罪の重さ
人間は、自然に備わった一連の能力、機能を持って誕生します。しかし、洗礼を受けると同時に恩恵と共に、信仰、希望、愛という対神徳もいただきます。こうして超自然の生活を営むことが出来るようになります。しかし、自然徳であれ、超自然徳であれ、徳とは出発点のようなものであって、自らの努力と神の助けによって獲得すべき物を手に入れるための手段なのです。罪の重大さを理解するには、超自然徳の光を受けて生活を見直し、神の愛の深さを知る必要があります。
神は、永遠の昔からわたしたちのことを考えておいでになります。しかし、神の思いに過ぎなかったわたしたちをこの上なくお愛しになった結果、生きる者にしてくださいました。神の愛は非常に大きく、人間の力の及ばないことでもすぐ実現なさいます。わたしたちがどれほど強く望んだとしても、存在しないものを存在させることはできません。いつか実現するだろうと期待し、希望するほか、仕方がないのです。しかし、神にあっては、様子は異なります。神はお愛しになると、非常な力でお愛しになるので、生命さえお与えになります。これがわたしたちの存在することの理由です。わたしたちを愛する神の愛、それこそわたしたちが存在する理由です。神の愛こそ、思いにすぎないものを存在にまで導くことのできる唯一の愛です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」(創世記1・26)。
こうして、神はわたしたちをご自身の似姿としてお創りになりました。わたしたちが神を知り、お愛しすることにより、わたしたちが幸せになれるためです。それは神のかたわらで永遠に楽しむ幸せであり、あの使徒でさえ、次のようにいわざるを得なかったのです。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリントの信徒への手紙一2・9)。
神はわたしたちを死ななくてもいいようにし、恩恵と賜物で満たしてくださいました。しかし楽園で不従順の罪を犯し、肉体の不死と霊魂の恩恵を失ってしまいます。ところが、わたしたちをお見捨てにならず、罪を犯した人間が償いをするようにと望まれました。しかし、それは不可能なことでした。原罪を犯した後の人間は、自分の力だけで元の秩序をとり戻すことは出来なかったのです。その時、神の御子が処女マリアの胎内で人となられました。全被造物が経験する苦労や仕事や死を、身をもって経験することにより、神の御子ご自身が、原罪によって生じた負債を支払うためでした。十字架上で死去されることで、わたしたちを赦し、すべての人間の罪の贖うための生け贄として、ご自身を御父に捧げられたのです。
罪とは何でしょうか。先に述べたように、イエス・キリストの犠牲を軽視、軽蔑することだと言えます。わたしたちをお創りになった神の愛、わたしたちを存在させてくださる神の愛、神の御子の受肉(託身)、イエス・キリストの何十年にもわたる労働の生活、神の御子の隠れた生活、マリアとヨセフに従っておられた三十年間、十字架上の死、こういう事をすべて忘れてしまうこと、それこそが罪です。
罪の醜さを理解しない人がいるのは、神を見ないで自分自身を見、過失があたかも過失を犯した時に感じる気持次第であるかのように振舞うからです。神を侮辱したかどうかは、自分の嫌悪感や、しまった、という気持の回顧ではなく、神から離れたかどうかにかかっていること、これを忘れ去っているのです。主日や守るべき祭日にごミサにあずからない時、神にそむいたと後悔しながら眠りにつくことでしょう。しかし、同じ事を何度か繰返していると、だんだんと慣れに陥ってしまいます。初めて掟を守らなかった時ほど良心の痛みを感じなくなります。しかし、たとえ悔恨と後悔を感じなくなったとしても、罪が軽くなったわけではありません。
罪の重さを計る秤は、心の中で感じることや外面に表われる気持ではありません。罪の重さの物差しとは、過失によって生まれる個人的な印象ではなく、神がそれについてどう言われるかなのです。大罪であれ小罪であれ、常に神を侮辱することになります。しかし、たいてい感覚的に感じることは少ないものですから、万一、神との関係を、呵責を感じるか感じないかによって判断することに慣れてしまうと、犯した過失はたいしたことではなかったとか、それほど重大でなかったという結論になることが多くなり、少しずつ良心を歪めてしまいます。このようにして、わたしたちを本当に幸せにすることのできる唯一の御方から、少しずつ遠ざかってしまうのです。