シリーズ: 戦い、親しさ、使命 (5)
念禱「あなたが私を祝福するまで、私はあなたを離しません」(III)
暗闇と試練の中で
戦いは夜に繰り広げられます。それは信仰で生きる夜です。信仰の他に主と顔と顔を合わせるための手段はありません。私たちの探求は「純粋な信仰のうちに」暗闇の中で行われます。「その信仰とは、わたしたちをイエスから生まれさせ、イエスのうちに生きることができるようにしてくれる信仰のことです」[1]。感情ではなく(それが訪れれば歓迎し、去ればそれでよしとします)純粋な理性でもありません。私たちは精神的な〈曲芸〉をするのではありません。私たちが灯すのは、私たちとの出会いを望む生ける方への信仰です。信仰において、私たちは感覚の即時性も、論理の明確さも持ち合わせていません。私たちは直観の時まで、薄明かりの中を歩んでいます。しかし、信仰の暗闇はより遠くを見ることを可能にします。昼間、私たちの視界は数十キロメートル先まで届きますが、夜には何百万光年も離れた天体を見ることができます。信仰は私たちに新しい世界を見せてくれます。
観想の戦いはまた、落胆や乾燥、信仰の疲れ、さらには多くの財産を持っているために主に完全に身を委ねないことの悲しみ(マルコ10・22節参照)にさえも直面することも意味します。または、時に私たちのものとは非常に異なって見える神の論理に対する内なる反抗心や、それが自分には向いていない、その感性が自分にはないという思いと向き合うことを意味します。「私は幻想に浸っているのではないか?いったい何の役に立つのだろう。あまりにも神秘主義的ではないか?」この時、ヤコブは戦うのをやめることもできたでしょう。実際、彼は戦いながらためらいを感じたかもしれません。しかし、彼は戦い続けました。私たちは、愛の道、つまり信頼と委託の道を歩んでいることを思い出しながら、固い決意を持って幼子の心で前進していかなければなりません。
黙想の祈りが道のりに着目するものだとするならば、観想はその目指すものに目を向けることだと言えます。私たちは自分が一緒にいたいと望む方と共にいます。今、私たちは徳や決心、闘いについて考えません。それらはすべて黙想で取り扱います。私たちの時間、私たちの時間の空白は今、彼の存在だけで満たされています。私たちは望みを燃え上がらせ、渇望し熱望し天国を先取りします。天国の大きさは私たちの望みの大きさに比例します。神への渇き、「神の涙のわけを悟りたい、神の微笑み、神の顔を仰ぎ見たいという熱い望み」[2]です。そしてその願いを持って平和に満たされて観想の道に入るとき、私たちは命を歩む者となります。「そうなると、捕われ人、虜になったように感じる。そして、力に限りがあり過ちを犯しつつも、最善を尽くして、職業上、身分上の義務を果たしているならば、心はそこから逃れて神に向かうことを熱望する。ちょうど鉄が磁石に吸い寄せられるように」[3]。
ヤコブは、神が出会いに来た場所にたどり着くまで、長い時間歩かねばなりませんでした。そこには同伴者はいませんでした。聖書は、この出来事は彼が一人になったときに起こったと伝えています。また、彼は荷物も持っていませんでした。持っていたすべてのものを川の向こう岸に渡したばかりでした(創世記32・24-25参照)。そして「夜」が必要です。つまり、その交流には心を静めることが求められるのです。「この格闘のときばかりは、彼はどうすることもできず、その狡猾さも何の役にもたちません。もはやその策略も打算も通用しません。(...)そのとき彼は、自分の弱さ、無力さ、そして罪を神にさらけだすしかないのです」[4]。神は、彼が無防備で、気をそらす他のものから解放されている時に、彼を探しに来ます。なぜなら、観想するためには、自由と心の開放が必要だからです。自分の小ささを認識し、出会いを願うこと以外に何も必要ありません。もし私たちの心が他のもので満たされているなら、私たちが待ち望む方は現れません。彼と共にいること以上に大きな渇望があってはなりません。
[1] カトリック教会のカテキズム、2709番。
[2] 聖ホセマリア『神の朋友』310番。
[3] 同、296番。
[4] フランシスコ、一般謁見演説、2020年6月10日。