目次
教理的形成 教会の教理における形成 信仰の教理を深める 祈りと犠牲によるキリストとの一致 十字架におけるキリストとの一致 キリストの御傷に入り込む 聖霊に頼ること 祈りという武器 犠牲という塩 使徒職の務め 一人ひとり、自分の立場で パン種のように 沖へ! あらゆる手段を講じる 結び 聖体信心 聖霊、来てください! 聖母信心 教理的形成
33. 創立者は形成の基本的な側面を五つ挙げておられます。すなわち、人間的な側面、教理宗教面、霊的面、使徒職面、そして専門職面です。<信仰年>は、特に教理面の形成に改めて熱心に取り組むよう促します。様々な観点から向けられる形成の理由は非常に単純です。信仰の<内容>と信仰自体の<意味>を個人的に掘り下げるようにすること。こうして、〈intelléctus fidei〉信仰の知性を新たにし、同僚や友人に、イエス・キリストにおける神の愛の神秘を、ふさわしいやり方で告げ知らせ、主に従うよう提案することができるのです。
34. それゆえ、創立者はオプス・デイの基本的な活動を明快に「教理を伝えること」と要約しました。そして、属人区の信者が、特に教理宗教面で、確実な形成を受けることができるように、絶えず気遣っていました。各地域の必要性に適った計画を組織し、クラスが途切れることなく継続されているのを創立者は天国で観て喜んでいると思います。私たちの心に刻み込もうとしつこいほど次のように繰り返しておられたことを、皆、忘れないことです。「あなた方に与えられる教えを自分のものにするよう熱心に励み、それを自分だけに留めないようにしなさい。あなた方が受けている形成を人々に伝える必要のあることを思い、喜んでその義務を果たしなさい。それは、他の人々も正しい意向で働き、実りをもたらすことができるようにするためです。」[1]
聖ホセマリアはいつも<仕えるため、仕えること>と言っていました。そして、この<仕える>という動詞を、人々の役に立つこと、また、様々な状況に実際に対処できることなど、様々な意味に使っていました。あらゆる分野で、神と教会が計画することに実りあるように協力することを望んで、しっかりとした準備をすることの重要性をこの短文にまとめていたのです。「人々に仕えるためには、まず自分が役に立たなければなりません。つまり自分自身を形成するということです。そうでなければ、よい道具にはなれませんし、仕えることもできません。」[2] 使徒職の目的に当てはめて考えると、活きいきとした信仰を持ち、信仰の知識を深めるように努める人だけが〈役に立ちます〉。そのような信仰からのみ、オプス・デイの使徒職と人々の教理的形成に<仕える>ことができるからです。
この必要性が消えることはないと深く確信していた聖ホセマリアが、オプス・デイの信者の教理宗教面の形成の基準を定め、少しずつ実行に移し、絶えず主との付き合い方を私たちに教えておられたことを振り返ってみましょう。「私たち全員に共通の目的は聖性と使徒職です。この目的を達成するためには、何よりも形成が必要です。聖性も、使徒職も、教理を必要とします。教理は、時間をかけて、ふさわしい場で、ふさわしい手段を使って学ばなければなりません。神からの特別な照らしを期待したりしてはなりません。神はそのようにはなさいません。私たちには具体的な手段が与えられているのですから。つまり、勉学と仕事です。形成を受け、勉強しなければなりません。」[3]
御父と御子と共に恩恵によって人々のうちにお住まいの慰め主は、確かに、その声に耳を傾け、その勧めに素直に従う人の、「頭と心にイエスの教えを染み込」[4] ませてくださいます。イエス・キリストご自身が慰め主を<真理の霊>と呼び、はっきりと仰せになっておられます。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いた事を語り(・・・)。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなた方に告げるからである」(ヨハネ16,13-14)。福者ヨハネ・パウロ二世はこの文章を解説し、教えられました。「イエスがご自身のことを『私は真理である』(ヨハネ14,6)と仰せになったのなら、聖霊が知らせ、広めるのはキリストについてのこの真理です。(・・・) この霊は霊魂の明かりです。聖霊降臨の続唱でお願いするように、Lumen córdium心の光、なのです。」[5]
すぐに古びてしまう世の流れに引きずられないなら、キリスト信者の私たちは誰よりも自由です。教会は、信者たちに「カトリック信者であることを自覚し、責任ある社会人として振る舞うように励ましています。私たち一人ひとりの知性と心が互いにかけ離れてしまうのではなく、二つを一致させぐらつかせずに行動するのです。それは、未熟さや良心への不忠誠によってつかの間の好みとか流行に引きずられることなく、いつもはっきりと理解したなすべきことをするためです。『こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりしないためです』(エフェソ,14)。」[6] 信仰の教理を深める
35. 神を知り、神を愛することを熱望し、人々が神を知り、神を愛するようにと望むなら、カトリックの教理によってますます私たちの理解力が形作られ、意志が動かされることがどうしても必要です。さらに、神から離れる傾向が主流な文化となっている現代においては、これは特に急がれる課題です。
そこで、継続した教理の勉強が非常に重要なものとなってきます。勉強を決してなおざりにしてはなりません。具体的には、一人ひとりの可能性に合わせて、前述したintelléctus fídei信仰の知性を得るため、神学の勉強をすることです。fides quærens intelléctum[7] 信仰に照らされた知性という、活きいきとした喜ばしい緊張感を心の奥底にを持つべきです。このような知性は、深く信じていることを更によく知ることに熱中します。神学の勉強は、惰性的になったり、単に覚えるだけになったりしてはなりません。そうではなく、生き方に密着したものであるべきです。それは、知性を全面的に信仰の真理に沿ったものにし、信仰のうちに信仰の視点から考えるように助けてくれます。ただこうしてのみ、職業上また社会生活全般で遭遇する数知れない複雑な問題に対処することができます。子どもたちよ、皆さんは自由な存在であり、一人ひとりが全く自主的に決意し行動するのですから、特に皆さんの知性と良心を正しく形成するよう細心の注意を払いなさい。それは、人間的な学問だけではなく、神学の知識を蓄えることで、皆さんがキリスト者にふさわしい考え方で正しく判断し行動するためです。
自分の専門職で、あるいは自国で直面している重要な課題に、カトリックの教えに基づいて対処できるように、きちんとした教理の知識を身につけなければなりません。課題は地域によって様々でしょうが、現代では、あらゆる地域に共通のものが少なくありません。例えば、結婚と家族に関すること、教育や生命倫理に関することなどです。
