間であられる主を夢中に愛しました。この前代未聞の出来事は初代信者の心に深く刻み込まれ、あらゆる試みに屈することのない剛毅を植えつけました。2世紀半ば聖ユスティノが簡明に記しています。「ソクラテスの教えに生命をかけてまで信じた人はいませんでした。しかし、キリストのために、職人や無知な人に至るまで、世の意見だけではなく、死さえも恐れることはありませんでした。」[17] 

救いを熱烈に望みながら、どこで救いを得ることができるのかを分からずにいた世界で、キリスト教の教えが暗闇に点された光のように道を拓いたのです。あの初代信者たちは、自分たちの振舞い方で、市民仲間に救いの明かりを輝かせました。そして、人の目を引くことなく、信仰に首尾一貫した行いで、単純で自然に、キリストの使者になったのです。彼らの一人が述べています。「私たちは偉大なことは言いません。しかし、それを作り上げます。」[18] そして異教世界を変えたのでした。

福者ヨハネ・パウロ二世は、2000年の大聖年を迎える準備として全教会に使徒的書簡を送り、説明されました。「キリストにおいて、宗教はもはや『手探りによる神の探求』(使徒言行録17,27参照)ではなく、自らを明らかにした神に対する信仰の応答です。それは人間が、創造主、御父である神に語りかける応答です。この応答は、一人の人間が御父と一体であるみことばでもあることによって可能になりました。キリストにおいて神は全ての人一人ひとりに語りかけ、個々の人間はまた、キリストにおいて神に応答することが可能になったのです。」[19] 信仰の問題

12. この言葉に基づいて、社会の新たな福音化の仕事に休みなく励む必要性に対して、もうひとつの提案をしたいです。何よりも堅固な信仰と希望が必要です。つまり、三位一体との交わりから得ることができる信念があれば、人々の活動全てを主の栄光に帰し、人々に改心をもたらし、現代社会の方向を変えることができるのだ、という確信を持って毎瞬歩むことができます。確かに戦いや苦しみに欠けることはないでしょう。しかし、いつもin laetitia, 喜んで信頼を持って前進します。「求めよ、私は国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」(詩篇 2,8)、という神の約束があるのですから。

繰り返しますが、使徒達を眺めると心底感動します。キリストへの信仰以外の手段はありませんでしたが、確とした明るい希望に励まされて、当時知られていた地方一帯に散って行き、キリストの教えを伝え広めたのです。聖ホセマリアは、使徒達の祝日をどれほど喜んで祝っていたことでしょう。また、在世中のイエスのお供をしていた聖なる婦人たちの祝日もそうでした。使徒達、マグダラのマリア、ラザロ、ラザロの姉妹・マルタとマリアの姿に心を奪われておられました。この一人ひとりから、全てをイエス・キリストにおいてよりよいものにすることを、また、主を愛し主とつき合った彼らの熱心さで主を愛することを、学ぶことができます。私たちと同じように、彼らにも惨めさがあり、当時知られていた国々の人口に比べたら、ほんの僅かな人数であったにも関わらず、日常生活の模範と、人を励ます言葉で、神のもたらされた種を播き広めました。

創立者が、難しい環境での使徒職について話すときの力強さを思い出します。「信仰の問題です」と確言しておられたのです。そうです。信仰が問題です。福音書で主が話しておられる山をも動かす(マタイ17,20参照)信仰、そして岩山を流れ落ち海に至るまで流れ続ける川のように(詩篇103/104,10参照)、あらゆる困難を乗り越える信仰が必要です。ですから、皆さんに尋ね、私も自問します。いつでも使徒職の時だと自覚し、どのような信仰で使徒職活動していますか。聖ヨハネが「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(1ヨハネ5,4)と言っていることを、本当に納得しているでしょうか。この信念に従って振舞っていますか。障害に対して、勝利を確信して、楽観的に対峙していますか。そして、そのため、祈りと犠牲を支えとして、個々の具体的な使徒職活動に取り組んでいますか。周りにある障害に怖じけることなく信仰を証ししているでしょうか。

主に、もっと度々「信じます。信仰のない私をお助け下さい」(マルコ9,24)と、繰り返しましょう。聖ホセマリアは、あの悪霊に取り付かれた子供の父親のこの願いに、心の底から感動していました。対神徳を強めてくださるよう主にお願いしている私たちのやり方で十分であると満足してはなりません。聖ホセマリアは、信仰が超自然の賜であり、人々にそれをもたらし強化してくださるのは神だけであることを確信しており、あるとき次のように言いました。「毎日、一度だけではなく、何度も何度もそれを繰り返します(・・・)。使徒たちがお願いしたことを何か申し上げます(・・・)。adáuge nobis fidem!(ルカ17,5), 私どもの信仰を増してください。私はそれにspem希望, caritátem愛徳を加えて、私たちの信仰、希望、愛徳を増してください、とお願いします。」[20] 強力な支え

13. 教皇ベネディクト十六世は、いろいろな機会に、現代の矛盾点を指摘していらっしゃいます。「現代世界の多くのところでは、不思議なことに、神が忘れられています。神がいなくても、何も変わらないかのように考えられています。けれどもまた、人は、誰に対しても、また、全てのことについて、苛立ちと、不満を感じています。人々はこう叫んでいるかのようです。『人生がこのようなものであるはずはない。』実際、人生がそのようなものであるはずがありません。また、神の忘却とともに、ある種の宗教が流行しています。私はこの現象の様々な形態を全て批判するつもりはありません。こうした発見にも真の意味での喜びがあるかもしれません。しかしながら、それを突きつめるならば、宗教はあたかも消費財のようになってしまいます。人は自分の好みのものを選び、人によってはそこから益を得ることもできるでしょう。けれども『自己流』のやり方に基づいて造られた宗教は、最終的に私たちを助けてくれるものではありません。それは便利なのかもしれませんが、私たちが危機に遭ったとき、それは私たちを助けてはくれないのです。」[21] そして教皇様は結論として次のように勧めておられます。「私たちに道を示してくれる、本当の星を見つけられるように、人々を助けてください。その道とは、イエス・キリストです。」[22]

相対主義と寛容主義が社会の大半を占めているような時代にも関わらず、現代人の多くが永遠を渇望しています。多分、一時的なことに満足しようと無益に努めていたことに気づいたのでしょう。聖アウグスティヌスのあの言葉には何と偉大な真理が隠されていることでしょう。「主よ、御身は、私たちをあなたのためにお造りになりました。私たちの心は御身に憩うまで休まることがありません。」[23] 実際、人間の霊的な憧れに全面的に応えられるお方は神のみです。ですから、いろいろな祈り方に頼って、より熱心な祈りの人になることを誠実に望み、信心深い人になりましょう。祈りこそ真の慰めを与えるものです。ミサ聖祭にはカルワリオのいけにえを秘跡的に現存させることを確信して、深い信仰をもって赴きましょう。ミサ聖祭は、私たちに救いをもたらし、聖性を目指す日々の戦いを活きいきとしたものにしてくれます。

