私は自分の祈りを声に出しています。皆さん方も一人ひとり、心の中で、主に告白しているのです。主よ、私はなんという厄介者でしょう。なんと弱虫だったことでしょう。あちこちで、あれやこれやの機会になんと多くの過ちを犯したことでしょう。さらに続けて申し上げましょう。主よ、御手で支えてくださったので助かりました。私はどんな罪深いことをやってのけるかわからないのです。私を放さないでください。小さな子どものように扱ってください。私が強く、大胆で、志操堅固であるように助けてください。未熟な子どもに対するように、年をとっても私をお導きください。御母がいつも傍にいて守ってくださいますように。このような助けがあれば、私たちでも、御身を模範として仰ぐことができます。
「できます」の叫びは虚勢ではありません。イエス・キリストはこの神的な道を教えるだけでなく、弱い私たちの手に届くものとし、私たちがその道を歩むように望んでおられます。そのために主は、あれほど遜られたのです。「神としては御父と同格である主が、奴隷の姿をとるまで自分を低めてくださった動機は、これであった。しかし、威厳や権能において遜られたのであって、善性や慈悲においてではなかった」(聖ベルナルド)。
神は善い御方ですから、私たちの道を容易にしてやりたいとお望みになりました。イエスの招きを退けたり、拒んだり、呼びかけに聞こえないふりをしたりするのはよしましょう。逃げ口上は許されません。できないなどと考え続ける理由もありません。主は模範をもって教えてくださいました。「それゆえ兄弟たちよ、私は切に願う、主の示してくださった素晴らしい模範が無駄にならぬよう主に一致し、己が精神を新たにせんことを」(聖ベルナルド)。(知識の香15)