36. こういうことから、オプス・デイの中での様々な勉強における教授陣の改善と専門化を推し進めることを強調してきました。オプス・デイの霊的指導の下にある大学で、高いレベルの研究基準を促進すること、また、使徒職的な意味を持ってその仕事に専念する医学や生物学、法律や哲学、社会学などの各専門分野のグループを推し進めることを繰り返しお願いしてきました。
オプス・デイには、職場である公的あるいは民間の教育研究機関で他の人々と共にこのような仕事を実現できる人が少なからずいるはずです。しかも、このような特別な分野で実際に働いていなくても、社会的な報道機関を通して、自然法を尊重しキリストの教えを礎にした健全な世論を作り出していくことのできる人がたくさんいます。皆さんにお伝えしたことがありますが、新聞への単純な投書や〈eメール〉を通して、共感を得ながらしかしはっきりと、〈言葉の賜〉を使って、カトリックの教理を説明することは、分厚い専門的な論文よりも効果的なことがあるのです。ある国の世論が教会に対するゆがんだ見方を示し、その上、教会を傷つけるようなキャンペーンを繰り広げようとしているときには、カトリック信者として黙っていることはできません。神との正義、社会との正義のために、この理不尽な行為に反旗を翻すべきです。うまく隠れたように見える卑劣な攻撃を明るみに出し、信者の中に不信心な人がいるとしても怯むことなく、教会にふさわしい尊敬を示すよう求めることです。
繰り返しますが、そのためには絶えず神学の研鑽をつむことが不可欠であると納得し、一人ひとりの必要性や環境に応じて、世論に見られる神の啓示の基本的な面に関わる問題を、深めるようにしましょう。哲学や神学、教会法のクラスや講演をまじめに活用しましょう。このような形成の時間に、多くの実りを得るように望んで、きちんと参加しましょう。さらに、このような活動は、他の人たちにとって、彼らが望んでいる教理指導や霊的指導を受ける機会になります。
37. ベネディクト十六世は、聖なる教父たちの教えを分析し、現代特に重視されている点を取り上げておられます。古代の異教が、神の知恵によって人の心に刻まれた道に留まらなかった大きな間違いを指摘されます。「異教宗教の没落は不可避だったのです。それは宗教(すなわち、人間の手で儀礼と慣習としきたりにおとしめられた宗教)を存在の真理から切り離したことから来る当然の帰結でした。」[8] そして教皇様は、古代の教父やキリスト教作家が、逆に「<慣習>に基づく神話ではなく、存在の<真理>を選んだ」[9] と付け加えておられます。教皇様が述べておられるようにテルトゥリアヌスはこう書いています。「Dóminus noster Christus veritátem se, non consuetúdinem, cognominávit私たちの主キリストはご自分を慣習ではなく真理と呼ばれた」。[10] そしてペトロの後継者は次のように教えられます。「ここでテルトゥリアヌスが異教宗教を指すために用いた<consuetudo慣習>という言葉は、近代語で<文化的流行>、<時代の流行>といった言い方で訳せるものであることにご注意下さい。」[11]
ある地域で相対主義が勝利を収めているように見えても、このような考え方は多くの人を迷わせ、カードで築いたお城のように崩れ落ちることを疑ってはなりません。なぜなら創造主であり、歴史を導き、全てをつかさどる神の真理に基を置いていないからです。同時に、周囲の現実を目にすることで、私たちは失望するような状況や無意味な生活に引きずられないように、またそのような状況にいる人々を無視しないようにと、かき立てられなければならないでしょう。
38. 聖ホセマリアがアンティオキアの聖イグナチオの言葉をしばしば繰り返し黙想していたことをはっきり覚えています。彼は殉教した地ローマへの途上、自分は「神のための麦」だから「キリストのための清いパンになるため」[12]
猛獣に噛み砕かれなければならないと考えていたのです。キリスト者の私たちも又、〈神のための麦〉です。というのも、私たちには、いろいろな理由から私たちの傍らにいる人たちに、霊的な糧を与える義務があるからです。
神は、私たちが人々の飢えを満たすため〈キリストのためのパン〉になるようにとお望みです。このことを深く理解しましょう。キリストのパンになるには、麦粒のようにすりつぶされるに任せなければなりません。そして、自分を洗練し、性格が曲がっているところをまっすぐにするため、また、一人ひとりが一番高いところにしまいこんでいる〈自分〉を、振る舞いや内的態度から抜き取るために、主がお送りになる機会を、苦しくても愛のために活用する決意を固めることです。個人的に誰もが経験していることですが、この自己を清めることは、超自然の適切な実りを手にするために必要なことなのです。神なる師が非常に明確に説明しておられます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12,24)。
39. イエス・キリストは、「全ての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2,4)。私たちは、この聖なる野心をもって振る舞うべきです。様々な状況や瞬間における全ての行いを使徒職にする決意をしなければなりません。こうして、オプス・デイの信者一人ひとりが、病気だったり、新しい国で言葉が分からなかったり、いろいろな状況で、直接の使徒職ができなくても、本当に実り多い使徒職を繰り広げることになります。例外はありません。それには、信心の規定を通して細やかに神と交わることです。仕事を最後まできちんと果たすよう努め、毎日のミサ聖祭でそれを神にお捧げするのです。主が待っておられる捧げ物は、私たちが小さな犠牲や要求を心臓の鼓動のように絶えず活用し探し求めることです。[13]
この使徒職を実現するためには、十字架上のキリストと一致することが不可欠です。イエスに従うには、自己を否定し、犠牲の精神を培い、償いを実行することが必要です。教皇様が指摘しておられます。「全てのキリスト者は、十字架上のイエスの誉れを、自分の生活で証しするよう招かれています。神の御子ご自身が奉献される十字架は、結局、人間についての真理、神についての真理を理解するため私たちに与えられた、またとない「しるし」なのです。全ての人は神によって造られ、神が愛ゆえに御独り子をいけにえにすることで神に贖われました。それゆえ、回勅「神は愛」でこう述べたのです。『自らに逆らう神のわざは完全に実現します。こうして、イエスは、人間を高く上げて救うために、自分を捧げました。イエスは、もっとも徹底的な形で愛を示しました』(12番)。」[14]
40. 聖ホセマリアが度々たとえを使って話していたことを覚えています。「師」の傍ら近く歩むことを熱望する私たちキリスト者は、「キリストの傷ついた両手の中に、神なる種まき人が畝に投げ込む種」でなければならないと言っておられました。「種まき人が袋から完熟した種麦を取り出し、撒き散らすように、私たちは、地上で何事も期待せず、ありもしない悲しみを作り出すことなく、自分を与え尽くすべきです。しかし、福音書に強調されているように、一粒の麦が実りをもたらすには地に埋められ死ななければ(ヨハネ12,24参照)なりません。ただこうしてのみ私たちは良い種になり、主がこの世で神への道を拓くのにふさわしい種になるのです。」[15]
