希望とは何か(3)

聖年にあたり2024年11月にローマにて行われた属人区長フェルナンド・オカリス師による希望の徳についてのクラスの内容を連載します。今回は「確実性」というキリスト者の希望の特徴についての考察です。

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神が私たちのために尽力しておられるという確実性

キリスト者の希望には、一見すると矛盾しているかのように見える特徴があります。それは確実性(certainty)です。可能ではあるが、すぐには実現せず、しかも完全に保証されているわけではない事柄について、私たちは確信を持つことができるのでしょうか。──はい、できます。私たちは、神の御旨、すなわち神が私たちへの愛に忠実であられるという事実に基づいた、確かな希望を持っているからです。

「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」[1]。これは、神が私たちに聖人になることを望んでおられる、という意味にとどまりません。神ご自身が、いわば私たちの聖化のために「力を尽くしておられる」ということを意味します。神は、啓示や秘跡といった手段を与えてくださるだけでなく、私たちの自由を尊重しつつ──すなわち自由を与えながら──、目的に到達するために必要なすべての恵みをも与えてくださいます。私たちが望むなら、目標に到達できるという確かな希望を持つことができます。なぜなら、恵みが欠けることはないからです。神は忠実な方です。

このことは、聖パウロがエフェソの信徒への手紙で述べている言葉にも表れています。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、──あなたがたの救われたのは恵みによるのです──キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」[2]。使徒は、「天の王座に着かせてくださるだろう」とは言わず、「着かせてくださった」と言っています。希望の力は、希望であり続けながらも、確実性へと導くのです。

聖ホセマリアは次のように記しています。「最後まで​忠実を​保てば​必ず​天国に​到着する​ことができますから、​私は​幸せ者です」[3]。「確実でないことについて確信を持つ」というのは矛盾しているように思えるかもしれませんが、実際には矛盾ではありません。そこにこそ、真のキリスト教的希望があります。神の愛が確実であるからこそ、私たちは確かで揺るぎない希望を持つことができるのです。この希望は、私たちの惨めさや欠点を超えて働きます。そして、創立者が語っていたように、欠点を抱えたまま死ぬとしても、私たちは聖人になり得るのだという確信へと導いてくれます。なぜなら、主は、私たちの応答があるなら、愛の充満から成る聖性へと導いてくださるからです。そして、愛の充満は、欠点を「受け入れたり、望んだり」しない限り、すなわち、それらに対して愛のために何度も何度も戦い続ける限り、たとえ完全に克服できなくても、欠点と両立し得るのです。

したがって、私たちは、もし忠実であり続け、神の愛のうちにとどまるなら、天国に行くという確信を持っています。さらに、もし私たちが望み、自由に愛のうちに堅忍し続けるなら、忠実であり続けることができるという確信も持っています。なぜなら、神の恵みが私たちに欠けることは決してないからです。


[1] 一テサロニケ4・3。

[2] エフェソ2・4-6。

[3] 聖ホセマリア『神の朋友』208番。