14. 聖ホセマリアが、聖変化のとき、全身全霊を集中していた信仰と信心、潜心は深い感銘を与えていました。日々、神秘的な実体変化と御子が人々のために聖霊とともにご自分の全存在を御父にささげられたことを改めて感謝し、信心を新たにしつつ、驚嘆していました。聖変化のときはIpse Christus, キリストご自身だと考えていたと言っても大げさではないと思います。創立者は、そこから使徒職活動のための力を汲み取り、実りもたらしていたのです。同じように燃え立つ信仰をもって、ご聖体を受ける前に、洗礼者ヨハネのecce agnus Dei! という言葉を繰り返しつつ主を観想していました。全カトリック信者にキリストと一致することが必要なことを勧め、子供たちや司祭にそれを繰り返していました。というのも主が私たちを招いたのはそのためであり、またそうすることで人々を愛であられる神に導くことができるからです。創立者のように、実体変化の時に私たちの信仰が現実のものとなり、一日を一つのミサにする強力な助けとなるようにしましょう。

私たちは、神が私たちを頼りにしておられることを、日々、使徒職の熱意を新たにするための強力な支えにすることができるし、またそうしなければなりません。私たちはそのことに促されて、超自然的な希望と楽観主義に満ちて、周りの人たちに仕えるように奮い立たなければなりません。「キリストの光とキリストの熱意、そしてキリストの苦しみと救いを、同僚や友人、親戚や知人、未だ見知らぬ人に伝える望みを燃え立たせ、この世の事柄に対してどのような意見を持っているとしても、全ての人を兄弟愛で包み込むため、それを実現するよう努めなければなりません。そのときこそ私たちはルビーのように真っ赤に燃え立ち、取り得のない、貧しく惨めな炭であることから抜け出し、神の声、神の光、霊降臨の火のようになるのです。」[24] 優先すべき分野

15. 知性を照らす使徒職を、世界中でいつもしなければなりません。真理を「伝える」ために真理について「話すこと」です。これは全ての使徒職の要約です。人々の知性と心を光に向かわせてくださるよう、謙遜に、執拗に、信頼をもって、倦むことなく神にお願いしましょう。多くの人が、東方の賢人たちのように「東方でその方の星を見たので、拝みに来た」(マタイ2,2)、と繰り返しています。キリストを信じている私たちが、信心生活に裏打ちされた誠実な友情をもって、すなわち皆に愛徳をもって理解を示し、愛情深く振る舞うなら、私たちに自分の望みを明かすでしょう。そしてまた、様々な分野で善のため働いている多くの人々にも感謝することでしょう。

ベネディクト十六世は、賢人たちの態度に感嘆されて、こうコメントしておられます。「彼らは、宮殿ではなく、ベトレヘムの貧しい小屋に赴き、母親に抱かれた単なる赤ちゃんの前に額ずいて礼拝したのです(マタイ2,11参照)。どうしてそのようにできたのでしょうか。どうして賢人たちはあの赤ちゃんが『ユダヤの王』でありまた諸国の王であると納得できたのでしょうか。神なる幼子のいた小屋の上に止まった星が、『出発のとき』見た星と同じものであることを確信したからです(マタイ2,9参照)。

しかし、もし賢人たちが心から真理を求める人でなかったなら、星は何の役にも立たなかったでしょう。権力欲やこの世の富に取り付かれていたヘロデ王と違い、賢人たちは、捜し求めている目的目指して歩みを進め、幼子に出会うと、知識人であったにも関わらず、ベトレヘムの羊飼いたちと同じように振舞ったのです。あのしるしを認め、神なる幼子を礼拝し、持ってきた象徴的な素晴らしい贈り物を献上したのです。」[25]

「主は全ての人々に向かって、ご自分との出会いを求めるように、聖人になるようにと語りかけておられます。賢人であり、権力もあった博士たちだけをお呼びになったのではありません。その前に、ベトレヘムの羊飼いたちに、星ではなく、天使をお遣わしになったのです(ルカ2,9参照)。とは言え、貧しい人も富んだ人も、賢人もあまり賢人でない人も、神のみことばを受け入れるための心構えを持たねばならない」[26] ことを忘れないようにしましょう。

16. この使徒職の仕事は、特別な資格を必要とする分野で働いている人たちだけのものではありません。いつも大きな効果をあげるのは、一人ひとりのキリスト者が普段の生活の場所で繰り広げる個人的な使徒職です。ですから、人々を神に近づけるためにどのように人々の手助けをしているのでしょうか。個人的に深い糾明をするようお勧めします。どのように祈り、どんな犠牲を捧げているのでしょうか。最後まで仕上げた仕事を何時間お捧げしたでしょうか。友達や親戚、知人たちと、直接、また手紙で、どんなやり取りをしたでしょうか。一緒に住んでいる人たちが、この聖なる心遣いに目覚めるよう助けましょう。キリストの教えの効果を信じることで、私たちは、兄弟姉妹によりよく仕え、もっと彼らを愛するように仕向けられるはずです。誰に対しても無関心でいることはできません。

知性を照らす使徒職は、前述したように皆の務めです。ところで、新たな福音宣教が急を要する分野が数多いことを忘れてはなりません。今、優先的にキリストの教えを染みとおらせるべき特別な環境が幾つかあります。政治家、科学者や研究者、報道関係者などの仕事を一瞥するだけで十分でしょう。男性も女性も全ての人が主のみ声を聞き、それに従う必要性を実感しています。私たちもそうです。

福者ヨハネ・パウロ二世がこう述べておられます。「現代人にとって戦いは、世俗精神が猛威を振るっているところでは熾烈を極めています。」そしてそれは「『アレオパゴスの現代版』つまり新しい説教壇」を作り出しています。「これらのアレオパゴスは、現代の科学や文化、情報伝達手段の世界だと言えます。それは、知的なエリートたちが生まれる環境であり、作家や芸術家の環境です。」[27] 研究と教育

17. 常に全ての人に関心を持たなければならないとしても、知的階級の人々に福音を伝えることの重要性を誰もが承知しています。あなた方は世の光にならなければならない、vos estis lux mundi (マタイ5,14) という言葉は、皆が思い起こさなければなりませんが、特に大学等の研究所で働いている人たちには、それを熟考する義務があります。事実、その職業によって、彼らは再福音宣教の最前線に立っているのです。聖ホセマリアは、1928年以前から知識人たちとの使徒職を熱心に推進し、こう書いています。「大学の最高の使命は、人々への奉仕であり、所在地で社会のパン種になることです。」[28]

これは、このような環境で活動している人たちが従うべき使徒職の指針を明白に示している言葉です。パン種になること、光とぬくもり、しかも福音の光と暖かさを伝えることです。友人や同僚、生徒たちが、教会の教導職に徹底して従いつつ、キリストの福音を、心にしっかりと刻み込み、それに即して振舞うことができるようにするためです。そうすることで文化面での福音宣教に貢献することができます。「あなたは神への愛と救いへの熱意を人々に移さねばならない。大勢の心を燃え上がらせ、その人たちがまた、それぞれの職場の仲間にも同じようにすることができるためである。

