希望の基盤は何か
希望の基盤は何でしょうか? それは信仰です。ヘブライ人への手紙にはこう記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信(…)することです」[1]。では、どのような信仰でしょうか? それは、神が私たちを愛しておられるという信仰です。この信仰こそが希望を確かなものにします。なぜなら、それは揺るぎないもの──すなわち、神の変わることのない愛──の上に築かれているからです。
教皇(フランシスコ)は言います。「希望はまさしく愛から生まれ、十字架上で刺し貫かれたイエスのみ心からわき出る愛がその根本です」[2]。そして聖パウロの言葉を引用します。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子のいのちによって救われるのはなおさらです」[3]。このように、希望は神の私たちへの愛に対する信仰の確かさから湧き出るのです。
私たちはこの「神の愛への信仰」を生活の中で育んでいかなければなりません。それは抽象的な「人類全体への愛」ではなく、非常に具体的で個人的な愛──「今ここにいる私」への変わらない愛──です。主は私たちを見つめ、恵みを通して私たちのうちに現存し、私たちを高め、聖化し、個人的に愛してくださっています。この愛こそが私たちの力であり、困難ではあっても可能な最終目的──すなわち聖人となること、すなわち神との完全で決定的な一致──を希望することを可能にするのです。
霊的生活、また修徳的戦いにおいて、そして何度も「始め、また始め直す」必要があるとき、希望が欠かせません。この希望は、自分の力に基づくものではなく、神の私たちへの愛に根ざしています。神は私たちの弱さを考慮に入れつつ、何よりもご自分の無限の力──すなわち私たちへの愛──を拠り所にしておられます。
また、神においては「知ること」と「愛すること」が同一であることも忘れてはなりません。神は私たちを無限に知り、無限に愛しておられます。特にオプス・デイの精神は、神の愛によって私たちが本当に神の子どもであることを考えるように促します。私たちが神の子であるという自覚は希望を強めます。聖ホセマリアはある説教の中で次のように述べています。「皆さん方も同じであって欲しいのですが、私は、自分が神の子であるとはっきり知り、自覚するとき、本当の希望に満たされます。希望は超自然の徳です。けれども、人間に注入されると私たちの本性にぴったりと合いますから、非常に人間的な徳でもあります」[4]。
超自然的な希望の徳は、困難の中でも善を待ち望むという人間の自然な能力を高めます。自分が神の子であると知ることは、最終目的への確かな希望を与えます。自分の欠点や弱さを経験すると、単に〈救われたい〉という願いだけにとどまり、救いと聖性を別のものと見なし、聖性は「修徳的理想」にすぎないと思うことがあるかもしれません。しかし、聖性こそが目的です。十分に聖化されないまま人生を終えるなら、煉獄でその完成に至るまで清められるでしょう。努力なしに聖性を得ることは難しく、それゆえ聖化の道は厳しいものですが、神の恵みによってそれを達成する希望を持つことが可能になるのです。
先ほど引用したとおり、創立者の言葉によれば、私たちの希望は「神との親子関係」によって特徴づけられています。私たちは聖人となる希望を持ち、自分の人生の実りを信じる大いなる理由を持っています。なぜなら、私たちは神に愛されている子だからです。聖ヨハネの言葉を何度も思い出しましょう。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」[5]。これこそが福音的な生き方の核心です──神が私たちを愛しておられることを知り、それを信じること。神の愛のおかげで自分が神の子であるということを知り、その信仰を絶えず新たにすることです。
神の愛へのこの信仰は、神の摂理に信頼して生きるよう私たちを導きます。私たちは世界の混沌の中に放り出されているのではありません。神は私たちを大いに愛してくださるが、あとは自分で頑張れ、と放っておかれるような方ではありません。神は私たちを愛し、私たちの自由を尊重しながら、絶えず共に歩んでくださいます。その愛は遠く離れたものではなく、「摂理的な愛」なのです。教皇ベネディクト十六世は回勅『希望による救い』の中でこう述べています。「神は希望の基盤です。この神は(…)人間の顔を持ったもった神です。わたしたちを、わたしたち一人ひとりを、そして全人類をこの上なく愛してくださった神です」[6]。このような具体的な神の愛への信仰が、私たちの希望の基礎なのです。これに対して、聖パウロはエフェソの信徒への手紙で、異邦人のことを「この世の中で希望を持たず、神を知らない」と書いています[7]。希望は神に、そして神の具体的で個人的な愛に基づくものです。人間的な希望も存在しますが、それはこの世に限られ、永遠には届きません。神なしには、真に決定的なものへの希望を持つことはできないのです。
[1] ヘブライ11・1。
[2] フランシスコ『希望は欺かない』3番。
[3] ローマ5・10。
[4] 聖ホセマリア『神の朋友』208番。
[5] 一ヨハネ4・16。
[6] ベネディクト十六世『希望による救い』31番。
[7] エフェソ2・12。
