四旬節、復活祭への道(2)

キリストの受肉、生涯、そして栄光により、主は私たちを最終的な出エジプトへと導いてくださいます。その旅において、神の約束は完全に成就されます。

前回の記事を読む

イスラエルの荒れ野での旅路

四旬節は、救いの歴史のいくつかの重要な出来事に深く根ざしています。その一つが、神に選ばれた民の荒れ野での旅です。イスラエルの民にとって、この四十年間は試練と誘惑の時でした。主は絶えず彼らと共に歩み、ただ神のみに頼るべきことを教え、石のように固い民の心を和らげていきました[1]。それはまた、絶え間ない恵みの時でした。民は苦しみましたが、神は彼らを慰め、モーセの言葉を通して導き、マナとうずらで養い、メリバの岩から水を与えました[2]

神がイスラエルの民に向けて語った、愛に満ちた言葉は、私たちにもとても身近に感じられます:「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」[3]。この言葉は、今日の私たちにも向けられています。私たちも人生の荒れ野を歩みながら、日々の苦労や困難に直面します。しかし、同時に神の父としての心遣いに支えられています。それは、家族や友人、あるいは名前も知らぬ善意の人々を通して表されることもあります。主の計り知れない導きのうちに、私たちは少しずつ神の心のうちに引き寄せられていきます。そしてこの神の心こそ、真の約束の地なのです。「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。 喜んでわたしの道に目を向けよ」[4]

出エジプトの多くの出来事は、将来起きることを前もって表すものでした。実に、最初の旅に加わった人すべてが約束の地に入れたわけではありませんでした[5]。そのため、ヘブライ人への手紙は詩編94(95)を引用し、神の民の反抗を嘆くと同時に、新たな出エジプトが始まったことを明らかにします:「先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、 再び、神はある日を『今日』と決めて、かなりの時がたった後(…)、『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない』とダビデを通して語られたのです」。この「今日」とは、キリストによって開かれた時代のことです。キリストの受肉、生涯、そして栄光により、主は私たちを最終的な出エジプトへと導いてくれます。その旅において、神の約束は完全に成就されます。キリストは私たちのために天に場所を備え、神の民のための安息を獲得します。「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです」[6]


[1] 申命記8・2-5参照。

[2] 出エジプト15・22~17・7参照。

[3] 申命記8・2-3。

[4] 箴言23・26。

[5] 民数記14・20~参照。

[6] ヘブライ4・9-10。

Alfonso Berlanga