そのためには、莫大な霊的カロリーが必要となる。あなたが冷たくなったとすれば、何と重大な責めを負わねばならないことだろう。さらに考えたくはないが、万一、悪い手本を示したりすれば、何と恐ろしい罪になることか。」[29]

初代信者の模範に倣って、人間の尊厳とイエス・キリストにおいて神の子の光栄に召されている目的にふさわしい(2コリント3,18参照)、新しい文化、新しい法令、新しいファションを生み出そうと、世界中の多くの人々や研究所が挑んでいる健全な挑戦を空回りさせることはできません。私たち皆がその実現のため祈り、寛大に協力すべきならば、大学教授や研究者は、その職業上のあらゆる機会を一つひとつ活用してそれを推進するため、強い責任をもって忍耐強く頑張らなければなりません。この文脈において、信仰は、私たちが真理を目指して前進するための支えであり、この徳の強さそのものによって、全ての環境に信仰もたらし、私たちを取り巻く人々が信仰を受け入れたり、信仰を深めたりするよう熱望しています。

18. 大学教授や他の学者の仕事にとって極めて大事なことは研究調査です。この務めにおいて、真理の探究と伝道を目指すキリスト信者は、分裂や相対主義を乗り越えた知識形体を作り出す熱意があるから、教義を伝えるきめ細かな使徒職を展開する機会を絶えず見つけ出すことができます。研究のテーマや広範な教育の分野において、信仰の観点からみると、「中立」はあり得ません。私たちの全ての行為は、図式的な化学の授業に至るまで、キリストの王国を広めるのに協力するか、しないかのどちらかです。「科学に必要な客観性は、あらゆる概念的中立、あいまいさ、順応主義、臆病を全て排斥します。真理への愛は命と科学的な仕事全体に関わることです。」[30] 教授や研究者が、神に光栄を帰し、人々に仕えることを望んで働くとき、話を聞いたり、その仕事の影響を受けたりする人々は、彼からキリストの良き香を感じ取るに違いありません。というのも彼が一貫してキリスト者として振る舞い、学生や同僚たちのために寛大に時間を割き、正しい意向で仕事に従事し、弟子たちを教え導き、知識を伝える熱意をもって自分の職業に携わるからです。

他方、このような知的な仕事は、内外の著名な研究者たちと関わりを持つのに好都合で、誠実な友情を築く糸口になります。それは、まさに個人的な使徒職が自然にできる環境です。その研究過程で、少なくとも重要で基本的な道徳を尊重するよう仕向けることができるからです。

このように新たな福音宣教に重要な分野で働き、責任を自覚しているカトリック信者は、自分の専門分野に関して、可能な限り報道手段やフォーラムを通して、正しく堅固な教義を、どのように伝えるかを模索すべきです。新聞に寄稿することや、ラジオやテレビの番組に入り込んだり、インターネットを介したりして、文化的な活動に参入し、公開討論のテーマについて科学的に公認された意見を紹介することなどです。また通信事業や新聞社を運営している、またそこで働いているカトリック信者は、紙面や映像が高尚で正確であるように、またそこで繰り広げられることが、清く正しいものであるよう努めなければなりません。

このような分野に関わっている人たちは、自分の能力を全開させる責任を感じるべきです。そして、他の多くの人が、物的な仕事やあまり目立たない仕事を神への祈りに変えようと努めていることを忘れてはなりません。彼らは、社会の指導的立場にある人たちが、責任をもって自分の役務に当たり、神がその成果を求められているということを自覚するようにと願っているからです。ですから、人知れず働いている人たちに感謝しなければなりません。聖ホセマリアのコメントを思い起こすことにしましょう。大学教授と建物の保全管理に当たっている人と、どちらが重要な存在でしょうか。そしてためらうことなくこう答えていました。深い信仰をもち、聖性の熱意をもって働いている人です。

信仰と理性の調和

19. 神の子であると自覚している私たちは次のことを述べ伝えるべきです。「理性と信仰が互いに競合する理由は何もありません。一方は他方を補完し、また両者ともに固有の活動領域を持っています。(・・・) 神と人間とは、それぞれの世界にあって唯一の関係にあります。万物の起源は神にあり、神の中に秘義の溢れるばかりの全体が集約され、そこに神の誉れがあるのです。人間には、その理性をもって真理を探究する義務があり、この義務が、実に人間を貴いものとするのです。」[31] 

聖ホセマリアの視野は全面的に今も通用します。「科学的探究で得た知識をベースにして信仰と理性の間にはいかなる対立もないことを示さなければなりません。」[32] 両者の間には全面的な一致がなければなりません。この二つの知識の分野はともに神からくるものであり、創造主の「ロゴス」(みことば)、つまり人となられたみことばからくるものであります。

ヨハネ・パウロ二世は、使徒的書簡「新千年紀の初めに」で、こう述べておられます。「キリスト教的あかし、特に、デリケートで議論の余地のあるこの分野において効果的なあかしを立てるためには、教会の立場を的確に説明する努力が重要です。何よりも、このあかしは、信仰を持たない人に信仰の価値を押し付けるためでなく、人間存在の本質そのものに根ざす価値を説明し、弁護するためである、ということを強調すべきです。こうして愛は、必然的に、文化、政治、経済、家庭に奉仕することになるでしょう。なぜなら、人間存在の意義および文明の未来がよって立つ基本的原理が、いたるところで尊重されるようになるからです。」[33] このためには「言葉の賜」が必要です。それは信仰をもって聖霊に頼み、人間的な手段を講じるなら、与えられます。

周知のように、教会は、信徒が、カトリック教義をわきまえ、一市民として、自分の職業で、全く自由に、他の市民たちと同じように振舞うことを認めています。人間的な問題等に対して感受性を鋭く持って、しっかりと育てられた正しい良心に従って、超自然的な見方でそれらの問題を判断し、キリスト教に基づいた解決方法で検討することによって、個人的な使徒職の責任を燃え立たせ、科学的な論議によりもっと人間的、常にキリスト教的な解決策を推し進めることができるようになります。ですから、夫々の科学的、人道的な分野で、特に教義的倫理的に重要な面を持つ仕事において、真摯に取り組むことが大切です。道徳的な危機に見舞われている現代社会、そして福音宣教での持続的な必要性によって、いつにもましてキリスト者の研究者たちはこの仕事に譲歩せず、これらのテーマの探求をコンスタントに続け、現代社会の諸問題の正当な解決を図ることが、もっとも緊急なことになっています。

