子としての回心の道
四旬節第三主日の集会祈願は、この40日間における償いの意味を示します。「すべてのあわれみと善の源である神よ、あなたは、私たちの罪の償いとして、断食・祈り・施しを受け入れてくれます。自らの卑小さを認識する私たちを愛をもってながめ、あわれみによって良心の呵責に苦しむ私たちを助け起こしてください」[1]。自らを罪人と認める謙遜な心をもって、私たちは教会全体とともに、御父のあわれみによる救いを願います。神が、私たちの人生に愛のまなざしを注ぎ、罪を贖うゆるしを与えてくれるよう祈ります。
典礼は、伝統的な償いの業を実践するよう私たちを招くことによって、回心が「私たちの回心」になるよう助けます。これらの業を通して、私たちは、神との関係(祈り)・隣人との関係(施し)・自分自身との関係(断食)を正します[2]。これが聖ホセマリアの言う「償いの精神」です。実生活においてこの精神を生きる機会はたくさんあります:「償いとは、たとえ、体が抵抗し、心が妄想のなかに逃げこもうとしても、決めた時間割を正確に守ること、決まった時刻に起き上がること、骨の折れる難しい仕事であっても理由なく遅らせずに果たすことです。神と隣人と自分に対する義務を果たすために、必要な時間を見つける努力、これも償いです。疲れや嫌気や冷淡な心であるにもかかわらず、祈りの時間になれば祈りをする。そうすれば、あなたは償いの人なのです。償いとは、自分の家族をはじめ、隣人と常に最高の愛徳をもって接すること、つまり、病人や悲嘆に打ちひしがれている人々を細やかな心でお世話し、都合の悪い時に訪れるうるさい人々を我慢して迎えることです。さらに人々の正当な必要を満たすため、快く計画を変更し、あるいは中止することも。日々出くわす幾多の小さな困難を快活に耐える、始めたときの熱意が薄れても任務を中途で放棄しない、出されたものをわがままに負けないで感謝の心でいただく、いずれも償いのわざです。両親や、一般に指導・教育の任に携わる人々の場合なら、必要な時に、主観や感傷をまじえずに、過ちの本質や当事者の状態を勘案しながら、過ちに陥った者を正すことが償いになります」[3]。
同時に、神の恵みがなければ、外面的な行いは実りがありません。主の助けがなければ、キリストに一致することはできないからです。「あなたなしには、あなたを喜ばせることはできません」[4]主に頼りながら、私たちはこれらの業を、天の御父だけに見える「隠れたところ」で行います[5]。頻繁に意向を正し、神の栄光のみを求め、すべての人の救いを願いながら、実践します。
使徒ヨハネは言います:「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」[6]。この言葉は、私たちを深い内省へと導きます。愛の二つの側面を分けることはできません。神のまなざしのもとに生きていることを感じるならば、神の子であるという自覚が、私たちの内的生活と使徒職に浸透していきます。それは、子としての信頼をもった悔い改めを生み、家族・仕事仲間・友人などの身近な人々に対する誠実な献身として表れます。
[1] 「Deus, omnium misericordiarum et totius bonitatis auctor, qui peccatorum remedia in ieiuniis, orationibus et eleemosynis demonstrasti, hanc humilitatis nostrae confessionem propitius intuere, ut, qui inclinamur conscientia nostra, tua semper misericordia sublevemur」(ローマミサ典書、四旬節第三主日、集会祈願)。
[2] カトリック教会のカテキズム1434番参照。
[3] 聖ホセマリア『神の朋友』138番。
[4] 「tibi sine te placere non possumus」(ローマミサ典書、四旬節第四土曜日、集会祈願)。
[5] マタイ6・6参照。
[6] 一ヨハネ4・20。