償いを果たす
包み隠さず増減なく誠実、正直に罪を言い表すと、司祭が償いを与えます。この償いの意味を知らずに、ただ司祭はいつも償いを命じるから、また、幼いころからいつも償いを命じられてきたからと思って、償いについて深く考えない人がいるかも知れません。償いは果たすけれども、償いの意味が分かっていない証拠です。
罪の醜さを完全に理解することは難しいものです。償いの必要についても同様です。しかし、重い罰があれば、罪の重さ、重大さを知ることができます。大罪を犯せば、地獄の永遠の罰を受けます。そこでは終わりのない苦しみがあり、さらに悲しいことには、最高善である神を愛することは絶対にできなくなります。小罪を犯せば、煉獄の罰を受けます。そこでは、地獄の責め苦に劣らない苦しみを受けるけれども、いずれ永遠の幸福を得ることができるという希望があるので、少しは苦しみも軽く感じられることでしょう。神の啓示によれば、このような罰は神の正義と聖性を損なった罪の結果であり、数多くの悪をこの世にもたらした罪の遺産です。天国の喜びを得ようと思えば、避けることのできない苦しみなのです。
秘跡において赦しを受けると、罪と罪に見合った罰が赦されます。しかし、ゆるしの秘跡を受ける時にわたしたちの持っている痛悔は、普通の場合、完全だとは言えません。もちろんこの時も、罪は実際に赦されます。ただ、わたしたちの神への愛は純粋で美しいものとは言えないので、過失や罪の罰をすべて赦していただくことはできないのです。これは煉獄が存在するということからも容易に理解できるでしょう。罪はその結果として、汚れと罰とを残します。罪が赦されると同時に、永遠の死からは免れますが、罪の残りと罪に帰せられる有限の罰のすべてが常にゆるされるとは限らないのです。痛悔の心をもってこの世を去った者も、完全に罪の償いの果たし終えていないなら、煉獄の清めが必要です。罪の結果である罰は、現世の苦しみや惨めさや悲しみによって浄められる必要があり、特に死後、火と責め苦によって清められなければなりません。
イエス・キリストに対する愛は、その赦しのことばを信じ、感謝するだけで充分であるとは言えません。愛が本物であれば、イエスと共にその苦しみと悲しみを分ち合うはずでしょう。
以上で、償いの必要なことが少し理解できたのではないでしょうか。「アヴェ・マリア……」を三度唱えるようにとか、聖体訪問を一度しなさいとか言われて、その償いを果たす時は、良い勧めに従うだけでなく、罪を犯して神を侮辱した時の負債の一部を支払うことになるのです。正義という点から見れば、償いは罪の重さに比例したものでなければなりません。しかし、様々な理由から、罪にふさわしい償いをすることは、なかなか出来るものではありません。普通の場合、聴罪司祭は、償いの第一歩として、ごく簡単な償いを与えます。しかし、それで満足しないで、自発的に祈りや犠牲や善行、現世の苦しみに忍耐することなどによって償いを続ける必要があるでしょう。
神を侮辱するということは、重大なことです。罪の負債を完全に支払うことなど、人間にはできないと言えます。けれども、愛と犠牲に満ちた生活を送ることによって、少しでも償いをするのがわたしたちにとって必要なことです。イエス・キリストは、受難と十字架上の死によって、負債の大部分を引き受けてくださったのです。