公衆道徳

20. 福音宣教を優先的に進めるべきもう一つの分野は公衆道徳です。人々や全社会でキリストの影響を妨げる最も大きな害毒の一つは、官能的な高波です。それは、習慣や法律、ファションや報道機関、芸術界に蔓延しています。この害毒の攻撃に対しては、祈り、償い、そして人々を祈りに招き償いを促すこと、さらにキリスト者としてまた人間としての責任から、カトリック信者や他の多くの善意の人々に、何らかの手立てが必要だと気づかせ、動員しなければなりません。嘆くことだけでは何の役にも立ちません。ましてや、人に嫌な思いをさせたくないと無関心をかこつことなど言語道断です。いつも、社会の隅々にまで影響を与える使徒職に、また、まず自身の生活、自分の家庭、自分の職場から始めて、社会を根本的に変容させるための仕事に、張り切って精を出すのにふさわしい時です。

異邦人の使徒の勧めに耳を傾けましょう。「神から頂いた恵を無駄にしてはいけません。なぜなら『恵の時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵の時、今こそ救いの日」(2コリント6,1-2)。キリスト者は信仰の確実さをもって振舞わなければなりません。巷に見られる神の法を無視したあらゆる事柄を健全なものにするためには、体面を繕ったりせず、信仰に全幅の信頼を寄せていることが周囲に知られることを恐れたりせずに行動することが必要です。ベネディクト十六世が度々述べておられるように、取引できない価値があるのです。「受胎の瞬間から自然死にいたるまで、人生の各瞬間を守ること、男女間の結婚に基づく一致によって始まる自然な真の家族構成を再認識し、推進すること、そして、それを異なる形式の家族構成を法的に認めようとすることから擁護すること。実際、この異質な家族構成は、正当なものに悪影響を及ぼし、混乱させ、社会的な特別で代替不能な家族の特質をあいまいなものにします。それから子供たちを養育する両親の権利を守ることです。」[34] 

教皇様はこう明言なさいました。「これらの原則は、信仰箇条ではありませんが、信仰によって新たなスポットが当てられ、堅固にされます。それは人間の本性自体に刻み込まれており、それゆえ、全人類共通のことです。それを推進する教会の動きは、信仰を宣言させるものではなく、入信とは無関係に、全ての人々を導くことです。これらの原則が否定されたり歪曲されたりすることが多くなればなるほど教会のこの動きが必要になります。なぜなら、人としての真理に反することであり、正義そのものをいたく傷つけるからです。」[35]

21. 同じ考え、同じ動機で、教会の教えの基本点を擁護すべきです。というのも、宗教色なしの市民社会にしようと躍起になっている人々のグループが執拗に教理を攻撃しているからです。その例は、イエス・キリストを取るに足りないものにしようとする野蛮な攻撃から、教会と司牧者や諸団体を中傷することに至るまで、枚挙にいとまのないほどです。

キリスト者としての召し出しにふさわしい生き方を望む信者の役目は、人々にキリストを示し、特に世論に広まっているテーマに関する教会の教えを、まず模範で、そして時宜を得た言葉で伝え広めることです。ドン・アルバロの鮮明な説明が記憶によみがえります。「まず自分の家をきれいにすることが必要なように(・・・)、一人ひとりが、キリスト信者に最適のこの役目にどれほど気を配っているかを糾明しなければなりません。」[36] これは、初代信者に対する使徒パウロの教えがこだまとして聞こえる言葉です。「神のみ心は、あなた方が聖なる者となることです(・・・)、おのおの汚れのない心と尊敬の念を持ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。(・・・) 神が私たちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」 (1テサロニケ4,3-7)。

現代は、聖パウロのこの勧めがぴったり当てはまる状況にあります。事実、全てを巻き込もうと襲い掛かってくるねばねばと汚れた世の荒波を跳ね返すことは、もし私たちに些かなりとも世の流れに共鳴する思いがあるとしたら不可能になります。「あなたの心の中で煮えたぎり湧き上がる邪悪、芳香を放つ腐敗をもってしても、キリストご自身があなたの心にお与えになった数々の偉大な理想や崇高な命令を押し流してしまうことはなくなるのである。」[37] 

同じように強調しているナシアンズの聖グレゴリオの言葉を、福者ヨハネ・パウロ二世が、司教の使命に関する使徒的勧告で引用しておられます。「まず自分を清めなければなりません。それから、人を清めなさい。まず自分が知恵に学び、それらの知恵でもって人を教えなさい。まず自分が光となり、それから人を照らしなさい。まず自分が神に近づき、それから人を神へと導きなさい。まず自分が聖なる者となり、それから人を聖化しなさい。」[38]

私たちは、他の人よりも優れているなどと思うことはできません。そうでないのは確かですから。何度も、自分の状況をイエス・キリストの教えに照らし合わせて、できる限り完璧にみ教えに沿うようにやり直すことが必要です。私たちはまず、自分の考えや計画、言葉や仕事、最も小さなことにいたるまで、神のお望みに一致させようときっぱりと決意し、内的闘いに取り組むことが急務です。「戦いの前線は私たちの内に、つまり情欲にあります。内的戦いをする人は罪の機会や、信仰を弱らせ、希望を失わせたり愛徳を損なわせたりすることをきっぱりと払いのけようと気を配るものです。」[39]

22. これはいつも糾明すべきことですが、この信仰年の日々にはより力を入れるべき点です。聖性の戦いはどうなっているでしょうか。個人的な霊的指導での勧めを具体的に掘り下げて実行しているでしょうか。度々主の許に赴き、小心に陥ることなく、細やかな良心にしてくださいと嘆願しているでしょうか。魂の城壁にある小さな亀裂を発見するためです。敵はそこを通って入り込もうとし使徒職の効果も低下させるのです。新しい戦いのポイントに出会う可能性に喜びあふれていますか。神の恩恵に支えられて、決然とスポーツ選手の心で立ち向かうためです。

 Non enim vocávit nos Deus in inmundítiam sed in sanctificatiónem (1テサロニケ4,7)、「神が私たちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」。幾つかの報道機関が他の事を教え込もうと望んだり、まず私たちの無秩序な傾きによる複雑さで、あらゆるタイプの逸脱があったりしても、行動を清めるための戦いは常に魅力あるものでありまた可能なことです。ですから、あらゆる環境で、この目標からはほど遠いと思えるような人々にも、一人ひとりにこの理想を提案することができるし、またそうしなければなりません。荒波や暴風に見舞われている今の世で、一人として拠り所を求めない人はいません。確かにこれは新しい状況ではないのです。キリスト信者として私たちは、多くの人が無意識のうちに望んでいる安全な道を歩む者として、それを伝えることができます。主の戦場で戦いつつ前進していきましょう(1マカバイ3,2参照)。in hoc pulchérrimo caritátis bello, この麗しい愛の戦いの結果、主の愛に忠実な人々のために、主が勝ち取ってくださった全面的に信頼できる幸せを手に入れるのです。

23. ベネディクト十六世は、最近、「信仰年」に関して司祭と司祭志願者に話し、ゆるしの秘跡にあずかることの重要性を強調し、こうお話になりました。「和解の秘跡の実行自体が告知であり、それゆえ、新福音宣教のために歩むべき道なのです。

