神のいつくしみの秘跡:ゆるしの秘跡について(I)

フランシスコ・ルナ著(新田壮一郎訳)『神のいつくしみの秘跡:ゆるしの秘跡について』より

罪人

自己愛。わたしたちが自分を実際以上にたいした人物であるかのように信じ込ませるのは、自己愛のなす業です。大勢の人々が自分を買い被り、実際以上に知的で強く美しいと思い込んでいます。もちろん、慎みが邪魔をして、自分の思っていることをあからさまに人に話すようなことはしないでしょう。しかし、他人に自分を評価されると、決って、自分がどんな値打のある人間かこの人には分かっていないと思ってしまうようです。

実際、自分の欠点を冗談半分に話すことはたやすいことです。しかし、心の底ではそうは思っていないのではないでしょうか。その証拠に、同じ事柄であっても他人から欠点を指摘されると、聞き捨てにはできません。内心穏やかでなくなり、太陽にも黒点があると、自己弁護をしてしまうのです。

こういう振舞いは、たいてい笑ってすませられることですが、主とのお付き合いに関する限り、決定的な影響を与えることがあります。このように浅薄な物の見方を続けていると、自分の過失をごまかすようになり、それによって乗り越えることのできない壁を作り、主に近づいて親しく語り合うことがむつかしくなるからです。

『カトリック教会のカテキズム』は、ゆるしの秘跡について説明するに当り、まず心からの回心、内的悔い改めを求めています。「内的悔い改めとは、生活全体の根本的転向、つまり心の底から神に立ち返り、罪を絶ち、悪から遠ざかり、犯した悪い行為を嫌悪することです。それは同時に、神のあわれみを希望し、その恵の助けに信頼して、生き方を変えようという望みと決心とを伴うものです」(1431番)。

この悔い改め(痛悔)はゆるしの秘跡を効果的に受けるために欠かすことのできない部分です。この内的悔い改めがなければ、罪を告白することもほとんど無益になります。ですから、謙遜に罪を認めることが大切になります。福音書に現われるファリサイ人のようにはなりたくありません。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしは、ほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは、週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18・9〜13)。主の言葉を注意して読んでみると、はっと思い当たるのではありませんか。わたしたちはあのファリサイ人によく似ているのではないでしょうか。

超自然の生活を自分に都合の良いように解釈し、それに見合った生活が一応は出来ているので、自分はなかなかの善人であると思い込んでいるのではないでしょうか。福音書のたとえに登場するファリサイ人は、一見したところ立派な振舞いをしています。しかし、大切なことを忘れていました。神を愛するとは施し物をし、隣人の所有物を尊重し、断食をすることだけではないはずです。徴税人は、ファリサイ人より多くの罪を犯したでしょう。しかし、それにもかかわらず、赦されて家に帰りました。自分の罪を謙遜に認め、赦しを願ったからです。

主は、このたとえを使って何を教えようとしておられるのでしょう。ファリサイ人の言ったことも、徴税人の言ったことも、どちらも本当ではなかったのでしょうか。いずれの場合も、言っていることに嘘はありません。しかし、ファリサイ人の場合は、真実の半分しか述べなかったのです。自分の良いところばかりを見ていました。しかも、イエス・キリストの教えに照らして自分の徳を評価する代わりに、自分の利己心が作りだした基準に合せて他人と比較したのです。自らの罪の赦しを乞い、心を神にささげて、初めて正しい者とされるという事実を忘れてしまったのです。

ファリサイ人は神を愛していなかったと言えます。自分自身を愛し、自分の徳を誇っていたのです。他人を軽蔑し、それが最もひどい罪である事に気付かなかったのです。隣人の持物や隣人の妻を尊敬していたので、盗み、姦通などの罪の赦しを乞う必要はなく、その点では、善人であり、良心の呵責もありません。しかし、徴税人を蔑視したことについてはそうはいきません。この点では、主とは似ても似つかないからです。神は徴税人をお赦しになりましたが、ファリサイ人は徴税人を軽蔑しました。隣人愛に欠けていたという点で赦しを乞わなければならなかったはずです。しかし、自己愛が途方もなく大きいために、一番大切なことを忘れてしまったのです。何ものにもまして神を愛し、自分を愛するごとく隣人をも愛する義務があります。この点で彼はあやまちを犯しました。心の盲目という原因もあったでしょう。善い事をしていたにもかかわらず、罪人であることが高慢さのゆえに分からなかったのです。掟の大部分は果たしていましたが、隣人愛については掟を守っていません。ファリサイ人の罪は、罪がないと思った点にあります。自己の過ちを認めなかったがために、赦しも乞わず、神殿を訪れた時と同じ状態で神殿を後にしたのでした。

高慢や自己愛あるいは不誠実が原因となって、なぜ、どこに、痛悔すべきことがあるのかが分からなくなったのです。だからこそ、あのファリサイ人は良心に痛みを感じることもなく、平然としていられたのでしょう。