近くにおいでになる神

ベネディクト16世の教皇選出5周年にあたって。 本日、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿が、聖ペトロの後継者として選出されて5周年を迎えます。

  本日、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿が、聖ペトロの後継者として選出されて5周年を迎えます。2005年4月2日、ヨハネ・パウロ2世が逝去され、その報道はテレビを通して前例のない関心をもって伝えられました。そして、まだローマの街が亡くなった教皇への哀悼の念に包まれていた2005年4月19日、わたしたちは聖ペトロ大聖堂の正面バルコニーに、新しい教皇の慈愛に満ちたお姿を目にしたのです。

教皇ベネディクト16世に対し、感謝を申し上げるべきことが多々あるのですが、その中でも、「近くにおいでになる神」について絶えず教え続けてくださっていることをとくに感謝しなければならないと考えます。枢機卿時代の一作品の題名からとられたこの「近くにおいでになる神」という表現は、創造主である神について愛をこめて語ることでもあるのです。わたしたちと同時代のある聖人が語っているように、わたしたちは信仰によって、神は慈愛に満ち、人間のそばにおいでになり、創造された世界に対し常に関心を抱き続けておいでになる御方であると理解するのです。実際、聖ホセマリアは、しばしば次の教えを繰り返していました。わたしたちは、日常の忙しさの中で「遠い星空のかなたに主がおられるかのように生活し、つねにそばにいてくださることを考えようともしない。主は愛の深い父である。全世界の母が自分の子供を愛するより以上に、わたしたち一人ひとりを愛してくださる。助け、元気づけ、祝福し、ゆるしてくださるのだ」(『道』267)。

時間にとらわれない神は、イエス・キリストにおいて時間の中においでになり、御自身を人類のために捧げてくださいました。教皇がしばしば語っておられるように、わたしたち人間が神を受け入れ、愛することができるように、神は人間となられたのです。そして、ここ数年、教皇は力強く幾度も、神は愛であること、そして、キリスト者としての存在は倫理的な選択や高邁な思想によって始まるのではなく、人生に新しい展望を開いてくださるナザレのイエスとの出会いよってこそ始まるのであると、説き続けておられます(『神は愛』1参照)。神がおいでにならないかのような世界、神の存在が身近に感じられない世界、人間には神を理解できないと思われているような今の世界にあって、教皇のカテケージスは、21世紀を生きる人々の歩みにおいて、神を日常生活の中に近づけてくれるのです。

キリスト者の使徒的任務は、まさに、人々が日々の生活の中でイエスと出会うこと、すなわち、人々が神と出会い、苦悩に直面したときだけでなく常に神と語り合い、「神とわたし」の絆を深めていくように助けることにあります。カトリック信者にとっては、この神との絆は、教会のいのちの泉であるご聖体の秘跡に最大限の努力をもって与ることで深められるのです。

ごミサを「生きる」努力を傾ける者にとって、つまり、このキリストのいけにえに一致することによって、品位ある人間的活動はすべて、ある意味で典礼に変わると言うことができるでしょう。この展望によって生きるなら、生活において大部分を占めている、家族的、職業的、社会的な務めは、わたしたちを神から引き離すものではないことが分かるでしょう。むしろ、様々な活動に伴う出来事や問題は、祈りを深める機会となることでしょう。弱さを経験し、困難に出会い、あらゆる努力を傾けることに疲れたとしても、神の恩恵に支えを求めるのなら、より現実的に生き、より謙遜になり、より理解を示し、人々の兄弟となることができるでしょう。また、神の歩調に合わせて生きる者にとっては、成功と喜びは神に感謝を捧げる機会となり、わたしたちはいつも神と人々の奉仕に生きるべきであることを思い出す機会となることでしょう。教皇が最新の回勅でも言及なさっている通り、神との親しさを生きることは、「石の心」を「肉の心」(エゼキエル36,26参照)へと変えることでもあります。こうして、地上の生活を「神的」な生活へと変容し、より人間に相応しいものへと変えていくのです(『真理における愛徳』79参照)。