どういう意味で、ゆるしの秘跡が、新福音宣教の「道」であると言えるのでしょうか。何よりも、新しい福音宣教は、教会の子らの聖性から、すなわち、キリストとより深く一致するため個人と共同体が日々回心することを通して実りあるものになります。聖性はゆるしの秘跡と緊密につながっています。それは、歴代の全ての聖人が立証しています。真実の回心とは、私たちを変え、私たちを新たにする神の御働きに全てを委ねることです。これこそあらゆる事を改善に導く「原動力」であり、福音宣教のための真の力になるものです。ゆるしの秘跡において、痛悔した罪人は、神の無償の御憐れみによって、認められ、ゆるされ、そして聖化されます。つまり新しい人にしてもらうため、古い人から抜け出るのです。ただ、神の恩恵によって心の底から新たにされた人だけが、福音の新しい教えを自分のものにし、またそれを告げ知らせることができます。」[40] 家族制度

24. オプス・デイではいつも、神との父子関係に由来する楽観的な態度と超自然的な観点で生活すべきです。しかし、現代、快楽主義の波に最も脅かされているのは家庭であることを忘れてはなりません。特にこの状況からもたらされている深刻な害は、夫婦間の不忠実と若者が神の招きに耳を傾け、応え‐何よりも使徒的独身への招きに‐従うことに困難が増してきているということです。ですから現代は特に、社会のあらゆる階層で「逞しさと純潔の戦い」[41] が緊急に必要です。

この清さの戦いには、他の諸徳と同じように、肯定的な喜びである聖なる純潔を、各々が自分の立場で個人的に実行する細やかさが非常に大切です。また、友情と親しい語り合いの使徒職を通して影響を与えることも疎かにしてはなりません。さらに、様々な分野での研究はいつでも有益なものです。初代信者の模範にならって、世界中で多くの人や団体が、新しい文化、新しい法律、新しいファションなど先述した事柄の促進をどのように奨励するかについての研究です。

この野心的な目標を達成するには、祈りに堅忍し、懸命に働く必要があるでしょう。大きな望みを持ち、一人ひとりが目標達成の条件にしていることを現実に当てはめることです。一人ひとりが、自分の環境の中で、小さくとも肯定的な模範となり聖なる非妥協を実行して、私たちが考えているよりももっともっと遠くまで影響を及ぼすことができることを納得しなければなりません。聖ホセマリアが環境問題に関して使っていたたとえを思い出します。私が述べていることの説明に役立つと思いますからそれを引用します。

「最近、皆さんの年上の兄弟たちに、かつては度々船や網について話したが、今はどこでもエコロジーについて話したり書いたりしていると言いました。川や湖、あらゆる海で、水を採取し、それを分析するのに力を入れています。・・・

ほとんどの場合、分析の結果は悪いもので、魚はふさわしくない所に住んでいることになっています。

私たちが船と網について語り合ったときには、皆さんと私はいつもキリストの網とペトロの船、そして人々のことを話題にしたものです。主が『私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう』(マタイ4,19)と、仰せになっているのですから。ところで、これらの魚、つまりこれらの人間にありうることですが、世界中でまた教会内で起こっていることを見て、汚物に覆われているようなこの海、臭気に満ちているこの川には食べ物もなく、きれいな空気を吸うこともできないので、これらの魚たち―霊魂を有し知性のある人間ですから―は、次のようなことを思いつくでしょう。一跳びするだけで十分だ。外に出よう! ここで生きる価値はない。少なくとも岸辺に逃れ、口をパクパクして、よい空気を吸おう。これで十分だ。

いいえ、子供たちよ、これはよくありません。この汚れた世の真只中で、濁った海の中で、大都会や片田舎を流れる川の中で、生きなければならないのです。これらの川には渇きを癒し、力を取り戻させる水はなく、毒水だけが流れています。子供たちよ、私たちは、いつも通りで、世の中で、周りにきれいな水溜りを作るように努めつつ、過ごすべきです。それは、他の魚たちを呼び寄せるためです。水溜りを広げ、川をきれいにし、再び海の水質を高めるのです。」[42]

25. 今日蔓延している社会状況や倫理観と同じかもっとひどい環境の真只中で、退廃したローマ帝国の雰囲気を変えるという熱意をもって教会が始まりました。キリスト信者はいつもそのように働かなければなりません。人類社会をキリストの雰囲気で包み込むことを求めて決然と働くのです。

家庭においては両親がこの重要な役割を果たすかけがえのない存在です。その家庭を、また子供たちの教育を真にキリスト教的なものにするための両親の努力は、キリスト信者としての振る舞いの原点となり、多くの夫婦に影響を与える清い憩いの場になるでしょう。他方、そこから、神に全てをささげる司祭への、また教会内で様々な働きをする召し出しが、聖職者としての生活や世俗的な分野で生まれるようになるでしょう。また、聖ホセマリアが話していたように、新たな「輝く明るい家庭」が生まれるでしょう。

繰り返しますが、父親母親独自の権利によって、広い範囲にわたって様々な色調を帯びた個人的な使徒職を繰り広げることができるはずです。同じ様な問題を抱えた多くの人たちと、自由に提携し、共に、これらの明確な状況に対処していくのは当然です。娘たちや息子たちが人間として霊的にも成熟していくために、時間を活用して、ふさわしいレクレーションや娯楽、旅行や種々の活動などを推進することです。学齢期の子供たちを持つ夫婦は、その責任にぴったりの資格を持っています。教育的責任の重要な部分として、学校や若者のクラブの選択や推進、さらに、子供たちが通う学校の歩みに積極的に関わる重要性も明らかです。子供たちをふさわしく導くため、法律によってもたらされる全ての手段を駆使することです

長年、男女共学の有用さが宣伝されていましたが、近年、男女別学の小中学校のよさが脚光を浴びるようになってきました。これは新しい世代の形成のためにとてもよいことです。この仕事に関心を持って、法的教育的な側面からの研究とこの世論を普及させるよう努め、このように振舞うことの正当性と利益を示すことです。これは、女児や男児、少女や少年に敬意を示すことにもなり、また教育と人格形成にも効果のあることが承認されています。