この考察に照らし合わせて、本当に自分は信心深く、償いをする人となるよう努め、「祈りがなければ活動に価値はなく、祈りの価値は犠牲によって高められる」[16] ことを納得しているかどうか糾明しましょう。日々、最高の奉献を渇望し、人々の善のため喜んで自分自身を効果的に使い果たす望みを持つことができるよう主にお願いしましょう。そうしてのみ、毎日のミサでキリストと一致して生きたホスティアになりたいという熱意を実現することができるのです。
私たちにはキリストと共にホスティアになることが望まれていますが、それがどれほど偉大で重要なことであるかを否定する人はいません。この聖なる熱望を主との個人的な付き合いのときに深めるようにしましょう。信仰の師、聖母を通して、日々、使徒職の熱意を新たにし、これらの決心を、霊的指導の勧めに基づいて、具体的な行動に移せる恩恵をお与えくださるよう、イエスにお願いしましょう。
そうすると、確かにイエス・キリストは傷ついた手に私たちを取り、聖ホセマリアが繰り返していたように、その清い御血に浸し、私たち一人ひとりは置かれた場所から引き離されることなく、遠く実に遠くまで飛ばされ、あらゆる場所で私たちの献身に実りがもたらされることでしょう。人々の心に神の種を投げ込むために、私たちの仕事と休息、私たちの喜びと悲しみ、私たちの言葉と沈黙が役に立つでしょう。本当に「祭壇上のパン、食卓のパン、つまり神と人間のパンに」[17]なるのです。するとイエスは、以前、群衆が「イエスから力が出て、全ての人の病気をいやしていたから」(ルカ6,19)主に近づこうとして、主を捜し求めていた人たちの霊魂と体にされたような、驚くべき新たな奇跡をなさるでしょう。
41. イエス・キリストが、聖霊の促しでよき知らせを述べ伝えられた(ルカ4,14参照)のと同じように、私たちキリスト者は慰め主を全面的に信頼して助けを願うべきです。福者ヨハネ・パウロ二世が2000年の大聖年が近づいたころ、こうコメントしておられます。「聖年の準備の主要な務めは、教会のうちにあって諸秘跡、とりわけ堅信を通して、また、様々なたまものや役割や役務を通して働き、教会のためになるよう導いている聖霊の現存と働きの刷新を含むことになります。」[18]
それゆえ、個人的な使徒職とあらゆる使徒職活動においては、何よりも聖霊が間断なく働いているという現実を確信しましょう。人々の聖化は、たとえ、沈黙のうちになされるとはいえ聖霊によって成就されるのです。聖霊は「私たちの時代においても、新たな福音宣教の中心的な主体者です。(・・・) 聖霊は、人々の心をかきたて、時の終わりにもたらされる完全な救いのこの世における芽生えを早めつつ、歴史の流れの中で神の国を建設し、イエス・キリストにおける神の国の完全な表われを準備するのです。」[19] 次のことを疑ってはなりません。私たちが信仰をもって慰め主に願うなら、聖霊が私たちに適切な言葉を語らせ、時宜を得た勧めをさせ、間違った行動を優しく謙遜に正させ、人々が反応するよう助けることになることを。
ですから、聖霊との交流を真剣に深めましょう。聖ホセマリアも、忠実な子どもたちにおいて働かれる主について話し、こう教えました。「神はお通りになるだけではなく、私たちのうちに留まられるのです。言うならば、私たちが罪によって主に対立したり、主を追い出したりしない限り、恩恵によって霊魂の中心に留まり、私たちの行動を超自然のものにしてくださいます。神は皆さんのうちに、そして私のうちに、一人ひとりのうちに、隠れておいでなのです。」[20]
42. 再度、オプス・デイ創立者の列聖式での福者ヨハネ・パウロ二世の言葉を読みましょう。「骨の折れる困難な使命を果たすために、祈りによって養われた内的生活が必要です。聖エスクリバーは、祈り方を教える偉大な師でした。社会を神の手に取り戻すため、祈りは非常に強力な『武器』であると考え、常に人々に『まず祈り、次に償い、第三、つまり最後に活動がくる』(『道』82番)と勧めました。それは逆説ではなく、いつも当てはまる真実です。使徒職の豊かな実りは、とりわけ祈りと深く絶え間ない秘跡の生活からもたらされます。これが聖性の秘密であり、聖人たちの成功の秘訣です。」[21]
この霊的態度は、聖なる司祭・創立者が、主の介入以来実行していたことです。それは、あらゆる事をしなければならなかったオプス・デイ草創期に、はっきりと映し出されています。オプス・デイが生まれたばかりの赤ん坊のような頃、1930年に、聖ホセマリアは、当時の唯一人のメンバーだったイシドロ・ソルサーノに書き送ったことは、いつの世にも通用します。「主が望まれ、私たちが望んでいることをすべきならば、何よりも、祈りと罪の贖い(犠牲)というしっかりとした土台に基づかなければなりません。祈ること。繰り返しますが、朝起きれば念祷を決して忘れないことです。そして毎日、遭遇する困難や犠牲を全て償いとして捧げることです。」[22]
これは、信仰生活を深め、主がキリスト者に委ねられた超自然的な使命を果たすために、不可欠な振舞い方です。この模範に倣いましょう。厳しい専門職においても、お聖堂や教会の静けさの中でも、通りの雑踏においても、気晴らしや休息のときにも、また、当然なことですが、家族の世話、病気や障害のあるときも、あらゆることを全て、神に話し、全身全霊を傾けて、神に喜んでもらえる祈りに変えるように努めなければなりません。多くの場合、言葉は不要です。しかし、繰り返しますが、祈りは信仰生活の実りです。本当に確信して願うためには、聖ホセマリアがしたような強い信仰が必要です。聖ホセマリアは「イエスよ、何か言ってください。何か言ってください、イエスよ」と頼んでいました。
真実に祈る人は、謙遜の徳に進歩することを忘れてはなりません。そして、祈る人は、神の子としての喜びに満ち、使徒職が日々の急務であることを感じ、いつも愛情深く、礼儀正しく振る舞い、仕えることを知り、姿を消すことに努め、霊的指導に素直であるのです。
43. 主との付き合いと切り離せないことは、感覚の祈りとして神に届く犠牲です。「贖罪」という言葉にびっくりする人がいます。耐えられないような刑罰を想像するのです。実際は全く逆です。通常、神が私たちにお求めになるのは悔い改める心です。それは、個々人の立場や環境に固有の義務を丁寧に果たすことに表れます。つまり、難しくても喜んで忍耐強く、来る日も来る日も、小さなことにも徹底して忠実を保ちつつ、義務を果たすことです。
聖ホセマリアは、主に頼まれた大きな償いを惜しみない心で実行しました。それは創立者としての使命の一部だったのです。また愛に満ちた小さな償いの行為も非常に大切にしました。1930年のメモに、良心の糾明のやり方について、次のような短文があります。「償い。今日、神から送られた障害をどのように受け止めたか。同僚たちの性格に由来することに対しては?
