秘跡を通して回心の道を歩む
罪との日々の戦いにおいて、ゆるしの秘跡と聖体祭儀は、特別な恵みのときです。私たちの内的償いは、告解によってより完成されたものになります。償いにおいて、私たちの心構えはとても大切ですが、主導権を握るのは神であり、神が私たちを回心へと導くのです。「神の傑作」[1]であるこの秘跡を通して、神が私たちの堕落した自由をどのように治療してくれるかを感じとることができます。私たちができることについて、聖ホセマリアは具体的なアドバイスをくれます。「私は皆に、痛悔の祈りをたくさん唱えるという信心をもつことを勧めます。そして、ゆるしの秘跡に対する特別な愛を持つことは、その信心の実践的かつ外的な表われです」[2]。「ゆるしの秘跡においてこそ、あなたと私はイエス・キリストご自身を着、その功徳を身にまとうのである」[3]。
四旬節は、この「ゆるしの秘跡に対する特別な愛」を育む絶好の機会です。この秘跡を大切にすること、その素晴らしさを多くの人に伝えることは、その愛の表われです。
司祭は、神の名によってゆるしを与えた後、秘跡の終わりに次のような美しい祈りを唱えることができます。「私たちの主イエス・キリストの受難、幸いなおとめマリアとすべての聖人の執り成しによって、あなたの行うあらゆる善と耐える悪が、あなたの罪の償い、さらなる恵み、永遠の命という報いになりますように。平和のうちに行きなさい」[4]。この古から伝わる祈りによって、司祭は秘跡の実りが信者の生涯全体に及ぶように神に願います。この祈りが示すようにその効果は、キリストのご受難とご復活から来るものです。
放蕩息子のたとえ話のように、父なる神の抱擁を受けた後、私たちは宴に招かれます[5]。清い心と体で聖体祭儀にあずかれることは、なんという喜びでしょう。「懸命になって主を愛しなさい。心の中で、主を愛すべきだという緊急感を保ち、それを助長しなさい。主を手にする大勢の人々が、主を愛さず、悪しく扱い、疎かにしている今、特に主を愛しなさい」[6]。
典礼を通して、教会は私たちが四旬節の道を〈優雅に〉歩むよう招いています。秘跡を頻繁に受け、神の言葉を熱心に黙想し、償いに努めると同時に、喜びを生きます。四旬節第四主日はこのことを特に強調し、「神の民よ、喜べ」[7]と呼びかけます。これらの業の実践は私たちの魂の感度を高め、聖週間に向けて心を整えてくれます。そして聖週間において私たちは、地上におけるイエスの生涯の頂点であるご受難とご復活を新たに体験するのです。「キリストの生涯と死去はわたしたちの営む生活そのものになるべきである。キリストが神の愛ゆえにわたしたちのなかで生きてくださるように、犠牲と償いのうちに死ななければならない。そこで、主に協カして全人類を贖いたいとの強い望みをもち、キリストの御跡に従うのである」[8]。私たちのために命を捧げる主を仰ぎ見ながら、罪からの清めを味わい、神がもたらしてくれる救いの喜びを再発見することができるでしょう。神よ、「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ」[9]てください。
[1] カトリック教会のカテキズム、1116番。
[2] 聖ホセマリア、説教メモ、1970年4月26日(J. López y E. Burkhart, Vida cotidiana y santidad en la enseñanza de San Josemaría, Rialp, Madrid 2013, vol. III, p. 377)。
[3] 聖ホセマリア『道』310番。
[4] 「Passio Domini nostri Iesu Christi, intercessio beatae Mariae Virginis et omnium Sanctorum, quidquid boni feceris et mali sustinueris, sint tibi in remedium peccatorum, augmentum gratiae et praemium vitae aeternae. Vade in pace」(Ordo Paenitentiae [1974]、93番)。
[5] ルカ15・22-44参照。
[6] 聖ホセマリア『鍛』438番。
[7] 四旬節第四主日、入祭唱(イザヤ66・10参照)。
[8] 聖ホセマリア『十字架の道行』第十四留。
[9] 詩編50(51)・14。