26. この文脈において、同じ様に、自由を正しく解釈することが必要です。というのも、度々、この賜物が真理と密接につながっていることを考慮することなく、この自由の賜を、各瞬間に最も欲しいもの、またわがままを満足させたり安楽さを与えたりするものを選ぶことのできる単なる能力と取り違えているからです。自由は、人間の偉大な善ですが、罪によって弱まってしまいました。しかし、キリストが恩恵によってそれを癒し、超自然的で新しい真の自由という範疇に引き上げてくださったのです。それが神の子の自由です(ローマ8,18-19.21参照)。聖ホセマリアは、まさしく、人間に関する最も親密な真理である父子関係、父なる神の子供であることをよく知っており、心からそう感じていましたから、キリスト信者の自由について、特別に深く理解することができたのです。そして「自由、自由、と声を大にして叫ぶ人々の欺瞞」を警戒し、忠告していました。「そのような叫びは悲しむべき奴隷状態に陥っている証拠であることが多いのです。過ちを選べても自由であるとはいえません。私たちを自由にすることがおできになるのはキリストだけです(ガラテア4,31参照)。主のみ、道であり、真理、生命ですから(ヨハネ14,6参照)。」[43] さらにこう言っています。「自由が本当の意味をもつのは、救いをもたらす真理を得るために使うとき、あらゆる種類の奴隷状態から解き放つ神の無限の愛を疲れをいとわず求めるときなのです。」[44]

私たちキリスト信者は、責任ある市民として、自分の自由と人々の自由を守り育てるためにでき得る全てのことをすべきです。同時に、全ての人が新たな自由、つまりhac libertáte nos Christus

liberávit (ガラテア5,1), キリストが私たちにくださった自由を見出すように助けなければなりません。これは新しい福音宣教の急がれる課題の1つです。すでに思い起こしてもらったことですが、結婚生活を聖化しなければならない人々は、この使命を果たすかけがえのない立場にあります。ですから、一人ひとりに、責任をもって、結婚と家族についての正しい教えを広める義務のあることを強調したいと思います。

信仰を体験し実行する

27. 知性の使徒職であろうと、指摘したばかりの主要な分野であろうと、新たな福音宣教を遂行するために努力しているあらゆることは、しっかりとした信仰という土台に支えられていなければなりません。「信仰がなければ神に喜ばれることはできません」(ヘブライ11,6)と、聖書が明示しています。

キリスト者としての生活を始めさせてくれるこの対神徳は、知性に自由な同意を求め、神のみ旨に全面的に忠実であるよう導きます。この神のみ旨は、啓示された諸真理に表れており、それを確実なこととして受け入れるべきことは、創世記に記述されているように全ての被造物の善だけをお望みの創造主の権威に基づくものであると伝えています。それゆえ、信仰をしっかりと身につけ、実行することによって、いつも神を全面的に信頼するようになります。神は、私たちが責任をもって自由に全てを主に委ねる時、ご自分の命に与らせると確言されました。神ご自身との一致を目指す道としてこれらの真理をお伝えになったのです。

「このような観点から、『信仰年』は、世の唯一の救い主である主に対する誠実で新たな回心への招きです。神は、主の死と復活の神秘によって、完全な愛を示されました。この愛は、私たちを救い、罪のゆるしにより回心して生きるよう招きます(使徒言行録5,31参照)。聖パウロにとって、この愛は私たちを新しいいのちに促すものです。〈私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものになりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しいいのちに生きるためなのです〉(ローマ6,4)。信仰により、この新しいいのちは、復活の全く新しい姿に従って、人間の全存在を形づくります。」[45] 信仰の模範

28. ヘブライ人への書簡は、義人アベルを皮切りに、救いの歴史の中で、神を信じ、全精力を傾けて神を知り、神を愛して、主に一致し、命をかけて神に仕えた男女の姿を次々と示しています (ヘブライ11,4-40参照)。中でも際立っているのが、「私たちの信仰の父」[46]、アブラハムです。私たちは彼から、神に希望する者の剛毅をも学ばなければなりません。この信仰年の間に、私たちは信仰生活を強化すべきだからです。私たちを天に導く諸手段をますます確信し、至聖三位一体に信仰、希望、愛徳を強めてくださるようお願いすることです。

カルデアでウルの町を見たとき「アブラハムは主のみ声を聞きました。主は彼を祖国から、その民から、ある意味で彼自身からも、連れ出されたのです。それは、契約の民の未来、そして全人類にも及ぶ救いの計画の道具にするためでした。」[47] 太祖はためらうことなく直ちに出発しました。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数え切れない砂のように、多くの子孫が生まれたのです」(ヘブライ11,8-12)。

固く信じるという同じ偉業が新約聖書では強力により広範にわたって継続され発展しています。その中で聖母が比類なき教師として示されています。信仰によって「マリアは天使のことばを受け入れ、自分が従順に身を捧げることによって神の母となるというお告げを信じました(ルカ1,38参照)。エリザベトを訪ねたマリアは、神に信頼した人々のうちにいと高き方が不思議なわざを行われたことを賛美して歌いました(ルカ1,46-55参照)。マリアは喜びと不安のうちに独り子を産み、おとめであり続けました(.ルカ2,6-7参照)。マリアは夫ヨセフを信頼して、ヘロデの迫害から救うために、イエスをエジプトに連れて行きました(マタイ2,13-15参照)。マリアは同じ信仰をもって、宣教する主に従い、主と共にゴルゴタへの道を歩み通しました(ヨハネ19,25-27参照)。マリアは信仰によってイエスの復活の実りを味わい、全てのことを心に納め(ルカ2,19.51参照)、聖霊を受けるために上の部屋に集まっていた十二人にそれらを伝えました(使徒言行録1,14.2,1-4参照)。」[48]

それゆえ、マリアの信仰を黙想し深めることで、私たちが神にまったく依存していることが体験されます。また、どうやって素晴らしいことを行えるのかが分かるようになり、人生や教会、そして私たちが受け取った救いの協力という仕事にも思いもよらない展望を与えてくれるのです。このような展望は、人生の中でほとんど重要でないように見える些細なところまで広がります。神と共にいるのですからpóssumus! 何でもできるのです。しかし主と共にいなければ、nihil 何もできません。

十二使徒は、信仰によって全てをおいて神なる先生に従いました。初代の弟子たちも同じように振る舞いました。殉教者たちは福音を証しするため命を捧げました。そしてあらゆる時代の数知れないキリスト者がそうしましたし、近年においてもそうです。「信仰によって、いのちの書にその名が記されているあらゆる時代の人々が(黙示録7,9.13,8参照)、世々を通じて、自分がキリスト信者であることを証しするよう招かれたあらゆるところで、主イエスに従うことの素晴らしさを告白してきました。すなわち、家庭、職場、公共生活の中で、たまものや自分が招かれた職務の行使を通じて。」[49] 聖ホセマリアの模範

29. 教会の歴史に注目すると、逆境におけるキリストの民の信仰を改めて活き活きとさせ強めるために、神のみ手の道具となった男女が欠けたことはなかったことに気づきます。私は創立者の模範を思います。聖ホセマリアは、信仰における先達の生活や主への応え方を度々黙想していました。ですから、創立者は、太祖アブラハムのように、自分の気高い計画を放棄し、神のみ声に従って、世界中を駆け巡り、兄弟姉妹に「福音のように古く、福音のように新しい」[50] 教えを伝えたのです。つまり、神は私たち皆が、仕事と日常生活のあらゆる状況において、この世のあらゆる現実において、聖性を求めるように招いておられる、という教えです。創立者は、信仰と希望の人であり、司祭でした。主は創立者に、愛徳と一緒に、諸徳を非常に深く刻み込んで行かれました。この深い信仰、この偉大な希望を育むことによって、引き受けた使命を遂行することができたのです。今ではその精神に養われ、神の栄光を求める人々が、あらゆる年代、様々な民族や状況の中で、「天の星のように、海辺の砂のように」(創世記22,17) 計り知れない数にのぼっています。

