記事数: 12
「イエスは大声を出して息を引き取られた」
9月10日のイエスの過越についての連続講話において、レオ十四世は十字架において息を引き取られた際のキリストの叫びについて考察し、神がわたしたちと人間の苦しみの深淵を共にすることを望まれたことについて思いを巡らせます。
年間第22主日(A年)福音書の黙想
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16・24ー25)。
年間第14主日(A年)福音書の黙想
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・28ー30)。
年間第13主日(A年)福音書の黙想
年間第13主日(A年)の福音朗読ではマタイによる福音書8章5ー17節が読まれます。マタイ8・38ー39についての聖ホセマリアの言葉を紹介します(説教より抜粋)。
新たなる〈地中海〉:(I-II)「十字架を担うということは、キリストとひとつになること」
神との親子関係の自覚は、私たちの人生のある局面に特別な仕方で結びついています。その局面とは、悩み苦しむとき、つまりわたしたちがイエスの十字架に与るときです。









