「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10・38)
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10・39)
「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10・38)
熱い礼拝の心、静かな落ち着きと苦痛を伴った償いの心、このような心をもった人は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」[1]というイエスの言葉の真意をよく理解し、その忠告に文字通り従うことでしょう。主の要求は次第に厳しくなり、「神に対して生きるために(…)キリストと共に十字架につけられています」[2]と、燃えるように熱望するほどの償いを求めてこられます。しかし、私たちは<この宝>を、脆く壊れやすい「土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになる」[3]ためです。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」[4]。
主が私たちに耳を傾けてくださらないとか、自分は欺かれているとか、さらには、聞こえるのは自分の声だけだとか想像してしまう。地上には支えがなく、天からも見放されたかのように感じる。しかし、たとえ小罪であっても罪は犯したくないと思う心は誠実で、罪を避ける努力もしている。私たちもカナンの女のように平伏して主を拝み、粘り強く主にお願いしてください。「主よ、どうかお助けください」[5]。すると、暗闇は愛の光に打ち負かされ、消え去ってしまうことでしょう。
今こそ叫ぶ時です。私を希望で満たすためにあなたの約束を思い出してください。すると、惨めな状態にいても私は慰められ、生命は力を漲らせる[6]。何事においてもすがるよう主はお望みです。主に頼らなければ、何事もなし得ない[7]ことは火を見るよりも明らか、また、主に頼るならば万事が可能になる[8]ことも。そこで、常に神のみ前を歩もうという決意[9]が強められるのです。
活動していないかのような知性も、神の光に照らされると、敵をも含めてすべての人々のためにすべてを配慮なさる主が、その友である私たちにどれほどの心遣いを示してくださるかを、はっきりと理解するようになる。いかなる悪や困難といえども、何らかの方法で善のために役に立つと確信するのです。すると、人間的な理由によっては根こそぎにすることのできないほど深い喜びと平安が、心にしっかりと根をおろす。悪や困難の<訪れ>は、必ず神的な何かを残してくれるからです。そして私たちは、感嘆すべきわざを行われた[10]主なる神を賛美し、また無限の宝を所有する能力[11]を備えてくださったことを悟るのです。
(ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』304−305)
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10・39)
私たちの信仰は重荷でも制限でもありません。そう考えるようなら、キリスト教の真理について実に貧しい考えしかもっていない証拠です。神を選ぶ決心をすると、何一つ失うことなく、すべてを得ることができます。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」[12]。
私たちは一等賞・切り札を引き当てたのです。このことがはっきりと分からないときには、何かが邪魔をしているわけですから、心の内を糾明してみましょう。おそらく、信仰が薄く、神との個人的な付き合いや祈りが足りない毎日を送っているからでしょう。主の御母であり私たちの母である聖母の執り成しを通して、私たちの愛を増してくださるよう、また、主の現存がもたらす甘美さを味わうことのできるよう、主にお願いしましょう。愛するときのみ、最も完璧な自由を享受することができます。私たちの愛の対象を、永遠に見失わず、決して捨てないための自由を得ることができるのです。
(ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』38)
私たちの信仰は、地上のすべての美・寛大さ・真の人間性を無視しないことがわかります。生活の目的は、ただ単に自己の利益や喜びだけを求めることではなく、犠牲と自己放棄による真の愛を求めることにあります。私があなたたちを愛するのと同じように、あなたたちも真実と行いをもって神と人々を愛しなさい、と主は招いておられるのです。マタイはこの招きを、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」[13]と、逆説的な言葉で伝えています。
ただ自己のことのみ考え、すべてをさしおいて自己満足のためにのみ行動する人々は、自己の永遠の生命を危険にさらしているだけでなく、この世においても不幸で気の毒な人々です。既婚者の場合も、自己を忘れ、神と隣人に仕える人のみがこの世で幸福を見出し、天国の前ぶれのような喜びをも味わうことができるのです。
地上の道を歩いている間の苦しみは愛の試金石です。結婚生活には二つの面があると言えます。一方は、お互いに愛し合うことを知る喜び、家庭を築き成長させていく夢、夫婦愛、子どもの成長をみる喜び。他方、悲しみと困難、時間が経つにつれて現れる体力の衰えや欠点、単調で変化のない生活などです。
このような困難に出合ったとき、愛と喜びが終わると考えるのは、結婚や人間の愛について軽薄で貧弱な考えしか持っていない証拠です。お互いの人間性がその自然性を表しぶつかり合う時こそ、自己放棄と優しさを示し、死よりも強い[14]真の愛情を表すべき時だからです。
(ホセマリア・エスクリバー『知識の香』24)
[1] マタイ10・38
[2] ガラテヤ2・19
[3] 二コリント4・7
[4] 二コリント4・8ー10
[5] マタイ15・25
[6] 詩編118・49ー50参照
[7] ヨハネ15・5参照
[8] フィリピ4・13参照
[9] 詩編118・168参照
[10] ヨブ5・9参照
[11] 知恵7・14参照
[12] マタイ10・39
[13] マタイ10・39
[14] 雅歌8・6参照