復活節:私は復活し、今もなお、あなたとともにいる(2)

四旬節や他の典礼節ができるずっと前から、キリスト教共同体はこの五十日間の喜びを祝っていました。復活節に喜びを表さない者は、信仰の核心を理解していないと見なされました。

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復活節の五十日間

四旬節や他の典礼節ができるずっと前から、キリスト教共同体はこの五十日間の喜びを祝っていました。復活節に喜びを表さない者は、信仰の核心を理解していないと見なされました。なぜなら、「喜びは、つねにイエス・キリストとともに生み出され、新たにされ」[1]るからです。この長期にわたるお祝いは、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」[2]ということを教えてくれます。復活節の間、教会は、主が私たちに準備してくれた「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」[3]の喜びをすでに生きています。

この天国を先取りする感覚は、「復活節の間は旧約聖書を朗読しない」という形で典礼に反映されています。これは何世紀も前から実践されてきたことです。旧約は神の国の到来を準備しましたが、この五十日間はすでに現実となった神の国を祝う時です。復活によってすべては新しくされ、成就されました。ですから予型は必要とされないのです。復活節の典礼ではヨハネ福音書とともに使徒言行録と黙示録が朗読されます。これらの書は、復活節の霊性と特別な形で親和し、輝きを放ちます。

東方教会・西方教会の著述家たちは、復活節の五十日間全体を「一つの長い祝祭の日」として理解していました。そのため、この期間の主日は「復活後第2主日、第3主日…」とは呼ばれず、単に「復活節第〇主日」と呼ばれます。復活節全体が、一つの大きな主日のようなものなのです。同様に聖霊降臨の主日も新たなお祝いではなく、復活節という大いなる祝祭を締めくくる日なのです。

教会の伝統的な賛歌の中には、四旬節の始まりにあたり、惜別の調子で「アレルヤ」と歌うものがあります。それに対して復活節の典礼では、喜びを存分に味わいながら「アレルヤ」と歌います。なぜならそのアレルヤは、天においてキリストとともに復活した者が歌う「新しい歌」[4]を先取りするからです。そのため復活節のミサでは、答唱詩編や入祭唱、拝領唱において頻繁に「アレルヤ」と唱えます。「アレルヤ」とは、ヘブライ語の動詞「ハラル(賛美する)」の命令形と神の名「ヤーウェ」が結びついた言葉で、「主を賛美せよ」という意味です。

聖アウグスティヌスは説教の中でこう述べています。「あちら(天国)で歌うアレルヤはなんと幸いなことでしょう!そのアレルヤは確実で恐れを伴いません。そこではもはや敵は存在せず、友を失うこともないからです。こちら(この世)でも、あちらでも神的な賛美は響きわたります。しかし、こちらでは困難のただ中おいて、あちらでは安全のうちに歌われます。こちらでは死すべき者たちが、あちらでは永遠に生きる者たちが。こちらでは希望のうちに、あちらでは栄光のうちに。こちらでは旅の途上の者たちが、あちらでは故郷に到達した者たちが神を賛美するのです」[5]。聖ヒエロニモによると、初代教会の時代、パレスチナ地方では「アレルヤ」と声に出すことが一般的になり、畑を耕す農夫たちは時折「アレルヤ!」と声を上げ、川を渡るために船を漕ぐ者たちは、すれ違うたびに「アレルヤ!」と挨拶を交わしていたそうです。「復活節の間、教会は深く穏やかな喜びに満たされています。それは、私たちの主がすべてのキリスト者に遺したものであり(...)、超自然的なものに満ちた喜びです。誰であれ、何であれ、私たちからそれを奪うことはできません。私たちがそれを手放さない限り」[6]


[1] フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』1番。

[2] ローマ8・18。

[3] 一コリント2・9。

[4] 黙示録5・9。

[5] 聖アウグスティヌス(Sermo 256, 3 [PL 38, 1193])。

[6] 福者アルバロ・デル・ポルティージョ(Caminar con Jesús, Cristiandad: Madrid, 2014, 197)。

Félix María Arocena