念禱「あなたが私を祝福するまで、私はあなたを離しません」(IV)

「祝福してください」。太祖ヤコブはそれ以下では満足しません。彼は主をしっかりと捕らえ、離しません。しかし、その祝福とは何でしょうか?

シリーズ: 戦い、親しさ、使命 (5)

念禱「あなたが私を祝福するまで、私はあなたを離しません」(IV)

これまでの記事を読む


あなたが私を祝福するまで、私はあなたを離しません

「祝福してください」。太祖ヤコブはそれ以下では満足しません。彼は主をしっかりと捕らえ、離しません。しかし、その祝福とは何でしょうか?ヤコブは神を見る喜びを持ち、そしてその喜びは、神を見てもなお自分が生きていることに気づいたとき、増します。祝福とは、神の御顔を観想することであり、それは私たちを神の平和、喜び、慈しみで満たします。それは私たちの意志によって実現できるものではなく、聖霊の賜物に心を開くことによって得られます。「わたしたちの全生涯は、この長い戦いと祈りの夜のようなものです。わたしたちはこの夜を、神の祝福を望み、願いながら過ごさなければなりません。わたしたちは自分の力に頼って神の祝福を奪い取ることも勝ち取ることもできません。むしろそれを、へりくだって、無償のたまものとして神から受け取らなければなりません。このたまものが、ついには、主のみ顔を見いだすことを可能にしてくれるのです」[1]

ですから、私たちは忍耐強く待たなければなりません。ヤコブは夜明けまで一晩中待たなければなりませんでした。彼は逃げず、あきらめませんでした。私たちが何度も何度も願い求めるなら、祝福は私たちに与えられます。私たちは自分にできること、沈黙・落ち着き・心の自由を追求します。一方、観想の賜物、知識・聡明・上智を与えてくれるのは神です。私たちはそれらを自分で得ることはできません。それらは、神が望むときに受けることができる賜物です。私たちはそれらを謙遜に求め、待たなければなりません。主はそれらを少しずつ、もしくは場合によっては一度に与えてくれます。そして、この祝福を一口ずつ、または溢れんばかりに受け取ったなら、私たちは遠くを見つめながら旅路を続けます。その祝福は一時的なものではなく永続的なものだからです。ヤコブは出発しました…どこへ向かったのでしょうか?それはあまり重要ではありません。大切なのは、彼の魂にはすでに主の御顔が刻まれているということです。「太祖ヤコブが戦いの初めに願った祝福が、今や彼に与えられます。それは策略によってつかみ取った祝福ではなく、神が無償で与えた祝福です。ヤコブはこの祝福を受けることができます。なぜなら、今や彼は独りきりで、保護も策謀も策略もなしに、無防備で自らを与え、降伏することを受け入れ、自分自身について真実を告白するからです」[2]

「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」とヤコブは言います。この奇妙な戦いを通して、彼は目の前にいる方を知るようになっていきました。私たちも生涯を通じて、祈りによって神を知るようになり、神を理解していきます。あるいは、たとえ理解できなくても少なくとも神の〈やり方〉を受け入れるようになっていきます。私たちは彼の名を知りたいと思います:「あなたは誰ですか?」。私たちは彼を見たいと思います。そして神は自身を現しますが、同時に隠れます。それは私たちが神を探し続け、神によって生きるために、神の探求によって生きるためです。

この神秘的な物語の結末は、私たちの信仰がほとんど常にそうであるように、逆説的です。神はヤコブを祝福し、その勝利を称えますが、結局のところ彼の腿の関節を外しました。太祖ヤコブは良く戦い、謎の相手に屈することなく立ち向かいました。しかし、これからは足を引きずって歩くことになります。それはこの戦いを思い起こさせる一種の勲章となるでしょう。「そして、このヤコブこそが、神から祝福を受け、その祝福とともに足を引きずりながら約束の地に入るのです。傷つきやすく、傷ついていますが、彼の心は新しくなりました」[3]。私たちもまた戦いから、傷つき、刷新されて出てきます。私たちの地上的な確かさは外され、今は神の印によって導かれるのです。神は私たちを祝福し、これからも祝福し続けますが、私たちの真の安全は神の中にあるということを深く自覚するようにさせます。そして、私たちは祈れば祈るほど、神を必要としていること、神と〈格闘〉する必要があることに気づきます。そして、ますます神の祝福を求めるのです:「あなたが私を祝福するまで、私はあなたを離しません」。


[1] ベネディクト十六世、一般謁見演説、2011年5月25日。

[2] 同。

[3] フランシスコ、一般謁見演説、2020年6月10日。

Ricard Sada