自分の惨めさから来たことに対しては? 度々主に背いたことの悲しみや痛みを償いとして主に捧げることができたか。諸徳に遅々として進歩していないと考え、内的に赤面し、恥ずかしく思ったことを主に捧げたか。」[23]
いつでもそうかもしれませんが、世界は今、神に対する愛のために進んで犠牲を引き受け、愛のうちに実行する人を特に必要としています。快楽主義がキリスト者やそうでない人たちの間にも多くの犠牲者をもたらしています。どんなときでも、犠牲は快楽主義との戦いに打ち勝つ武器です。また体や感覚の行き過ぎた安楽に対する武器でもあります。自分自身への無秩序な執着を踏み潰すための手立てを考えましょう。それは、内外の諸感覚、能力、霊魂と体をキリストと一致して供え物として捧げること、また本当のいけにえとすることに具体的に示されます。それは実際に、私たちの内外の諸感覚と能力、心と体、つまり全存在を素直に奉献し、イエス・キリストとの緊密な一致のうちに真実のいけにえにすることです。
私たちは「生命を捧げ、条件をつけずに、ごまかしたりしないで献身しなければ」なりません。「それは私たちの罪、兄弟である全ての人の罪、あらゆる時代に犯され、世の終わりまで犯される罪、何よりもカトリック信者の罪の償いのためであり、神に招かれながら応えることをしなかった人たち、主の特別な愛を裏切った人たちのためです。」[24] 創立者がいつも大事にしていた側面を付け加えることにします。この戦いに勝つには、希望をもって楽観的であり、信仰によって人々に対する神の愛を信じ、主が必ず勝たせてくださることを確信することです。
44.聖ホセマリアのこの言葉は、いつもの犠牲を寛大に実行するよう励ましてくれます。私たちは皆、ためらうことなく清められることを必要としています。こうしてのみ、神の子の喜びを持って、自分の生活環境を健全なものにすることができるのです。「償わなければなりません。しかし、それ以上に必要なのは神への愛です。心の汚れを焼き尽くす愛―、心の惨めさを聖なる炎で燃え上がらせる愛の火―、このような愛がなければならないのです。」[25]
もし、恐れを感じるときがあったら、私たちへの愛のために苦しまれたご受難のイエスを見つめることを私も勧めます。「これでも(・・・)、あなたは恐れて、罪の償いのために犠牲を捧げられないのでしょうか。」[26]
キリスト者にふさわしいこの振る舞い方を通して、人々の中に、若者や年配者、健康な人や病気の人たちと実際に絶えず使徒職をすることが急を要することだという意識を高めるようにしましょう。専門職で関わりを持つ人たちや友だち、親戚、そして趣味など、普段の生活を繰り広げているところで関わりあう全ての人たちに対しても同じことです。聖母に、これからの数ヶ月間、神を信じる喜びを述べ伝えるため、使徒職の熱意を高めてくださるよう頼み、いつもこのように振る舞いましょう。さらに、多くの男女が頑なにならないで神の恩恵に心を開き、神ご自身が、永遠の昔から、一人ひとりのために準備された永遠の幸せに到る小道を、キリストと共に歩む決心をするよう、御子の恩恵を十二分に送ってください、とお願いしましょう。
45. 主が私たちに委ねられた「使命」使徒職は、これまで述べてきた「信仰生活」によってのみ実現が可能なことで、私たちはその信仰を「公に表わす」必要があります。教理に基づく信仰、その信仰に基づく生活こそ、キリスト者の生き方を何事にもたじろぐことのない者とし、魅力あるものにするのです。信仰を持たない多くの人が、実は神を信じている人たちに見られる喜びや確信、平和を望んでいるのです。憧れだけかもしれませんが。
指摘したばかりですが、信仰の徳に基づいた使徒職に専念しましょう。それゆえ、日々、主への信頼が欠けてはなりません。神への侮辱や、霊魂を傷つける多くの事柄を償わなければなりません。子供たちよ、私たちは、まさしく個人的な使徒職によって、この償いが、急を要し、絶えず続けるべきであるということに気づくのです。この償いは確かに、私たちのキリスト者としての思いの深さ、社会の状況に対する誠実な嘆きを明らかに示すリトマス試験紙のようなものです。私たちはこのように振舞うようにしますが、創立者が言われたように、もし私たちが神のみ手から離れると極悪人と同じ過ちや悪事を犯し得ることを心得ています。無為に陥るあらゆる可能性を振り払うことにしましょう。一人ひとりが、同じ使徒職の観点で、いろいろな形で同じ理想を追い求めている人たちのために主にお願いしましょう。あらゆる正当な手段を駆使して、地上くまなく、gáudium cum pace 喜びと平和の鐘が響き渡るように、恐れることなく平和の種まきに行きましょう。
46. 堅固な信仰をもって忍耐強く聖三位一体との対話を続けて土台を強化することは、具体的な使徒職を実り豊かなものにします。人々に仕えるあらゆる機会を逃さず活用し、新たなことを生み出すことに大きな魅力を感じて歩んで行きましょう。自分の仕事が何であろうと、たとえ僅かでも虚栄心に席を譲ることのないよう自分を見張りつつ、いつも正しい意向をもって日々の務めを果たしましょう。こうして、あらゆる活動が立派な神への捧げものとなって、イエス・キリストと一体となり、生活の一致がもたらされます。
社会の新福音宣教の中核に、一人ひとりがみ摂理によってふさわしい立場を割り当てられています。しかし、受身的に振る舞って、忠実であろうと努めることだけで満足してはなりません。仕えるためには人々の集まるところに出かけるのです。社会にある様々な組織や大学や学校、労働や休息の場で、そして家庭で、彼らに必要なキリスト教的な形成を与えることです。初代信者に倣って、世の中で教会の仕事に貢献する聖なる促しを感じるべきです。時には、見るからに過酷な障害を目の当たりすることがあるでしょう。そんなときには、聖ホセマリアが例外なしに全ての子供たちに宛てた手紙の数節を当てはめることです。
「子どもたちよ、時々(・・・)自己の卑小さを感じ、次のように考えることは当然なことです。私にこの全ての仕事を? とるに足りない存在の私に? 惨めで間違いだらけのこの私に?
こんなときには聖ヨハネの福音書の生まれつきの盲人の癒しの場面をゆっくりと黙想するよう勧めます。ご覧なさい。主がどのように地の埃と唾で泥を作り、それを盲人の目に塗られるかを(ヨハネ9,6参照)。主は、少量の泥を薬としてお使いになります(・・・)。私たちは、自分が弱く何の取りえもない存在であることを重々承知していますが、しかし神の恩恵と善意があれば、光をもたらす薬になります。自分の小ささを見せ付けられても、私たちは人々のための神の砦なのです。」[27]
ある人たちは立場上、この新たな文化や法律、何度も話したように、新たな流行を作り出していくための最前線で活躍するでしょう。流れにひるむことなく、それを福音の精神に沿ったものにするよう精進しなければなりません。繰り返しますが、私たちは皆、この「愛と平和の戦い」で具体的な場を任されているのです。一人ひとりが、最前線であれ、後衛であれ、全教会との交わりのうちに、この目的を効率よく果たしていくため、直接的な使徒職をしていく立場にあるのです。
47. 職場や親戚、友人・知人の集まりで、対立的な雰囲気が特に強く醸し出されるときには、主がキリスト信者を召されたのは世のパン種になるためであるという責任を深く考えることです。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(マタイ13,33)。そして聖ヨハネ・クリゾストモはこう説明しています。「パン種が自身の力で粉の大きな塊を変えるように、あなた方は全世界を変えなければなりません。」[28]
神は、世の歴史の中でこのように働かれましたし、また働いておられます。神の御手には全ての被造物を従わせる力があります。その御力に反抗できる人はいないからです。しかし、そうすると主ご自身が私たちにお与えになった自由を尊敬なさらないことになります。神は力で説き伏せるのではなく愛によって納得させようとお思いです。それには自由で熱心な協力者を頼りになさいます。神なる師は、飼い主のいない羊のようにさまよっている人たちや群集を見過ごすことなく、皆に関心をお持ちです。独裁者のように<真理>を押し付けることは好まれませんが、かといって、人々の無知や倫理的な逸脱などに無関心のままではおられません。それゆえ、祝宴に招く良き父親の口を借りてこのような指示を出しておられるのです。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(ルカ14,23)。compélle intráre!