聖ホセマリアの生涯は、私たちの毎日が、利己主義に譲歩することなく、信仰、希望、愛を実行するためのものにできるし、またそうすべきである事を示しています。私たちは、対神徳をどのように日々の振る舞いに表しているかを自問してみたらよいでしょう。あらゆる状況下で順調なときも、不都合に思えるような時にも、父なる神のみ摂理を見て取っているでしょうか。つまり、個人的な取り柄や人間的な手段がなくても、ómnia possibília credénti(マルコ9,23)、信じるものには全てができることを強く確信しているでしょうか。使徒職において楽観的でしょうか。聖パウロが言うようにómnia possum in eo, qui me confórtat(フィリッピ4,13)私たちの力であるキリストにおいて全てが可能であるという確信に基づいた超自然的な楽観主義を持っているでしょうか。

 おそらく、私たちは未だに対神徳を熱心に生きているとは言いがたい状態でしょう。聖ホセマリアの考察を当てはめることができるはずです。「私たちは信仰が足りない。神とその御母を信頼してこの徳を実行するなら、勇気と忠誠心を備えた人間になるだろう。常に神である御方は私たちの手を使って奇跡をなさるだろう。

 イエスよ、このような信仰をお恵み下さい。私は心からそれを望んでいます。私の母、私の貴婦人、いとも聖なるマリアよ、私が信じる者となるようお助け下さい。」[51]

 創立者は、ご自分と多くの子供たちのため、また全てのキリスト信者のために、対神徳を深めてくださるよう、度々、嘆願されました。また、毎日のミサ聖祭でホスティアとカリスを掲げる時には、心のうちでadáuge nobis fidem, spem, caritátem! 信仰、希望、愛を増してください、とお願いしておられました。いつもあらゆる状況下で神と人々に最も良く仕えることだけを、また私たちもよく仕えることができるようにという唯一の目的が創立者を動かしていました。繰り返しますが、こうして初めて、今もいつも、教会の歩みに新たな実りがもたらされるのです。教皇様がこう記しておられます。「この『信仰年』が全ての信者のうちに、完全かつ新たな確信と、信頼と希望をもって信仰を『告白』したいという望みを呼び起こしますように。」[52]

 そして教皇様はこう続けておられます。「信じることについて考察することは、とくに『信仰年』の間、全ての信者が自分のものとしなければならない務めです。古代のキリスト信者が信条を暗記するよう求められたのは理由のないことではありません。信条は日々の祈りとなって、洗礼によって課せられた務めを忘れずにいるために役立ちます。」[53] 信仰を願う、そして深める

 30. 信仰年には、―いつでもこのやる気を持ちたいものですが―ごミサや他の折にクレドを唱えるとき、心をこめて、言葉とその意味にもっとよく注意して、教会の信仰を告白するよう努めることです。それには、クレドの種々の信条を勉強したり度々黙想したりすることが役に立つでしょう。ベネディクト十六世が、この信仰年の真の実りを際立たせるために、勧めておられることの中でも、「カトリック教会のカテキズム」あるいはその「要約」を勉強することが最も大切です。それは第二バチカン公会議の素晴らしい遺産であり、カトリック教会の教えを完全に、調和よく、秩序立てて収めています。

 「信じる行為と、信じる内容との間には深い一致があります。」[54]信仰の内容についての知識はなくてはならないものです。信仰を受け入れるため、また教会が提示することに知性と意志をもって完全に一致するため本質的なことですから。このような受容によって示されるのは、信じる時には、信仰の神秘を全て自由に受け入れているということです。神ご自身が、真理を啓示することを保証し、愛の神秘を私たちの理性に示されるからです。

 教皇様はこう続けられます。「他方で、次のことを忘れてはなりません。現代の文化状況の中で、多くの人が、信仰のたまものが与えられていないことを認めながらも、自分の人生と世界に関する究極的な意味と決定的な真理を誠実に探求しています。この探求は真正な意味での信仰の『入り口』です。なぜなら、この探求は、人を神の神秘にまで導く道へと連れて行くからです。」[55]

 あらゆる人が霊的な胸騒ぎを抱いていますが、それを解決するための素晴らしい試みにくじけず取り組みましょう。人々の真理への飢えを満たす適切な形成を提供するためです。特に現代、非常に重要なことは、様々な動機で関わっている人々に、この世の生活が人間存在の一時的な期間であることを教えたり、思い起こさせたりすることです。神は私たちを永遠のいのちのためにお造りになり、神ご自身のいのちに参与させ、完全で終わりのない幸せを与えようとお望みなのです。至聖三位一体のこの賜は死後にしか与えられないものですが、この世においてもすでに始まっています。「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17,3)。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちを得、私はその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6,54)。

31. これからの数ヶ月間は、イエス・キリストの神秘を掘り下げて黙想する新たな機会になるはずです。イエスは私たちに、ご自分の行いと言葉で父なる神を示し、主にいたる道をお教えになりました。そしてこの目標を達成するために必要な手立てもくださいました。つまり、秘跡と種々の制度を持つ教会です。その上、聖霊をお送りになり、恩恵によって私たちのうちに宿らせ、私たち人間が父の家に向かって歩み続けるように励ましてくださいます。全ては神の御慈悲によるものです。なぜなら、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4,10)。

「私たちに愛をお示しになるのは、全能なる御方、天地万物の創造主、神ご自身なのです。」[56]この本質的な真理に、自分自身の黙想や人々を黙想に招くための根本的な役割があることを納得しましょう。この感銘深い告知に感嘆しつつ感謝しましょう。そして、普遍的なカテケーシス(教理指導)を通してこの告知を広めましょう。まさしく、この〈カテケーシス〉という言葉は、メッセージが「耳元に響く」という意味のギリシャ語が語源なのです。キリスト者のために、このような伝え方は最初のころから教会で使われていました。主である先生が説明していたように、貴重な真珠、救いの宝を人々に伝え始めたときからあるものです。主の最初の弟子たちは、新しい良い便りを聞きながら、自分のものにし、そして人々に伝えました。また、話を聞く人がそれを望み、聞いたことを自分のものにすることができるよう導いていました。

20世紀後のキリスト信者である私たちも同じように振る舞う必要があります。この世の歩みを共にしている人々の心に、イエス・キリストのもたらした真理を響かせましょう。また個人的な付き合いのない人たちの心にも祈りを通して響かせましょう。一人ひとりにふさわしいやり方で、次のことを示さなければなりません。神は、〈あなたを〉永遠から思っておられたのです。神が〈あなたを〉愛されたのです。神が〈あなたのために〉素晴らしい天国を準備されたのです。そこでは、神ご自身と永遠の喜びがあなたのものとなり、あなたが心に秘めている幸せへの熱望が、遺憾なく満たされるのです。何と素晴らしいことではありませんか。

