四旬節、復活祭への道(4)

伝統的な償いの業を通して、私たちは、神との関係(祈り)・隣人との関係(施し)・自分自身との関係(断食)を正します。

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子としての回心の道

四旬節第三主日の集会祈願は、この40日間における償いの意味を示します。「すべてのあわれみと善の源である神よ、あなたは、私たちの罪の償いとして、断食・祈り・施しを受け入れてくれます。自らの卑小さを認識する私たちを愛をもってながめ、あわれみによって良心の呵責に苦しむ私たちを助け起こしてください」[1]。自らを罪人と認める謙遜な心をもって、私たちは教会全体とともに、御父のあわれみによる救いを願います。神が、私たちの人生に愛のまなざしを注ぎ、罪を贖うゆるしを与えてくれるよう祈ります。

典礼は、伝統的な償いの業を実践するよう私たちを招くことによって、回心が「私たちの回心」になるよう助けます。これらの業を通して、私たちは、神との関係(祈り)・隣人との関係(施し)・自分自身との関係(断食)を正します[2]。これが聖ホセマリアの言う「償いの精神」です。実生活においてこの精神を生きる機会はたくさんあります:「償いとは、​たとえ、​体が​抵抗し、​心が​妄想の​なかに​逃げこもうと​しても、​決めた​時間割を​正確に​守る​こと、​決まった​時刻に​起き​上がる​こと、​骨の​折れる​難しい​仕事であっても​理由なく​遅らせずに​果たす​ことです。神と​隣人と​自分に​対する​義務を​果た​すために、​必要な​時間を​見つける​努力、​これも​償いです。​疲れや​嫌気や​冷淡な心であるにも​かかわらず、​祈りの​時間に​なれば​祈りを​する。​そう​すれば、​あなたは​償いの​人なのです。​償いとは、​自分の​家族を​はじめ、​隣人と​常に​最高の​愛徳を​もって​接する​こと、​つまり、​病人や​悲嘆に​打ち​ひしがれている​人々を​細やかな心で​お世話し、​都合の​悪い​時に​訪れる​うるさい​人々を​我慢して​迎える​ことです。​さらに​人々の​正当な​必要を​満た​すため、​快く​計画を​変更し、​あるいは​中止する​ことも。日々​出くわす幾多の​小さな​困難を​快活に​耐える、​始めた​ときの​熱意が​薄れても​任務を​中途で​放棄しない、​出された​ものを​わが​ままに​負けないで​感謝の​心で​いただく、​いずれも​償いの​わざです。​両親や、​一般に​指導・教育の​任に​携わる​人々の​場合なら、​必要な​時に、​主観や​感傷を​まじえずに、​過ちの​本質や​当事者の​状態を​勘案しながら、​過ちに​陥った​者を​正すことが​償いに​なります」[3]

同時に、神の恵みがなければ、外面的な行いは実りがありません。主の助けがなければ、キリストに一致することはできないからです。「あなたなしには、あなたを喜ばせることはできません」[4]主に頼りながら、私たちはこれらの業を、天の御父だけに見える「隠れたところ」で行います[5]。頻繁に意向を正し、神の栄光のみを求め、すべての人の救いを願いながら、実践します。

使徒ヨハネは言います:「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」[6]。この言葉は、私たちを深い内省へと導きます。愛の二つの側面を分けることはできません。神のまなざしのもとに生きていることを感じるならば、神の子であるという自覚が、私たちの内的生活と使徒職に浸透していきます。それは、子としての信頼をもった悔い改めを生み、家族・仕事仲間・友人などの身近な人々に対する誠実な献身として表れます。


[1] 「Deus, omnium misericordiarum et totius bonitatis auctor, qui peccatorum remedia in ieiuniis, orationibus et eleemosynis demonstrasti, hanc humilitatis nostrae confessionem propitius intuere, ut, qui inclinamur conscientia nostra, tua semper misericordia sublevemur」(ローマミサ典書、四旬節第三主日、集会祈願)。

[2] カトリック教会のカテキズム1434番参照。

[3] 聖ホセマリア『神の朋友』138番。

[4] 「tibi sine te placere non possumus」(ローマミサ典書、四旬節第四土曜日、集会祈願)。

[5] マタイ6・6参照。

[6] 一ヨハネ4・20。

Alfonso Berlanga