啓示:なぜ神はご自身を人間に現されたのか(3)

人間のうちには、神を十全に知りたいという自然な欲求が存在しますが、その知識は、神ご自身の助けなしには到達することができません。神は、聖書に記された「救いの歴史」を通して、ご自身を三位一体の存在として啓示されました。この啓示によって、神は人間に、ご自身との交わりのうちに生きる可能性を与えようとしておられます。すなわち、人間が神の恵みといのちにあずかり、こうして最終的に幸福へと至ることができるようにするためです。

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3. ペルソナとしての神、三位一体の神

旧約聖書は、新約において与えられる、より深く決定的な神の啓示へと人々を準備します。この準備の中で神は主として契約の神として示されます。すなわち神は、自ら進んで一つの民──イスラエル──を選び、その民と友情と救いの契約を結ばれるお方です。神はこの契約によってご自身の利益を何一つ求めておられません。神は何も必要とされない方であり、超越的存在、すなわち無限で永遠で全能であり、世界を完全に超えておられるからです。それにもかかわらず、神は純粋な善意によってこの契約を提案されます。それは、この契約がイスラエル、さらには全世界の幸福にとって善いものだからです。このようにして旧約聖書が示す神は、世界を完全に超越しておられると同時に、世界、人間、そしてその歴史と深く結びついておられる方です。神はその威厳においては近づきがたいお方でありながら、その愛によって人間に限りなく近い存在でもあります。神はご自身の決定において絶対的に自由でありながら、同時にその決定に完全に関わり、忠実であり続けられるのです。

神がこのように働かれることは、神がペルソナ(位格)として存在するお方であることを示しています。というのも、決断し、選び、愛し、自らを現すことは、ペルソナ(位格・人格)に固有のあり方だからです。わたしたち人間も、自分の語ることばや行いを通して、自分のあり方や個性を表します。それによって他者はわたしたちを知るようになります。すなわち、わたしたちは自分自身を現しているのです。神も同じように、ご自身を現されます。旧約聖書において、神はまず「ことば」によってご自身を現されます。しばしば神が一人称で語られる表現が見られます。たとえば、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20・2)ということばです。また別の場合には、預言者が神から受けたことばを人々に伝えます。「主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心(…)を思い起こす」(エレミヤ2・2)。そして、「ことば」とともに「わざ」によってもご自身を現わされます。「神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれた」(創世記30・22)。このように、「ことば」と「わざ」とは互いに照らし合いながら、神の御心を明らかにし、選ばれた民を、真のいのちの源である神ご自身へと導こうとするのです。

新約には、旧約に比べて驚くべき新しさが見られます。福音書は、イエスが神を「わたしの父」と呼ばれたことを示していますが、それは他の誰にも当てはまらない、独自で譲ることのできない意味においての呼び方です。父とイエスとの関係は、きわめて特別で唯一無二のものであり、単に人間的・時間的な概念だけでは表すことができません。また、イエスのことばとわざも、イエスが単なる人間ではないことを示しています。イエスはご自身を神であると明言されたわけではありませんが、そのことばと行いによって、ご自身が神であることをきわめて明確に示されました。そのため使徒たちは、その書簡の中で、イエスが永遠の神の子であり、わたしたちとわたしたちの救いのために人となられた方であると宣言しました。さらにイエスは、父との親密な関係だけでなく、聖霊が父およびご自身とどのような関係にあるかも明らかにされました。聖霊は、「父のもとから出る真理の霊」(ヨハネ15・26)、「御子の霊」(ガラテヤ4・6)、「キリストの霊(Spiritus eius)」(ローマ8・11)、あるいは単に「神の霊」(一コリント6・11)と呼ばれます。このようにして、旧約聖書において示されていた神のペルソナとしてのあり方は、新約聖書において驚くべき新しい次元をもって現されます。すなわち、神は父・子・聖霊として存在されるのです。

もちろん、これは三つの神が存在することを意味するのではなく、唯一の神のうちに、三つの異なるペルソナが存在することを意味します。このことは、それぞれのペルソナの呼び名を考えると、よりよく理解できます。というのも、それらは互いの関係が深い親密さに基づいていることを示しているからです。人間においても、父と子の関係は本来、愛と信頼に満ちたものです。神においては、この愛と信頼が完全なかたちで実現しており、父は完全に子のうちにあり、同様に子もまた完全に父のうちにあります。同じように、それぞれが自らの霊との関係も深い親密さに基づいています。わたしたちはしばしば自分の内面の奥深くに立ち返り、自分の思いを探り、感情を見つめることによって、自分自身を内的に知ります。これと類比的に、聖霊は神の心を知る神であり、父と子との相互の親密さそのものの神秘なのです。これらすべては、次の結論へとわたしたちを導きます。すなわち、神は愛の神秘であるということです。それは、被造物に向けられた外的な愛ではなく、父と子と聖霊という神的ペルソナの間における内的な愛です。この愛はあまりにも完全であるために、三つのペルソナは一つの現実、すなわち唯一の神なのです。12世紀の神学者、サン・ビクトルのリカルドゥスは、三位一体について次のように述べています。「愛が存在するためには二者が必要であり、愛が完全であるためには第三者へと開かれる必要がある」(De Trinitate, III.13)。父と子と聖霊は同じ尊厳と同じ本性を持っておられます。すなわち三つのペルソナは、唯一の神、愛の一つの神秘なのです。

Antonio Ducay