32. この根本的な真理を分かり切ったことのように示すことはできません。多くの人が神を知らなかったり、神について間違った考えをもっていたりするからです。ある人たちは、掟を守らせるのに必死になってすぐに罰する神を想像したり、あるいは必要な時にだけ神に頼ったりします。またある人たちは、神は自己の幸せのうちに留まり、人々の苦しみや悲しみには無関心だと考えたりします。・・・

私たちの喜びと落ち着きによって、周りの人々が神の子らに対する主の慈しみに〈触れること〉ができているかどうかを自問することを忘れないようにしましょう。

皆が絶えず強化すべきこととして創立者が言っています。「基本的なテーマに関して明確な知識をもつこと。これは、多くの人の知性を照らし、時々あらゆるところでみられる攻撃から教会を守るために必要です。教理的倫理的な真理を熟知していること。これは家庭とキリスト教的教育の要求について、仕事や休息の権利と私有権などについて、連合や表現などの自由について、考えるときに必要です。こうしてあなた方はあの主のみことばvéritas liberábit vos (ヨハネ8,32)を実感することができるでしょう。真理こそ、喜びと平和を与え、実りをもたらすものだからです。」[57]

聖霊が付き添ってくれるようにと熱烈にお願いしましょう。説得力のある証しをすることができるように、また、それぞれの知識や教養に従って、一人一人が真理に心を開くことができるような理にかなった論理を示すことができるようにと。根気強く信頼して祈りましょう。これは最も重要な点として際立っています。主の約束を思い起こしましょう。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえて下さる」(マタイ18,19)。「戦場の軍隊が隊を詰めるように」(雅歌6,4)、私たちが固く一致して祈り続けるなら、平和と喜びの戦いにおいて神にお願いしていることを天がもたらしてくださるでしょう。

ベネディクト十六世がこれらの福音書の一節を解説され次のように示しています。「福音記者が『意見を同じくする』ことを言うのに使っている動詞は(・・・)、この一致が心からのものであることを意味しています。これが神のみ心を動かすのです。ですから、天の父に受け入れていただくためには心一つに祈ることが重要になります。」[58] 教皇様とそのご意向に固く一致していましょう。こうして私たちは、キリストにより近づき、主と共に、聖霊によって、天の父に実りある祈りをささげることができます。

 

[1] ベネディクト十六世、2011年10月11日自発教令「信仰の門」2番。

[2] 聖ホセマリア、1965年10月24日 手紙、4番。

[3] べネディクト十六世、2011年10月11日自発教令「信仰の門」3番。

[4] 教理省、2012年1月6日、司牧的覚書III,3 参照。

[5] 同上 II,5。

[6] 尊者アルバロ・デル・ポルティーリョ、1985年12月25日、手紙4番。

[7] 聖ホセマリア、1973年3月28日、手紙18番。

[8] 福者ヨハネ・パウロ二世、2003年6月28日、使徒的勧告「ヨーロッパの教会」46番。

[9] 同上。

[10] 聖ホセマリア、1935年5月/1950年9月14日「指導指針」注231。

[11] 福者ヨハネ・パウロ二世、2003年6月28日、使途的勧告「ヨーロッパの教会」47番。

[12] 聖ホセマリア、1973年3月28日、手紙4番。

[13] 聖ホセマリア、1954年3月19日、手紙27番。

[14] 聖ホセマリア、「神の朋友」186番。

[15] 福者ヨハネ・パウロ二世、1995年9月9日講話。

[16] 聖ホセマリア、1965年10月24日、手紙13番。

[17] 聖ユスティノ、「護教論」2,10(PG6,462)。

[18] ミヌキウス・フェリクス, オクタウィウス,38番(PL3,357)。

[19] 福者ヨハネ・パウロ二世、1994年11月10日、使徒的書簡「紀元2000年の到来」6番。

[20] 聖ホセマリア、1974年4月7日、家族の集まりでのメモ。

[21] ベネディクト十六世、2005年8月21日、説教。

[22] 同上。

[23] 聖アウグスティヌス、「告白」I, 1,3(CCL27,1)。

[24] 聖ホセマリア、1974年6月2日、家族の集まりのメモ。

[25] ベネディクト十六世、2007年1月6日ご公現の大祝日のお説教。

[26] 聖ホセマリア、『知識の香』33番。

[27] 福者ヨハネ・パウロ二世、『希望の扉を開く』125ページ(原書)。

[28] 聖ホセマリア、1967年10月7日ナバラ大学の名誉博士号授与式での講演。

[29] 聖ホセマリア、『道』944番。

[30] 聖ホセマリア、1974年5月9日ナバラ大学の名誉博士号授与式での講演。

[31] 福者ヨハネ・パウロ二世、1998年9月14日回勅『信仰と理性』17番。

[32] 聖ホセマリア、1951年1月9日手紙12番。

[33] 福者ヨハネ・パウロ二世、2001年1月6日使徒的書簡『新千年紀の初めに』51番。

[34] ベネディクト十六世、2006年3月30日EU議会での講演。

[35] 同上。

[36] 尊者アルバロ・デル・ポルティーリョ、1994年1月1日手紙。

[37] 聖ホセマリア、『道』493番。

[38] ナジアンゾスの聖グレゴリオ『祈り』II,71(PG35,479); 福者ヨハネ・パウロ二世、2003年10月16日、使徒的勧告『神の民の牧者』12番。

[39] 聖ホセマリア、1973年3月28日手紙10番。

[40] ベネディクト十六世、2012年3月9日内部法廷研修会参加者に向けての講話。

[41] 聖ホセマリア、『道』121番。

[42] 聖ホセマリア、1973年5月20日家族の集まりでのメモ。

[43] 聖ホセマリア、『神の朋友』26番。

[44] 同上 27番。

[45] ベネディクト十六世、2011年10月11日自発教令『信仰の門』6番。

[46] ローマミサ典書、第一奉献文。

[47] 福者ヨハネ・パウロ二世、1999年6月29日『救いの歴史に関わる場所への巡礼についての手紙』5番。

[48] ベネディクト十六世、2011年10月11日自発教令『信仰の門』13番。

[49] 同上。

[50] 聖ホセマリア、1934年3月19日『指導指針』45番。

[51] 聖ホセマリア、『鍛』235番。

[52] ベネディクト十六世、2011年10月11日自発教令『信仰の門』9番。

[53] 同上。

[54] 同上 10番。

[55] 同上。

[56] 聖ホセマリア、『知識の香』144番。

[57] 聖ホセマリア、1959年1月9日手紙34番。

[58] ベネディクト十六世、2006年1月25日「聖パウロ回心の祝日」夕べのお説教