「キリストは、一箇所に留まって、人々が御許に集まるようにすることも可能であったが、そうはなさらなかった。私たちも通りに出て行くように模範を与えようと、はぐれた羊を探す羊飼いのように、また患者に対する医師のようになさった。」[29]
教会は、このようなやり方を絶え間なく続けて世界中に広がり、数知れない回心を導き出したのです。並外れた人物による活動で実りがあって、綿密に練られた作戦で結果が出るということはほとんどありません。信仰生活をごく自然に実行した男性や女性、廉潔な家族のよい模範のおかげで湧き出たのです。恩恵に支えられ、自然に信仰を実行し自らが抱く希望の理由を示し続けることができました。 (1ペトロ3,15参照)。
キリスト信者一人ひとりの責任は何と偉大なことでしょう。多くの偉大な仕事を実りあるものにし、魅力あるものにするのは、私たちの振る舞い、私たちの使徒職の熱意いかんによるのです。「ある人たちが無味乾燥になるなら、あなた方はその味わいを取り戻させることができます。しかし、あなた方が無味乾燥になったら、他の人たちをもそれに巻き込んでしまいます。それゆえ、役目がより重要になればなるほど、熱心に神を敬うよう努めることが必要になります。」[30]
48. 一人ひとりは小さなものですが、属人区の信者、協力者や友人の使徒職は、オプス・デイ創立当初から、主の御手の道具として教会の懐の中で湧き出てきました。私たちは叫び続けなければなりません、Grátias tibi, Deus! と。それと同時にもっとたくさんのことをしなければならないでしょう。Duc in altum! (ルカ5,4)沖に漕ぎ出せ! 恐れずためらわないでもっと遠くへ行きましょう。主の願いであるという固い基盤にいつも支えられ、主への確かな信仰に満たされて沖へ漕ぎ出すのです。信仰年は、何と広々とした使徒職の展望を見せてくれることでしょう。皆さん一人ひとりがその展望を活用する熱意を持っています。使徒職はあらゆる場所で実現できます。何よりも、人々や具体的な願いのために神に頼むことを心がけながら。
先に述べた再福音化の優先的分野について考えてみましょう。信仰年にあたって、私たち一人ひとりどのように自分の役割を果たしているか振り返ってみましょう。キリスト教的な味わいを、自分の家族、忙しい職場、参加している文化的社会的集まりそして休息の場に伝えるために何をしているでしょうか。勇気を出してこの糾明に取り組み、個人的状況に合った結論を引き出しましょう。空しく不安がることを避け、しかし必要ならば愛の痛みからしっかりとした決心を引き出すことです。そうすると、確かに不十分な点があるという結論も出てくるでしょう。もっと信頼を持って忍耐強く集中的に祈ることができたこと。おそらくより惜しみなく犠牲を捧げることができたこと。人々への奉仕において使徒職的な会話をもっと積極的に押し進めるべきだったこと。教理的形成に注意を払わなかったことなど。また時には、主が人々を獲得するため私たちを役立てようと望まれたことに感謝することもあるでしょう。
私たちは、このような現状に落胆するのではなく、新たな励ましとして受け入れ、信仰をより活きいきとしたものにしてくださるよう神にお願いし、再び始めなければなりません。Nunc cœpi! と聖ホセマリアは詩篇の言葉を繰り返していました。「今、始めます。いと高き神の右の御手は変わった」(詩篇76,11.Vg参照)。望みどおりに成果があがらなかったとき、個人的な卑小さが歴然とするときや努力が報われないように思えるときには、このように反応しなければなりません。そんなときこそ、すぐに再び始めることで解決です。eúntes docéte! あなた方は行って全ての民を私の弟子にしなさい(ルカ5,4)。主が弟子たちを送り出されたときのように主の言葉に信頼して始めるのです。
49. これは、福者ヨハネ・パウロ二世が2000年を閉じるに当たって、カトリック信者に勧められたことです。「教会にとって新しい歩みが始まりました。この新しい千年期の初めにあたり、イエスのことばがわたしたちの心にこだまします。イエスは、シモン・ペトロの舟に乗り、群集に話した後、使徒に仰せになりました。『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』<Duc in altum>(ルカ5,4)。シモンと仲間たちはイエスのことばに信頼して網を降ろしました。すると『おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった』(ルカ5,6)のです。」[31]
この場面は、創立者が生前しばしば考察し、説教のテーマにしたところです。私たちは、聖ホセマリアの祝日のミサの福音書で非常に活きいきとこの場面を観想します。繰り返し各節をゆっくりと黙想することを勧めます。現代でもイエスの時代と同じように、多くの人が神のみことばに飢え渇いているからです。
主は、みことばが群集に届くようペトロの舟に乗られました。そして、話し終わると、シモンと他の弟子たちに、協力を頼まれます。その時は沖に漕ぎ出すことでしたが、度々、ご自分の教えがますます広がるように、物的な協力をお求めになります。一方で、どのように最初は福音宣教に参加するのかが具体化されますが、それはペトロのつつましい船のように教会に役立つ効果的な物的手段を提供することです。こうして人々の善に大きな効果をもたらしながら働くことができます。しかし、これだけでは不十分です。主はさらに、私たちが一人ひとり自分の立場で個人的に、惜しみない心で、できることを駆使して使徒職をするよう要求しておられます。人々をキリストの足元に連れて行くという魅力ある仕事に本気で自分を費やす人々が緊急に必要です。
奇跡の大漁は、使徒職の効果が主のみことばへの従順を源とすることを示す印です。イエスは群集に教えられた後でペトロとその仲間に向かい、「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」(ルカ5,4)と、仰せになります。シモンは、その時までの不漁にも関わらず、主のお命じになった通りにします。すると、その素直さによって、奇跡が起こります。「おびただしい魚がかかった」(ルカ5,6)のです。
「Duc in altum! 沖に漕ぎ出しなさい! 私たちのために、きょう、このことばが響き渡ります。今を熱心に生きるために、神の恵み豊かな出来事を記憶にとどめるようにと招きます。『イエス・キリストは、きのうもきょうも、また永遠に変わることのない方です』(ヘブライ13,8)。」[32]
さらにベネディクト十六世がペトロの教座での司牧職を荘厳に始められた日の説教を引用して、その現実性を示したいと思います。
