神のいつくしみの秘跡:ゆるしの秘跡について(IX)決心

フランシスコ・ルナ著(新田壮一郎訳)『神のいつくしみの秘跡:ゆるしの秘跡について』より

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決心

罪を犯した後で生まれる痛みに二度と繰り返さないという決心が伴っていなければ、心からの悔い改めであるとは言えません。

子供の時、決心の不足と呼べそうな話を読んだことを憶えています。多くの弱さを持った男の話です。数ある弱さの中でも、一生の悩みの種であると同時に、すばらしい富をもたらす弱さをもっていました。自分の欲しい物は他人の物であろうと手に入れたいという弱さだったのです。ある日、ミサの説教を聞いた後で、ゆるしの秘跡を受ける決心しました。告解場に行き、司祭の前にひざまずいて、告白を始めます。「神父様、私は盗みを働きました」。聴罪師は黙って聞いていました。その男がいろいろな罪状を述べたてた後で、司祭は大切だと思われることをいくつか尋ねます。「ところで何を盗みましたか?」、「麦の入った袋を」。「いくつぐらい?」「三つです。いや六つとしておきましょう。明日、残りの袋を持って帰るつもりですから」。

実りあるゆるしの秘跡にあずかるために、必要な条件である生活を改める決心、二度と犯すまいという決心に欠けていることは、すぐお分かりでしょう。決心したからと言って、間違いなく二度と犯すことはないという保証があるというわけではありません。しかし、ゆるしの秘跡を受けるためには、同じ事を繰り返さないように出来るだけの手段を尽くす心構えがなければなりません。絶対に二度と同じ罪を犯さないという保証は必要ではないのです。誰一人として、二度と罪を犯さないという確信の持てる人はいないはずです。だからと言って、ゆるしの秘跡から遠ざかるのは愚かなことです。回復期にある病人は、再び悪化する可能性があると知りながら、薬の服用を止めるようなことはしません。悪くなる可能性が残っているからこそ、漂流者が浮袋を手放さないのと同様に、薬の服用を続けるのです。同じ理由で、ゆるしの秘跡を受け続けなければなりません。聖ペトロが、「何度赦さねばなりませんか」と、主に尋ねた時、寛大な態度を示すつもりで、「七度までですか」と言うと、主イエスは何度とは言わず、「七の七十倍まで」と、お答えになりました(マタイ18・21~22参照)。必要な準備さえできていれば、何度でもわたしたちを赦してくださるということです。

心構えが真摯であれば、おのずと分かるわかるものです。二度と失敗したくないと思っている人なら、罪の機会になりそうなことには自然に気付きます。再び神を侮辱する危険のある機会を極力避けようと堅く決心しているからです。神の恩恵を失う恐れのある行いに誘う友達を遠ざけていないなら、罪の機会を避けたとは言えないでしょう。主の掟を忘れる動機になったことを、相も変わらず行い続けているなら、やはり罪の機会を避けているとは言えません。害を受けると知りながら、ある種の享楽におもむく者は、罪の機会を避けているとは言えるでしょうか。悪い思いや考えを誘発する書物を読み耽るなら、この時も同様です。自分を欺かないように注意すべきです。罪を避けたいと心から願っているなら、そのための手立てを講ずるのは当然なことです。早く回復したいと望んでいる病人なら、薬を服用し、食事療法を続けることでしょう。「罪は犯したくはないのだが、弱いので……」。だからこそ、弱いからこそ、罪の機会を避けるよう努力する義務があるのです。

強くなって罪に抵抗したいと思うから、あらゆる手段を尽くして罪の機会を避ける努力をし、罪を犯すまいと決心すべきなのではないでしょうか。この積極的と呼べる手段が、すなわち祈りです。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(ルカ22・46)と、主が教えておられます。できれば毎日、ご聖体のイエス・キリストと接することや聖母マリアと付き合うことは大切で有効な手段です。イエス・キリストとマリアに力をくださるようお願いしないで、官能や怠惰や利己主義などの誘惑にうち勝つことはできないのではないでしょうか。