希望とは何か(1)

聖年にあたり2024年11月にローマにて行われた属人区長フェルナンド・オカリス師による希望の徳についてのクラスの内容を連載します。

教皇フランシスコが発表した2025年の聖年を告げる大勅書は、聖パウロがローマ人への手紙で述べた言葉で始まり、その言葉が文書の題名にもなっています。「希望は欺かない」[1]spes non confundit。この言葉は非常に深い意味を含んでいます。私たちが真の希望を抱くとき、それは決して欺くことがありません。私たち自身は誤ることがあっても、希望は誤ることがないのです。なぜなら、神は私たちへの愛と約束に忠実であられるからです。

確かに、時には私たちが望んでいたことが実現しないこともあります。たとえば、ある使徒職の活動が成功することを願ったり、ある対話から具体的な実りを期待したりしても、その成果が現れないことがあるでしょう。では、そのとき希望は私たちを欺いたのでしょうか?いいえ、そうではありません。なぜなら、希望は神の私たちへの愛に根ざしており、それゆえ私たちは聖ホセマリアととも「失われるものは何もない」[2]ことを確信することができます。神のために行うこと、神の御旨に沿って取り組むことは、たとえすぐに成果が見えなくても、必ず実りをもたらすのです。別の仕方で、あるいは別の時に、または来世で見ることになるかもしれません。あるいは、実るものが当初予想したものと異なることもあるでしょう。しかし、このようにして私たちは「失われるものは何もない」という確信を抱くことができます。

本クラスは主に、聖年の大勅書、聖ホセマリア、そしてもちろん聖書の言葉を読み返しながら進めていきます。これらの言葉を読み、簡単にコメントすることで、私たち自身の中に希望を成長させる態度を育む機会としたいのです。超自然的な希望は神の賜物であり、人間の努力だけで手に入るものではありません。しかし、私たちは神の賜物、特に信仰・希望・愛を受け取るための心の準備をすることができます。

希望とは何か

希望とは「容易ではないが可能な将来の善」が得られると信じるよう導く徳です。ここには三つの要素があります。それは未来に関わるものであり、困難を伴うものであり、しかも可能であるということです。これらの条件を欠くものは希望とは呼べません。たとえば「明日、月に行くことを希望する」と言うことはできません。それは不可能であり、無意味な願望です。また難しくないことを望むのも希望とは言えません。たとえば「三時間後に自宅にいること」は、厳密な意味での希望ではありません。もちろん100%確実なことは何もありませんが、人間的に見て希望の対象とはならないものがあるのです。

希望は基本的な人間徳でもあります。私たちは皆、何かを希望しています。働きの実りを望み、何らかの善を望み、さまざまな状況が終わることを望みます。しかし冒頭で述べたように、希望はまた超自然的な対神徳でもあります。では、超自然的な希望が目指すものは何でしょうか?永遠の命、神との一致、救い、そして天国の計り知れない喜びです。これこそ究極の希望です。それらを得ることは可能です。神ご自身がそれらを私たち与えてくださるからです。

人間としての希望は、すべての人の心に必ず存在します。教皇様はこう書いておられます。「明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望はよいものへの願望と期待として、一人ひとりの心の中に宿っています」[3]。希望の実現は、人間的に確実ではないにせよ、不可能なものでもありません。希望とは「得られる可能性をもつ何らかの善」を待ち望むことなのです。

この人間が自然に有する希望を完成させ高めるのが超自然的な希望です。その対象は救い、すなわち神と共にある永遠の幸福です。聖パウロは「天に蓄えられている希望」[4]と言います。天国で待っている幸福への希望は、神の私たちへの愛に対する信仰と、天に到達するために神が与えてくださった手段(聖体、祈りなど)に対する信仰と結びついています。

永遠の命への希望は極めて重要です。そのためトレント公会議は、「天国を希望することが誤りであり、人は天国という報いを求めずに行動すべきである」とする考えを排斥しました。公会議はこう述べています。「義化された者でも永遠の報いのために善業を行うのであれば、それは罪を犯すことであると言うものは排斥される」[5]。永遠の報いを望むことは許されるどころか、神が望んでおられることであり、信仰と愛と結びついているのです。


[1] ローマ5・5。

[2] 『鍛』278番。

[3] フランシスコ、2025年通常聖年公布の大勅書『希望は欺かない』1番。

[4] コロサイ1・5。

[5] トレント公会議、第6総会、31条。