「今日も、教会と使徒たちの後継者たちは、歴史の海の沖に漕ぎ出して、網を降ろすよう命じられています。それは、人々を、福音へと――神と、キリストと、まことのいのちへと、導くためです。(・・・) わたしたちは疎外された状況の中に、苦しみと死をもたらす海水の中に生きています。わたしたちは、光の失われた闇の海の中で生きているのです。福音の網は、わたしたちを、死の海から引き上げ、神の光の輝きの中へ、まことのいのちへと、わたしたちを導きます。このことは、実際に真実です。人間をとる漁師となるという、この使命を与えられてキリストに従うとき、わたしたちは、人々を、さまざまなかたちの疎外という塩の味のついた海から連れ出し、彼らをいのちの地、神の光へと導くからです。このことは、真実です。わたしたちの人生の目的は、人々に神を示すことだからです。そして、神が目に見えるようになって初めて、本当の意味での人生が始まります。キリストのうちに生ける神と出会って初めて、わたしたちは生きるとはどういうことであるかを知るのです。」[33]
50. 繰り返しますが、使徒職の実りのためには信仰生活を深めることが不可欠な第一条件です。それは、超自然的な手段により頼むことに表れます。私たちが念祷でイエスとの友情を深め、ゆるしの秘跡とご聖体の秘跡を拠り所とし、聖母、そして私たちの仲介者の天使たちと聖人たちと親しく交わるなら、主イエスが私たちに任せようと望んでおられる神の漁に、協力者として効果的な働きをすることができるでしょう。そのためには、主に倣い、友人や同僚、全ての人たちを心から愛さなければなりません。それは、mandátum novum, 新しい掟を実行することです。その掟を守ることで人々は私たちを主の弟子だと認めるでしょう(ヨハネ13,34-35参照)、と救い主が仰せになりました。
他方、主は、できる範囲で物的な手段を活用することをもお望みです。聖ホセマリアのミサの第一朗読の教えからそれを推測することができます。全能の神は世界を創造された後、特別の愛を込めて人祖をお造りになりました。「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置き(・・・)、そこを耕し、守るようにされた」(創世記2,8-15)。
オプス・デイの創立者は、聖書のこの一節を記憶に深く留めていました。主がみ旨を明かされた瞬間から、創世記のこの言葉に、仕事を聖なるものに変え、仕事を通して自分も聖化する義務を果たすための手がかりの一つを見て取っていました。イエスが30年の間ナザレの仕事場で働かれたことを、疑う余地のない模範として私たちに示し、神の国を築くためには人間的な手段も使うべきであることを明示しました。
あらゆる使徒職活動には、何よりも神の助けに信頼することが必要ですが、使徒職のためには同時に物的手段も使います。例えば、オプス・デイの推奨する活動には、多くの祈りと多くの人たちの助けが必要です。こうして、神の恩恵と様々な社会層の人たちの寛大な祈りと犠牲、献金による協力で、世界中で日ごとに福音宣教の仕事が広がり、更によく教会に奉仕することができます。
聖ホセマリアは、毎日、知り合いを主に近づかせるため、今日私は何をしただろうか、と自らに問いかけることを勧めていました。様々な機会で、人々を導く会話の中でこの大切な勧めを伝えていきましょう。ゆるしの秘跡にあずかるよう勧めたり、キリスト信者としての生活の一端をよりよく理解するよう助けたりすることでも伝えることができます。聖アンブロジウスは、洗者聖ヨハネの父ザカリアの舌が解けて話せるようになった(ルカ1,64参照)ことをコメントしてこう述べています。「舌がすぐに解けたのには訳がありました。信仰があったからです。不信仰によって縛られたものがその信仰によって解かれました。」[34] 信仰を活きいきと保っているなら、私たちの舌は、友情と親しい語り合いの使徒職でキリストを証しするため滑らかに動きます。またいつも、個人的な祈りと犠牲、しっかりとやり終えた仕事を惜しみなく捧げることが必要です。これが、使徒職の目的を達成するため使うべきより重要な手段ということになります。
51. 筆をおく前に、向こう数ヶ月間、皆さんの「信仰生活」をより深いものにするのに役立つことを三つお勧めします。聖体信心、聖霊との交わり、聖母信心です。一人ひとり霊的指導に助けられて個人的な状況に当てはめることができるでしょう。
52. ベネディクト十六世は、自発教令「信仰の門」の中で、信仰年が「すべての信者のうちに、完全かつ新たな確信と、信頼と希望をもって信仰を『告白』したいという望みを呼び起こしますように」とご意向を説明し、こう続けておられます。「信仰を典礼の中で、特に感謝の祭儀の中で深く『記念』するためのよい機会ともなります。感謝の祭儀は『教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉』(第二バチカン公会議「典礼憲章」10)だからです。同時にわたしたちは、信者の生活の『あかし』がますます信頼のおけるものとなることを祈ります。わたしたちが告白し、記念し、生き、祈る信仰の内容を再発見し、信じることについて考察することは、とくに『信仰年』の間、すべての信者が自分のものとしなければならない務めです。」[35]
2012年には、オプス・デイの歴史上、特に意義深い記念日をいくつか祝いましたし、また祝います。4月23日、創立者の初聖体100周年、列福 20周年(5月17日)と列聖10周年(10月6日)、属人区設置30周年(11月28日)など。「信仰年」の準備期間と信仰年の間、歴史上のこれらの日々と他の記念日が、至聖三位一体への感謝と賛美を新たにする機会にならなければなりません。それが最もよく実現されるのは、ミサ聖祭において秘跡的に現存されるキリストのいけにえが最も良い方法ではないでしょうか。
それゆえ、「信仰年」の間「その中にキリスト教の全ての神秘を秘めている」[36] 聖体に対する正しく堅固な信心を表すようあらためて努めなければなりません。キリストの唯一の祭司職に参与することによってもたらされた賜を、一人ひとりがしっかりと自覚し、より完全に自分のものにするよう努めましょう。私たちは皆、洗礼によって共通の司祭職に与っていますが、ある人たちは、その上、叙階の秘跡によって位階的司祭職につきます。ミサ聖祭に参加して祝う際に、司祭的魂を発揮することを重要視しましょう。毎日、皆さんの仕事や夢、皆さんの困難、皆さんの苦しみや喜びを祭壇上に捧げてください。イエス・キリストは、それをご自分のいけにえに包み込み、全てを御父に捧げてくださいます。すると、私たちの地上でのあらゆる瞬間とあらゆる状況が神をお喜ばせする献げものになり、真実の称賛と感謝、そして罪の償いのためのいけにえになるのです。こうして、聖ホセマリアが心の奥底に秘めていた望み、つまり、祭壇のいけにえに固く一致することによって、私たちの全存在、私たちの一日24時間を一つの「ミサ」にする、という望みが実現されることになるでしょう。
53. この信仰年、ご聖体にイエス・キリストが実際に現存されることへの信仰を、もっと沢山の行いで表すようにしましょう。創立者は、どれほど深い愛をもってご聖体について話していたことでしょう。要理指導の旅をいつも人々の信仰を深めるために活用し、教会のこの宝について話していました。「主は、祭壇上にだけにお出でになるのではありません。司祭が聖体になったパンを聖櫃に安置すると、そこには、終生おとめなる聖マリアの胎内で人となられた御子イエス・キリストが現存されるのです。ベトレヘムでお生まれになった後、ナザレで黙々と働き、十字架上で苦しみ死去し、そして復活し、天にお昇りになった御子が現存されるのです。」[37]
