この世で
幸いなことに、わたしたちの犯した罪に相当する罰をすべて煉獄で償う必要はありません。この世で生活する間に償いを果たすことができるのです。だからと言って、この世の生活を絶えまない苦しみに変えなければならないということではありません。この世の生活は喜びにあふれたもの、何らかのかたちで天国の幸せを享受できる時であり、そうなるように努力しなければなりません。
このような経験が皆さんにもおありでしょう。一月のある朝早く、空にはまだ星の光が残っている頃、バスの停留所に向かいました。列に従って待っていると、最初に来たバスはすぐ満員になり、自分の順番が来る前に出発してしまいました。二台目が来てやっと乗り込みましたが、出口のところですし詰め状態になりました。発車後、初めのカーブにさしかかると、乗客たちが皆、大きく揺れます。その時、一人の男が、そんな気持はなかったのでしょうが、もろに私にぶつかってきたのです。こんな早朝パスの中で話しかける人はいません。わたしたちもふっと顔を見合わせただけで無言でした。しかし、二つ目のカーブに入ると、今度の揺れは前よりもかなりひどいものでした。けれども、やはり無言。ところが、三度目にも同じことが起こったのです。その男も黙っていられなくなりました。「すみません。こんなに寒いと、ポケットから手を出して吊り皮に捉まりたくないものですから」。たいていの場合、一番良い償いは私たちのすぐ手近にあるものです。もう少し値打ちのあるものと思って、神に捧げる機会を捜しまわる必要などないのです。
小さなところまで気を配ってやりとげた仕事、時間厳守、整理整頓、秩序、喋り過ぎないこと、忍耐して怒りを抑えること、気の合わない人と仲良く生活すること、意見の合わない人とも心静かに共同作業に携わること、食事の時の小さな犠牲、起床や就寝の時間を守ること、やり始めた仕事は中途半端な状態で放棄せずに最後までやり遂げること、詰まらないことにこだわらないなど、いずれもすばらしい犠牲の機会であり、主にお捧げすることのできる小さな苦しみです。その上、苦しみといっても、主がカルワリオで忍ばれた苦しみとは比較になりません。
たとえ取るに足りない小さなことであっても、愛をこめて実行すれば、素晴らしい値打ちがあります。「万事を愛のために行いなさい。そうすれば、小さいことなど存在しない。万事が偉大である。神の愛のために小さなことを粘り強く実行し続けることは英雄的である」(『道』813)。
しかも、この愛の試練は、喜びにあります。善い行いをしても喜びがなく、かえって嫌々ながら、ということであれば、功徳も半減するでしょう。主ご自身が言っておられます。「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それはあなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父がむくいてくださる」(マタイ6・17~18)。
毎日の生活につきものの苦しみを、仕方なく我慢するという態度は、あまり好ましくありません。すべて神から来るものであって、すべてがわたしたちの罪の償いになります。償いをするという確信を持って受けとめるなら、罪に見合った罰を軽くするためにも役に立つのです。
しかし、このような態度で生活しようと思えば、物事を信仰の目で見る必要があります。信仰だけが、苦しみの中にも喜びのあることを教えてくれるのです。生涯を通して苦しみ続けた聖人は大勢いますが、生前、誰の目にも喜びにあふれた人と見えたものです。信仰があれば、わたしたちの周囲に起こることすべてに意味があります。何一つとして、神のお認めにならないことは起こりません。従って、キリスト信者にとっては、病気も障害も、死でさえも、神の愛のあらわれであり、わたしたちの犯した悪や罪を浄め、できるだけ早く天国で共に居ることができるようにと、神が望んでおいでになることが分かるのです。