主は、人間の限界・利己主義・野心をすべてご存じです。つまり、自己を忘れ、隣人のために自分を捧げることが人間にとっていかに難しいかをご存じです。愛を求めても見つからないときの悲しみも、付き従うと言いつつ中途半端な従い方しかしない人々に出会った経験もお持ちなのです。福音史家の描く悲しい場面を思い出してみましょう。使徒たちは現世的な野望や全く人間的な考え方しか持っていなかったのです。しかしイエスは彼らを選び、傍におき、御父から受けた使命を彼らにお任せになります。
私たちにも呼びかけておられます。ヤコブやヨハネにお尋ねになったように、私たちにも問いかけておられるのです。「あなたがたは、(…)このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(マタイ20・22)と。「できます」、はい、その覚悟です。これが、ヨハネとヤコブの答えでした。私たちもすべてにおいて、父である神のみ旨を果たそうと真剣に考えているでしょうか。自分の心をすべて主にお捧げしたでしょうか。それとも、自分自身、自己の利益、安楽、自愛心に執着し続けているのではないでしょうか。信者としての自分に相応しくないこと、浄めなければならないことが残っているのではないでしょうか。今日こそ、それらを捨てる機会なのです。(知識の香、15)