2012年初頭に、使徒トマスの信仰宣言「Dóminus meus et Deus meus! わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20,28)を繰り返すよう勧めました。今また、聖なる聖体に隠れてまします主を黙想するとき、聖ホセマリアのように、この言葉や他の言葉で主に向かいましょう。「主よ、神の御子イエス、終生おとめなるマリアの御子であられる御身が、ここに実際に現存されていることを信じます。御体と御血、ご霊魂と神性ともども現存されています。御身を礼拝します。御身の友達になりたいのです。御身は私を贖ってくださった方ですから。私は御身のために愛の人になりたいのです。御身は私にとっての愛であられますから。」[38]
子どもたちよ、よき父親に似ることは躾のよさを表します。聖ホセマリアから引き継いだ小道を注意深く歩み通すよう努めましょう。毎日、ご聖体への信心をより細やかなものにするよう、聖なる熱意を燃え立たせましょう。ご聖体のイエスへのあいさつや、教会やセンターの聖堂の出入りの時のあいさつには、友としての全霊を込めましょう。言葉や心で愛情を表すことは当然ではないでしょうか。このように振舞わなければなりません。働いているところから射祷や霊的聖体拝領を通して主にあいさつするのです。主に反抗したり主がないがしろにされているようなことを見たり聞いたりするときには償いを捧げましょう。ご聖体へのお辞儀が本当の礼拝の行為になっているかどうか考えましょう。
これまで述べたことは、〈オプス・デイになり〉、〈オプス・デイをする〉ことを望む人に固有のご聖体への愛の表明についての一素描であり、まだ他にもたくさんあります。
54. 現代の教会において最初の聖霊降臨の奇跡が繰り返されるように、信仰と希望をもってなぐさめ主にお願いしましょう。十二使徒が聖霊によって全面的に変えられたことにいつも驚嘆します。彼らは恐れを追いやり、出会う人皆にキリストについて話そうと、きっぱりとした態度で、大志を抱いて出掛け、困難に遭遇するときには祈りに赴くのでした。そんなときには特別に慰め主を遣わす、と約束された主のみことばを固く信じていたのです(ヨハネ14,15-18;
ルカ21,12-15参照)。使徒言行録にこう記されています。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」(使徒言行録4,31)。
主は使徒たちにこう仰せになりました。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16,13)。慰め主は、彼らの死によってイエス・キリストによる啓示が完成されるまで、使徒たちを導かれたのです。さらに、イエスのこのみことばは、あらゆる時代の教会に、特に真の教導職に、真理の霊が欠けたこともないし、欠けることもないことを示しています。そして、私たちが主により頼み、救い主の神秘を日ごとに深く理解していくなら、慰め主ご自身が私たち一人ひとりを導いてくださるのです。このように理解していくことは愛でもあります。愛徳は聖霊ご自身が私たちの心に注がれるものだからです(ローマ5,5参照)。
55. 主は、聖霊が来ればキリストを信じない人々や世の誤りも明らかにすると約束されました(ヨハネ16,8-9参照)。私たちにもこの信念が必要です。つまり、私たちの主への信仰、主への全面的な信頼を深めなければならないのです。未だに私たちは、自分自身、自分の可能性、人間的な手段を確信し、それに喜びを見出しているのではないでしょうか。私たちの確信と喜びは主から来るのです。
イエスを全面的に信じない罪に陥ることを避けつつ、この必要性を理解させてくださるよう、聖霊にお願いしましょう。また、聖霊の光と火で私たちを弱さから解き放ち、キリストへの信仰と愛がますます深まっていくよう、聖霊に助けを頼みましょう。毎日でも言いたいことですが、前世紀の30年代に創立者が作った祈りの言葉を、度々黙想し味わうようにすることをお勧めします。「おお、聖霊よ、来たり給え。御身の掟が分かるように私の知性を照らし、敵の計略に対してわたしの心を強め、意志を燃え立たせてください。・・・
御身の声を聞いたのに、後で・・・、明日、と言いながら、頑なになって反抗したくありません。Nunc cœpi! 今すぐに、明日は来ないかもしれない。
おお、真理と知恵の霊、知識とよき勧めの霊、喜びと平和の霊よ! 御身がお望みのことを、お望みのゆえに、お望みのように、お望みのときに・・・、私も望みます。」[39]
これらの願いを深めると、聖霊との親密な友情がますます深まっていき、聖ホセマリアが書いたように、聖三位一体の各ペルソナと付き合うことの必要性が分かるようになります[40]。
また、聖霊に、私たちのことばと振る舞いが人々を変えるものになるよう、その火で清めてくださいとお願いしましょう。いたるところで使徒職ができるように、その炎で私たちを燃え立たせてくださいと真剣に望みましょう。聖ホセマリアと同じ信仰をもって祈りましょう。Ure igne Sancti Spiritus! 主よ、聖霊の火で燃え立たせてください。
56. 聖書に出てくる全ての偉大な人物の中で最も偉大な方は聖母です。マリアは、神を愛し、神に一致するためには、自由な心で神のみむねに全てを委ね、いつも深い信心をもって生きる必要のあることの象徴的な模範として際立っています。教会は、信仰年にそのことを特別に指し示します。「『信仰年』の間、信者が特別な信心をもってマリアに向かうように招くことも有益です。教会の模範であるマリアは『選ばれた人々の全共同体に対して諸徳の模範として輝いている』(教会憲章65)からです。それゆえ、信者が救いの神秘におけるマリアの特別な役割を見いだし、子としてマリアを愛し、その信仰と徳に倣うための助けとなるあらゆる取り組みが勧められます。そのために、主要な聖母巡礼地への巡礼、祭儀、集会を行うことが適切です。」[41]
まず私たちがこの信仰年にすべきことは、典礼暦の聖母の祝日を心から望み、実り多い祝い方をすることです。本当に家族の祝日とするようお願いします。子どもたちは、聖母の数々の記念日で喜びに満たされ、濃やかな愛情を込めて聖母を称えます。
聖母の巡礼所や小聖堂に赴き、心を込めて自分と人々を聖母にお見せしましょう。親戚や友人、あるいは同僚を伴うときには、「信仰年」を告示されたベネディクト十六世のご意向が滞りなく遂行されるように、教皇様とその協力者の方々、また教会の全ての牧者に固く一致していましょう。この望みを表明するために、キリストの贖いに緊密に同伴された聖母の取り次ぎを願う以上によい方法があるでしょうか。
