念禱「あなたが私を祝福するまで、私はあなたを離しません」(II)

念禱において、神が私たちに出会いに来てくれます。神は私たちがご自身を渇望することに渇いています。その神のイニシアチブに応え、私たちは念禱において「恋い慕う人」(雅歌1・7)を探し求め、キリストと二人きりになり、その愛にとどまるのです。

シリーズ: 戦い、親しさ、使命 (5)

念禱「あなたが私を祝福するまで、私はあなたを離しません」(II)

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キリストと二人きりになる

ヤコブと格闘した神秘的な人物は、呼ばれたわけではありませんでした。彼は自らのイニシアチブで現れたのです。そして今も同じです。神が私たちに出会いに来てくれるのです。なぜなら、「神は私たちがご自身を渇望することに渇いておられる」[1]からです。驚くべきことですが、その渇きは「神の心の奥底から出てき」[2]ます。それは、神が私たち一人ひとりを創造された愛と同じように、あまりにも大きく神秘的なものです。

私たちはといえば、ただ単純に神の前に立てばよいのです。その出会いの場は、感情や想像、理性だけではなく、心、つまり「わたしたちの心理的傾向よりももっと深いところ」[3]にあります。そこにいること、神の御前にとどまること、その愛にとどまることが大切なのです(ヨハネ15・9参照)。私たちは単なる心理的な操作や、無の境地に至るための努力に取り組んでいるのではありません。私たちの観想はキリスト教信仰の構造を持っています。それは「人間と神との間の親密かつ深い個人的対話」[4]です。

ですから私たちは、まさにその瞬間にやってくる不都合な〈訪問客〉と戦おうとはしません。追い払おうとするよりも、最良の方法はそれらを単に無視することです。キリストと二人きりになり、主が完全に私に向かっておられることを自覚し、そして私もまた主に完全に心を開くように招かれていることを意識します。〈格闘の相手〉は時間的な隙を与えてくれません。彼は一瞬たりとも私たちから目を離しません。しかし、私たちは脇にそれて、背を向け、彼を放置してしまう可能性があります。しかしそうすれば、彼の祝福を失ってしまいます。

ヤコブは格闘する相手から目を離しません。注意を怠らず、視線を逸らさず、心の方向を見失わないようにしなければなりません。スマートフォンを見る?いいえ、そのようなことはしません。それでは神との内的な接触が断たれてしまいます。仕事の計画を立てることや周囲の出来事への好奇心などによって気を散らすことはどうでしょうか?いいえ、そのような思いは脇に置いておきます。また、例えば期待に応えるとか自分にふさわしい仕事をするといったような、気が付かないうちに心が自分にばかり向くような思いにも気をとらわれません。私たちの全人生はある人、つまり「私たちが知り、付き合い、愛したいと望んでいる御方、イエス・キリスト」に集中しています。そして「イエスを私たちの人生の中心に置くことは、観想の祈りにさらに深く入ることを意味します」[5]。その呼びかけは人間の根本に関わるもので、日増しに人生に包括的な影響を与えていきます。神は観想の賜物を求めて戦う者を祝福します。それは永遠の命の賜物の先取りであり、私たちはすでにそれを味わい始めています。「無邪気な子供の心で始めたこの祈りの道は、今や広くて静かな道、確実な道に発展しました。『わたしは道である』と仰せになった御方との友情の歩みに従っているからです」[6]

観想は「『恋い慕う人』(雅歌1・7)を探し求めます。その方とはイエス」[7]のことです。イエスは私と同じ人であり、私のことを友と呼んでくれました(ヨハネ15・15参照)。ですからイエスと真の友情を持つことができます。観想の祈りは「あなたと私」という個人的な関係の上に成り立ちます。「神に近づくには正しい道を通らなければなりません。その正しい道とは、キリストの至聖なる人性です」[8]。イエスは人間的なものを通して、私たちを神へと導く橋です。その〈戦い〉は、視線、微笑み、顔、そして何よりも心の出会いを意味します。それはイエスの心情を自分のものとし、「『キリストの内的知識』を培い、よりいっそうキリストを愛し、キリストに従う」[9]ことです。今日、主は私と一緒にいてどのように感じているでしょうか?主との共感・調和はあるでしょうか?私は主の喜びや悲しみを感じ取り、それを自分のものとしているでしょうか?


[1] カトリック教会のカテキズム、2560番。

[2] 同。

[3] 同、2563番。

[4] 教理省、「Orationis formas」キリスト教的黙想のいくつかの側面についての手紙、1989年10月15日、3番。

[5] フェルナンド・オカリス、司牧的書簡、2017年2月14日、8番。

[6] 聖ホセマリア『神の朋友』306番。

[7] カトリック教会のカテキズム、2709番。

[8] 聖ホセマリア『神の朋友』299番。

[9] カトリック教会のカテキズム、2715番。

Ricard Sada