キリストの荒れ野での歩み
四旬節第一主日の福音では、イエスが、私たちと連帯して、四十日間荒れ野で過ごした後、誘惑を受けることを望んだことが語られます。イエスのサタンに対する勝利は、私たちを希望で満たします。イエスとともにいれば、私たちも内的な戦いにおいて勝利できることがわかるからです。ですから、私たちはもはや誘惑に心をかき乱されません。誘惑は、自分自身をもっと知り、神をさらに信頼する機会となります。快適な生活を追い求めることは、幸福の幻影にすぎないことを悟り、聖ホセマリアとともに、「まだ取り組むべきことがたくさん残っている」「特に、高慢な心が幅を利かせている」「利己主義が影をひそめ、私たちの内にキリストが成長できるためには、再び生活を一新し、より完全・忠実に、また、より深い謙遜を身につける決意が何にもまして必要だ」「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」[1]ことに気がつきます。
自らの弱さを知ることは、私たちを謙遜な祈りへと導き、信仰・希望・愛を生き生きとさせます。聖ホセマリアは頻繁に「主よ、私をあなたから遠ざけるものを、私から遠ざけてください」[2]と祈りました。イエスとともにいることで、私たちは誘惑を断固として退ける力を得ます。そして誘惑とは決して対話しません。「イエスのこたえ方によく注意してください。イエスは、地上の楽園でエバがしたように、サタンと対話することはしません。(…)イエスは、(…)神のことばのうちに逃れることを選び、神のことばの力をもってこたえます。このことを心に留めてください。誘惑のとき、すなわち、わたしたちがさまざまな誘惑を受けるとき、サタンと議論してはなりません。むしろ、つねに神のことばによって身を守ってください。そうすればわたしたちは救われます」[3]。
四旬節第二主日に読まれる主の変容の話は、私たちが限界を持つ者であっても、勝利は確実であるという確信を新たにしてくれます。日々の生活の中で主の十字架と一致するなら、主の栄光にもあずかります。そのためには、信仰を養うことが必要です。A年の四旬節第三~五主日で読まれる福音は、信仰を深める道を教えてくれます。
- サマリアの女性は、罪を乗り越えてイエスをメシアとして認め、聖霊の「生ける水」によって愛の渇きを癒しました[4]。
- 生まれつきの盲人は、無知を乗り越えてキリストを「世の光」として受け入れました。一方で、〈世の知者〉たちは盲目の状態にとどまりました[5]。
- ラザロの復活は、キリストが私たちに新しい命をもたらすために来られたことを思い起こさせます[6]。
これらの場面の登場人物になったつもりで、福音書を黙想することは、個人的な祈りの助けとなり、四旬節の間、より強く神の現存を保つ役に立つことでしょう。
[1] 『知識の香』58番。
[2] 家族の集いでのメモ、1972年10月18日(A. Sastre, Tiempo de Caminar, Rialp, Madrid, 1989, p.353)。
[3] フランシスコ、「お告げの祈り」でのことば、2014年3月9日。
[4] ヨハネ4・5-52(四旬節第三主日A年福音朗読)。
[5] ヨハネ9・1-41(四旬節第四主日A年福音朗読)。
[6] ヨハネ11・1-45(四旬節第五主日A年福音朗読)。