​38.サンヘドリンは何ですか?

サンへドリンはユダヤ法の最高法院で、口頭と書面の両面でのトーラーを解釈し適用して正義を確保することを使命としていました。同時に、それはローマ帝国権力に対するユダヤ人民の代表という性質を誇示しました。

昔からの伝統に従い71人のメンバーがいて、想像するとこでは、モーゼ自身に加えモーゼを支える70人の長老が正義を確保する上で行った役目を引き継ぎました。それは聖職者の貴族や名門の家族などの代表者を含めて発展しましたが、その時期は多分紀元前5-6世紀のペルシャの時代です。それについて初めて言及されたのはシリアの王、Antioco3世(紀元前223-187年)の時でGerousia(長老委員会)という名前です。Hiracano2世(紀元前63-40年)の時からSynedrion という名前になったことが確認されています。当時それを主宰していたのは君主のアスモネオで、彼もまた大祭司でした。

ヘロデ大王はその支配の最初にメンバーの多くを処刑するよう命じました、その数はフラウィウス・ヨセフスによると45人でした(ユダヤ古代誌15,6)。なぜならば長老委員会は敢えてヘロデ大王の権限が及ぶ範囲を明確にしようとしたからです。その委員たちは大王に従順な人に変えられました。ヘロデ大王そしてその後のアルケラオの時代にはサンヘドリンはほとんど重要性を持たなくなっていました。
ローマ帝国の行政官による支配の時代、そしてポンテイオ・ピラトの時、サンヘドリンは再びユダヤの領土内に於いて民事及び刑事での司法の機能を果たしていました。その時代のローマ帝国の行政官との関係は流動的で、委ねられた自治の相対的な範囲は、支配地に対するローマ帝国の政策と調和させられました。それにもかかわらず、その当時gladiiと呼ばれていた死刑を宣告する権限は、皇帝から広範な法的な権限が与えられていたローマ帝国の総督(praefectus)に留保されており、たぶんそれはその権限の一つであったでしょう。従って、サンヘドリンは自分たちに権利があると考えても、誰に対してもも死刑を宣告することはできませんでした。
イエスを尋問するために夜中に開かれたサンヘドリンのメンバーによる会合は、死罪に値する告発状を推敲するための調査に外ならず、翌朝ローマ帝国の総督に対してイエスを告発するために提出するものでした。