無原罪の聖マリアへの9日間の祈り―8日目

黙想のテーマ:「平和の女王、マリア」「兄弟との和解」「神の子らの平和」

1日〜7日目の黙想


平和の女王、マリア

兄弟との和解

神の子らの平和


イエスは昇天しました。使徒たちは主の復活の証人でありながら、未だ権力者たちを恐れています。そんな折り、彼らは「心を合わせて祈って」(使徒言行録1・14)いたことが窺えます。お互いに支え合うことが必要です。この集まりで、マリアは特別な場所を占めています。彼らは、マリアを母として迎え、マリアは子どもたちとして彼らに対しました。彼らは、敵対者に囲まれているような雰囲気の中で聖母と共にいて、母親に抱かれた子どものような安心感に浸っていたことでしょう。その平和は、聖霊降臨でより完全なものになり、自分の父として神に向かうことができるようになりました。同じ時代の聖パウロが記しています。「神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です」(ガラテヤ4・6-7)。聖霊降臨によって使徒たちは、恩恵に満たされたマリアに見られる平和のうちに、暴力や敵と向き合うことができました。マリアのように、イエスの「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)と言う言葉を、彼らに当てはめることができるでしょう。

恩恵に依って聖霊を受けた私たちは、キリストにおいて神の子であると納得しています。「これが私たちの強さであると確信しています。私たちは、全てをご存知で、全てが可能な御父に愛されているのです」[1]と、属人区長がコメントしています。ご托身によって、神はマリアの霊魂に住むことを確かなものとし、もっとも愛する娘であるマリアを、御子の母親、聖霊の花嫁にしました。この三位一体の神との関係によって、マリアは、人生での様々な困難、特に、イエス・キリストの御母として、御子以外には経験でき得ないことで苦しまなければならなかった事柄を落ち着いて受け入れることができたのです。使徒たちは、神との親密な一致の実りとしての平和を与えてくれる聖マリアに、慰めを求めていました。この8日目には、使徒たちのように、平和の女王としてのマリアにより頼むことができます。「あなたの心、家庭や仕事場の雰囲気、社会生活や国々の間で騒ぎが起きるなら、〈平和の元后、我らのために祈り給え〉と言う叫びを繰り返しなさい。少なくとも、あなたが落ち着きを失ったとき、試してみなさい。効き目の速さに驚くことだろう」[2]


イエスは、ご自分の生き方で平和を実現しました。その御血によって、アダムの堕罪以後、対立していた二つの現実を和解させました。主は、天国とこの世、神と人間を結び付けました。つまり、ご自身を捧げて、私たちに永遠の命の扉を開いてくださったのです。ですから、平和を愛する人は、単に二者間の融和を図るだけの人ではありません。自分自身の生き方で、周りを平和な雰囲気にしていく人です。

使徒たちは、互いに違っていたはずです。福音書から、各人各様の性格と理解の仕方があった事が分かります。これはどの家庭にも見られることで、いくらか緊張状態を引き起こすこともあるでしょう。時間の経過のうちに神の恩恵に依って、今日、称えられているような聖人になるまで、その心は改善されて行くはずです。この行程で、聖マリアとの様々な出会いは、諸聖徒の交わりを深めてくれます。マリアのイエスとの一致から、敵対しているような人々も含めて、神と兄弟たちとの一致を守ることの価値を、学び取ることができるでしょう。もっとも身近な環境である家族生活において、キリストから聞いた言葉が思い起こされます。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5・23-24)。イエスにとって、神殿のいかなる荘厳な典礼に参加するより、兄弟との平和な交わりの方が重要でした。このことから、イエスは、仲たがいしながらも表面的には平穏に共同生活をするような、一時的な平和な生活をお望みではありません。私たちに望んでおられる真の平和とは、自己の意見は脇に置き、人生をより高貴な善を得るためのものと考えることです。つまり、神の子どもたちであることを弁えるように仕向ける共同体を、作り上げて行くことです。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)。

しかし、この平和は、他者の欠点とか幾らか侮辱的な態度とかを、避け得ないことのように考えて単に我慢する、というだけの問題ではありません。平和のために働く人は、それに携わるとき、まずその望みから利益を得ます。それは単に、それを成し遂げた後の平和な共同体を喜ぶことだけではなく、聖霊の実りとして、自己の周りに平和と理解し合う見方と心が、広がっていくからです。以前は、ある兄弟との小さな〈戦い〉が予想されたようなことも含めて、今は、清めと一致、恩恵に開かれた道であることが分かります。「神の子どもたちは、平和とそれを行動に移すことを学びました。自己の奉献なしに和解を達成することはできません。いつも、どんな時でも平和を求めなければなりません」[3]。二人の兄弟を仲直りさせるのに、母親以上に優れた人はいません。使徒たちのように、兄弟間の交わりが神の平和に満ちた健全なものであるよう、無原罪の御母に強めて頂きましょう。


幸せに関わる平和は、種々の障害がない、内的な協調性だけの問題でもありません。「この平和の受け入れ方は、不完全なもので、絶対的なものにすべきではありません。なぜなら、人生において不安を感じることは成長するための重要な時でもあり得ます。度々、主ご自身が私たちに不安をもたらします。それは、私たちが主を探し、主に出会うため出かけるようにするためです」[4]。実際に、主ご自身「反対を受けるしるしとして」(ルカ2・34)、紹介されています。それは、私たちに平和を確約するのは、自分自身の確実性ではなく、主ご自身が与えられる平和であって、この世のものとは違うものです(ヨハネ14・27参照)。

厄介なことがない生活など、想像するのも難しいことです。皆、度々不安を覚えたことがあるでしょう。聖マリアでさえ、痛みや疲れ、あるいは不確実性を免れてはいなかったのです。ですから、人間の弱さをご存知だったイエスは、単純に人間的な落ち着きを約束したわけではありません。主が私たちに与える平和は、御父に対する神の子どもとしての信頼によって特徴づけられているものです。「全てが崩壊し、万事がおしまいという状態になり、何もかもが予想に反した展開を見せ、大変な不運をもたらしたとき、困惑しているだけでは何の役にも立たない。あの預言者の信頼しきった祈りを思い出しなさい。『まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる』。私たちの善を思って統治なさる摂理の計画に、あなたの行動を合わせることができるよう、毎日信心をもってこの祈りを唱えなさい」[5]

聖ルカは、人生において、理解できず、慌てふためくような何事かに立ち会わされた時のマリアの行動に注目するよう促します。「これらのことを心に納めていた」(ルカ2・51)。私たちも、教会創立当初の使徒たちのように、いろいろな心配事を無原罪のマリアの御手に委ねることができます。善き母として、私たちが、神の子どもの平和のうちに過ごせるように、取り計らってくださるでしょう。


[1] フェルナンド・オカリス、説教、2022年10月8日。

[2] 聖ホセマリア『拓』874番。

[3] フランシスコ、一般謁見演説、2020年4月15日。

[4] 同上。

[5] 聖ホセマリア『拓』855番。