パレスチナを巡り歩かれたイエスは、真っ先に人々の苦しみに心を向けられました。同じように、「近くにおいでになる神」を認め愛するキリスト者は、人々の苦しみに対して無関心でいることはできません。これは、「愛の好循環」となります。神を身近に感じることは、人々を身近に感じることになり、「兄弟たちに対して心を開き、人生を連帯と喜びの務めとして理解する」(『真理における愛徳』78)ことになるのです。

その一方で、神を遠くに押しやり、創造主に無関心になると、遅かれ早かれ、人間の価値を見失い、その土台を喪失することになるでしょう。「正義と人々の発展を目指す困難かつ刺激的な責務において、また、人間の諸現実に正しい秩序を打ち立てるために絶え間なく努力を傾けることにおいて、神の不滅の愛を認めることこそ、わたしたちを支えてくれるのです。神の愛は、有限なもの、はかない事柄から脱却するようにと、わたしたちを招いています。神の愛は、すべての人々の善を探し続けるようにと、わたしたちに勇気を与えてくれるのです」(同上)。

普遍教会の頭としての使命を、教皇はどのように理解しておられるのでしょうか。就任ミサの中で、教皇は次のようにお話しになりました。「牧者の務めは、骨の折れるものだと考えられることが多いかもしれません。しかし、それはすばらしく、崇高な務めです。なぜなら、それはほんとうの意味で、喜びに奉仕すること、世の中に入ることを望んでいる、神の喜びに奉仕することだからです」。また、同じ説教の中で、「福音に驚きを感じること、キリストと出会うこと以上にすばらしいことはありません。キリストを知ること、わたしたちがキリストの友であることを、人に語ること以上にすばらしいことはありません」(就任ミサ説教、2005年4月24日)と、力強くお話しになりました。つまり、神から来る喜びを人々に伝えること、このように教皇様はご自身の使命を理解しておられるのです。神の愛に応えるという新たな活力を世界中に引き起こすことを、ご自身の使命と考えておられるのです。

教皇として働いて来られたこれまでの5年間、様々な攻撃にもさらされてこれらました。この攻撃は、人間社会から創造主を引き離そうと躍起になっている人々が企てているものです。また、「地の塩」、「世の光」(マタイ5,14-16参照)となるために招かれている人々の信仰に合致しない生き方や罪のために、教皇は苦しんでおられます。ただし、わたしたちは驚くべきではありません。なぜなら、困難は、キリスト者の歩みにいつも伴うものであり、弟子は先生以上の者ではないからです。イエス・キリストはお教えになりました。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」(ヨハネ15,20)。また、主が加えて仰せになったことを忘れてはなりません。「わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう」(同上)。

このキリストの言葉に、わたしたちキリスト者の不滅の楽観が存在するのです。この不滅の楽観は、教会を決して見捨てない聖霊によって勇気付けられているのです。歴史から学びましょう。2000年の歴史の中で、いくたび、キリストの教会はもはや終った、という不穏な叫びが繰り返されたことでしょう。しかしながら、慰め主の後押しによって、それらの試練を乗り越えた教会は、試練のたびに、より若くより美しくなり、より力強く人々を救いの道へ導いて来たのでした。そのことをわたしたちはここ数年、目の当たりにしてきました。教皇の精神的かつ知的な権威、苦しむ人々に寄り添い関心を寄せる教皇のお姿、愛を示しつつも真理と善を守るための教皇の毅然とした態度、これらは、あらゆる信仰を生きる人々を力づけてきました。ローマ教皇は、目まぐるしく変わる地上を照らすともし火であり続けているのです。

わたし自身の司教としての職務において、カトリック信者やそうでない人々、さらに多くのキリスト者でない善意の人々が、教皇への感謝の念を表明しています。この人々は、それぞれが直面する様々な状況において、ベネディクト16世の確固とした、また、希望に満ちた態度が、福音への信頼を固め、教会へに近づく機会となり、さらに、教皇が語り続けておられる「近くにおいでになる神」への新たな関心をもたらしてくれたと打ち明けています。ベネディクト16世の喜びに満ちた言葉によって、日々豊かにされている人は実に多いのです。信仰の光で潤された教皇の言葉は、豊富な知識を駆使し、大変分かり易く、ご自身のイエス・キリストとの個人的関係を証しています。神が、人類全体の善のために、教皇をわたしたちの指導者として末永くお守りくださいますように。

 

+ハビエル・エチェバリーア

オプス・デイ属人区長