罪
自らの罪を認めること、罪人であることを知ることこそ、改心の第一歩です。もちろん、この神との和解の第一歩もゆるしの秘跡において、最終的に罪の赦しを得るまでの歩みと同じように、神の恩恵なしには踏みだせないものです。
しかし、恩恵は自然を無効にすることも破壊することもありません。ということは、恩恵に協力する義務があるということです。何もかも全面的に主にお任せするのではなく、わたしたち一人ひとりが協力しなければならないのです。すなわち、差しのべられた御手に届くことが出来るように、わたしたちが努力しなくてはならないということです。勉強や読書、あるいは知識のある人の援助を得て、キリスト教倫理の根本的な考えを会得しなければなりません。実際には罪でないことを罪であると考えたり、反対に確かに神の法に不従順であるものを、神を侮辱することにはならないと考えたりしないためです。自らの過失を知ることさえできないのであれば、改心の第一歩を踏みだすことはできません。
神を憎んで重大な悪を行うときのみ、罪が成立すると考える人がいるようですが、間違っています。罪が成立するために、神と対決するという具体的な意図は必要ありません。実際には、罪とは神の法に反する、背くと知りながら考えたり行ったりすることです。従って、法を知りながらその法を守らないなら、罪を犯したことになります。
言い換えると、罪とは突然天から降って湧いてくるようなものではなく、三つの条件が満たされた時、罪が成立します。
(1)ある考えや思い、言葉や望み、行いや怠りが、重大な事柄(悪)であること。
(2)(1)が神を侮辱するものであることを充分に自覚していること。
(3)意図的に承諾して、実行に移すこと。
このような状況を、それぞれ、対象、意識(知識)、同意(承認)と呼びます。この三つの条件がそろった時、個人の罪が成立します。それは、悪を悪と知りつつ、主を侮辱すると分かっていながら、その悪を望むからです。
こういう状況にあってのみ罪を犯すのであれば、神の掟を知らない方がいいと、考えるのは誤りです。知ろうとする努力がないところから生じる無知は、過失から出たものです(過失ある無知と言えます)。従って、過失から生じた無知だけでなく、その無知が原因となって犯した全ての罪の責任を負わねばならないことになり、主のお言葉がぴったり当てはまります。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは、聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない』」(マタイ13・14)。
*大罪と小罪の違いについて、『カトリック教会のカテキズム要約』(395と396)から引用しておきましょう。
「大罪になるのは、重大なことがらであること、十分な自覚、意図的な承諾の三つがそろっているときです」。「小罪は大罪と本質的に異なるもので、軽微なことがらの場合、あるいは重大なことがらについても、十分な自覚あるいは完全な承諾がない」場合です(改訂者の注)。