この強力な仲介者を固く信頼し、世界と社会が神に立ち戻るための恩恵を聖三位一体から獲得してくださるよう、聖母に懇願しましょう。このことに関して、創立者が、いつもの優先事項は痛悔の心を育むことと繰り返しておられたことを思い起こしてもらいたいと思います。痛悔の心をもって祈ることは、限界だらけで寛大さに欠ける人間である私たちに、何よりもふさわしいと思っておられたのです。個人的な罪と怠慢、またキリスト信者や全人類の侮辱や怠慢を償うようにしましょう。
57. ベネディクト十六世は、聖母のMagnificat 讃歌をコメントし、こう述べておられます。「マリアは、神がこの世で偉大な方となり、ご自分の生活においてかけがえのないお方であられるように、そして私たち皆の中に現存されるよう、お望みです。神が私たちの生活で『競争者』になられることを、その偉大さで私たちの自由や生活空間から何かを取り除き得ることを恐れません。聖母は、神が偉大であられるのなら、わたしたちもまた、偉大なものであることをご存知でした。私たちの命を縮めるのではなく、引き上げ偉大なものにするのです。確かにそうすると神の輝きで私たちは偉大なものになるわけです。」[42]
「全能の仲介者」の取り次ぎを確信して、社会の再福音化を目指している私たちと全カトリック信者の努力に実りをお与えくださるよう、主にせがみ続けましょう。そのため今年は、beata Maria intercedénte おとめマリアの取り次ぎによって、多くの人たちの眠ったような信仰、傷つけられたような信仰を目覚めさせ、また信仰を持たない人にはそれを望ませるように振舞わなければなりません。キリストとそのみ教えを伝え、広めるためにあらゆる機会を活用しましょう。教会に仕えるために、よりきっぱりとした態度で友情と親しい語り合いの使徒職を実行してオプス・デイの精神を、多くの人に伝え、様々な社会層の人たちが私たちの使徒職に加わるようにしましょう。
58. 一人ひとり、これらの望みを実現させるためにどの程度まで、責任を感じているかということを糾明しましょう。通常の社会生活で、週末や休暇期間、休息のときも、様々な状況を、より遠くの人を知り、より多くの人に仕えるため、どのように活用しようとしたかを、誠実に振り返って見ましょう。端的に言って、どのように、通りや他の場所を使徒職と使徒獲得のための祈りで一杯にしたでしょうか。
聖母は信仰の師です。「神の民の太祖ブラハムと同じように、マリアも、『望みのないとき、望みを抱いて』、神なる父に対する娘の信頼と御子への母の慈愛を合わせもって、生涯『お言葉どおり、この身になりますように』という信仰の歩みを続けたのです。この旅路のところどころでは、特別に、『信じたかた』への祝福が明らかにされるでしょう。」[43] 私たちと同時代の教会の歴史は、聖母の母としての現存によって著しく特徴付けられなければなりません。「教会にとっても、個人あるいは集団にとっても、民族、国、またある意味で全人類にとっても、マリアの比類なき信仰の旅路は変わることのない手引きです。」[44]
59. イエス・キリストのご昇天後、最初の弟子たちはエルサレムの高間に集まり、マリアを囲んで聖霊の降臨を待っていました。聖母と共に、聖母を通して祈ることは、すぐに聞き入れていただけることを確信させてくれます。ですから、私たちは全ての使徒職を神の御母なる私たちの母に委ねなければならないのです。このことを、聖ホセマリアの言葉で新たにしましょう。
「使徒の元后、聖マリアよ、御身は人間のみじめさをよくご存知ですから、私たちのために赦しを願ってください。火となって燃えるべきであったのに灰と化し、輝きを失ってしまった光、味を失ってしまった塩である私たちのために。神の御母、全能の嘆願者よ、赦しと共に希望と愛に生きる力をお与え下さい。人々にキリストへの信仰を伝えるために。」[45]
心からの愛を込めて祝福を送ります。
皆さんのパドレ
ハビエル
ローマ、2012年9月29日
[1] 聖ホセマリア、1959年1月9日手紙34番。
[2] 聖ホセマリア、1968年5月6日家族の集まりでのメモ
[3] 聖ホセマリア、1954年11月21日説教のメモ
[4] 福者ヨハネ・パウロ二世、1991年4月24日一般謁見の講話。
[5] 福者ヨハネ・パウロ二世、同上
[6] 聖ホセマリア、1945年5月6日手紙35番。
[7] 聖アンセルムス、『プロスロギオン(PL 158,225) 』
[8] ベネディクト十六世、2007年3月21日一般謁見の講話。
[9] 同上。
[10] 同上。テルトゥリアヌスの引用は『処女の被りものについて』I,1(PL2,889)にある。
[11] 同上。
[12] アンティオキアの聖イグナチオ、『ローマ人への手紙』IV,1(Funk 1,216)。
[13] 聖ホセマリア、『鍛』518番。
[14] ベネディクト十六世、2006年3月26日説教
[15] 聖ホセマリア、1964年5月28日説教のメモ
[16] 聖ホセマリア、『道』81番。
[17] 聖ホセマリア、1954年5月31日手紙29番。
[18] 福者ヨハネ・パウロ二世、1994年11月10日使徒的勧告『紀元2000年の到来』45番。
[19] 同上。
[20] 聖ホセマリア、1971年12月8日家族の集まりのメモ。
[21] 福者ヨハネ・パウロ二世、2002年10月6日聖ホセマリア列聖式ミサの説教。
[22] 聖ホセマリア、1930年11月23日イシドロ・ソルサーノへの手紙。
[23] 聖ホセマリア、1930年7月28日『内的考察』75番。
[24] 聖ホセマリア、1932年1月9日手紙83番。
[25] 聖ホセマリア、『聖なるロザリオ』喜びの第四の神秘。
[26] 同上、苦しみの第二の神秘。
[27] 聖ホセマリア、1957年9月29日手紙16番。
[28] 聖ヨハネ・クリゾストモ、マタイ福音書についての説教。
[29] 聖ヨハネ・クリゾストモ、聖トマス・アクイナスが、『神学大全』III,q.40,a.1-2 で引用している。
[30] 聖ヨハネ・クリゾストモ、聖マタイ福音書についての説教、15,7(PG57,231)。
[31] 福者ヨハネ・パウロ二世、2001年1月6日使徒的勧告『新千年期の初めに』1番。
[32] 同上。
[33] ベネディクト十六世、2005年4月24日就任ミサの説教。
[34] 聖アンブロジウス、『聖ルカ福音書の解説』II,32(CCL14,45)。
[35] ベネディクト十六世、2011年10月11日自発教令『信仰の門』9番。
[36] 聖ホセマリア、『会見記』113番。
[37] 聖ホセマリア、1972年11月1日家族の集まりのメモ。
[38] ホセマリア、1972年11月22日家族の集まりのメモ。
[39] 聖ホセマリア、1934年の手書きの祈り。
[40] 聖ホセマリア、『神の朋友』306番参照。
[41]教皇庁教理省、2012年1月6日『覚え書き』1,3.
[42] ベネディクト十六世、2005年8月15日被昇天祭の説教。
[43] 福者ヨハネ・パウロ二世、1987年3月25日回勅『救い主の母』14番。
[44] 同上 6番。
[45] 聖ホセマリア、『知識の香』175番。