神への憧れ(2)

「人間は、創造から出発して、すなわち世界および人間の人格から出発して、理性だけで確実に神を、万物の起源や目的として、また最高の善、真理、無限の美として知ることができます」(『カテキズム要約』3番)。

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2. 知性によって神を知る

人間の知性は、被造界を出発点とする道をたどって神の存在を知ることができます。この道には二つの経路があり、ひとつは物質的な被造物から出発する宇宙論的な道(cosmological paths)、もうひとつは人間自身から出発する人間論的な道(anthropological paths)です。

これら神の存在に至る道は、数学や自然科学が用いる意味での証明ではなく、哲学的に収れんしていく論証です(converging philosophical arguments)。そのため、それを考察する人の理解や内省の程度によって、より説得力を持ったり、持たなかったりします(『カテキズム』31番参照)。また、物理学や生物学などの実験科学における証明とも異なります。というのも、神は実証的な知識(empirical knowledge)の対象ではなく、夕日や砂嵐を眺めて結論を導くような仕方で観察することができないからです。

宇宙論的な道は物質的被造物から出発します。最もよく知られている形は聖トマス・アクィナスによるもので、「五つの道」と呼ばれています。これを非常に簡潔に要約すると次のようになります。最初の二つは、自然界に見られる因果の連鎖(原因-結果)は、無限にさかのぼることができないため、最初の起源、第一の動者、第一原因が必要であると論じます。第三の道は、私たちがこの世界で目にする事物は、「存在してもしなくてもよいもの」ですが、「すべて」においてそうであることはできない、必然的に存在し、存在しないことが不可能なものがなければならない、そうでなければ何も存在しないはずだ、と説明します。第四の道は、私たちが知るすべての現実が善い性質を持っていることに注目し、それらすべての源となる存在があるはずだと論じます。第五の道は、自然界に秩序や目的性、法則性があることに着目し、それを説明する知性的な秩序の源、全体の最終原因となる存在があると結論します(『神学大全』I, q.2参照)。

人間論的な道は人間自身から出発するもので、これらの道は、一つひとつ個別に考えるよりも、全体として収れん的に理解することで、より大きな力を持ちます。部分的にすでに触れましたが、第一に、人間の霊的・精神的な特質、すなわち思考、内面性、自由は、宇宙の他のいかなる現実にもその根拠を見いだせないように思えます。また、人間の幸福への尽きることのない渇望は、それを与えることができる神が存在しなければ意味を失います。さらに、人間の本性には連帯感や愛の感覚が備わっており、それは人を他者に開き、自己と利己的な関心を超越するよう導きます。人は問いかけます──なぜこのような感覚が自分のうちにあるのかと、なぜ人は功利主義的でない方法でものごと判断できるのか、なぜ自らの尊厳にかなう行いとそうでない行いを識別できるのか、なぜ悪を行うと罪悪感や恥を覚え、正義を行うと喜びや平和を感じるのか、なぜ夕日の美しさ、満天の星空、あるいは崇高な芸術作品に心奪われるのか。これらを盲目的な宇宙の営み、非人格的な物質間の相互作用の産物として説明するのは合理的とはいえません。これらすべては、無限に善く、美しく、正しいお方が私たちの心のうちに残したご自身についての〈気配〉と言えるのではないでしょうか。確かにこれらの道は絶対的な論証ではありませんが、現実を素直に見つめる人には光に満ちた論理となります。

カトリック教会のカテキズムは、これらを次のように要約しています。 「真理と美に向かって開かれた心、倫理的感覚、自由、良心の声、限りないものと幸福へのあこがれを持っている人間、この人間は神の存在について自問します。これらすべてのものを通して、霊である自分の魂のしるしを認めます。『人間の中にある永遠なるものの種は、物質だけに還元することはできないので』、このような霊魂の起源はただ神のうちにしかありえません」(『カテキズム』33番、内部引用は『現代世界憲章』18番)。

これら神の存在を〈証明〉しようとする様々な哲学的論証は、必ずしも信仰を生み出すものではなく、その信仰が合理的であることを保証するにすぎません。それらは、実際のところ神についてごくわずかしか語ることができず、しばしば他の前提に依存しています。それらの前提は、必ずしもすべての人に共有されているわけではありません。たとえば、現代文化においては、自然界のプロセスに関する科学的な知識に基づいて、一部の宇宙論的な道に対する異議が唱えられることがあります。つまり、宇宙は秩序や美、目的性を示す一方で、無秩序や偶然、混沌の要素も含み、それが悲劇的な結果をもたらすことがあるからです。同様に、人間を単に他の動物より少し発達した存在と考え、その行動が必然的な衝動に従っているとみなす人は、道徳性や霊的超越に基づく人間論的な道を受け入れないでしょう。なぜなら、その人にとって心や意識などの精神活動は、脳や神経における生理的プロセスとしてすべて説明されるからです。

これらの異議に反論することは可能です。無秩序や偶然も宇宙全体の目的性の中で位置づけられ得ること、(したがって神の創造の計画の中に含まれ得ること)を示すことができます。アルベルト・アインシュタインは自然法則について「そこには非常に高次の理性が現れており、人間の理性的な思考や秩序は、それと比べればまったく取るに足らないものである」[1]と述べています。同様に、人間の自己超越性や選択における自由意思を理性的・現象学的に示し、条件づけられているとはいえ〈心を脳に還元する〉ことは不可能であると示すことができます。したがって『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』が述べるように、「人間は、創造から出発して、すなわち世界および人間の人格から出発して、理性だけで確実に神を、万物の起源や目的として、また最高の善、真理、無限の美として知ることができます」(3番)。しかしこの確実性を得るには、多くの議論の余地を残す現実の複雑性を理解する必要があります。そのため理性によって示される神への道は、しばしば人を十分に納得させるものとならないのです。


[1] A. アインシュタイン『私の世界観』(A. Einstein, Mi visión del mundo, Barcelona2013)。