ドミニク&クリツィア・クーリー夫妻[1]による寄稿[2]
ポップ・カルチャーが私たちの信念や行動を映し出し、あるいはそれに影響を与えると考えるなら、ブルーノ・マーズ[3]のヒット曲『Marry You』を聴いて、不安を覚える人がいるかもしれません。
今夜は 素敵な夜だ
何かバカなことをしたい気分さ
ねえベイビー
君と結婚したい気分なんだ
(中略)
もし目が覚めて 君が『別れたい』って思ったって かまわない
僕は 君を責めたりしない
『楽しかったよ ガール』って ただそれだけさ
離婚がますます一般的になっているのは確かです。たとえば、アメリカでは結婚が最終的に離婚に至る確率は、40〜50%と推定されています[4]。ベルギーでは、生涯にわたって続く結婚は全体の約3分の1にすぎません。アジアでも、シンガポールや香港といった先進国では離婚率が着実に上昇しており、若者たちは結婚を先延ばしにする傾向があります——そもそも結婚するかどうかさえ不透明です。
しかし、離婚が結婚から抜け出したい人々にとって一つの選択肢である一方、多くの人々はいまなお、結婚を生涯の絆と見なし、理想のかたちと考えています。そして、ポップカルチャーもまた、そうした憧れを映し出しています。
イギリスのシンガー・ソング・ライター、エド・シーランの『Thinking Out Loud』には、次のような歌詞があります。
君の足が 昔みたいにうまく 動かなくなっても
(中略)
僕が 君を抱き上げることが できなくなっても
(中略)
ダーリン 僕は七〇歳になっても きっと君を愛しているよ
この曲は世界各地で音楽チャートのトップを飾りました。
結婚を「一生続くもの」として捉え、それを目指すカップルは、結婚生活が始まってからだけでなく、結婚式の何か月も前、あるいは何年も前から、しっかりと考え、祈り、努力を重ねておく必要があります。
幸せな結婚にとって不可欠なのは、真剣で目的意識のある交際期間です。この期間は、「愛情を育み、お互いのことをより深く知っていくための時間であるべきです。そして、すべての『愛の学び舎』においてそうであるように、この期間も、自分の利益を求める気持ちではなく、与える心、理解しようとする姿勢、相手への敬意と優しい思いやりの精神に動機づけられているべきです」[5]。
聖ホセマリアは、この交際期間があまり長くなりすぎないようにすべきだと述べています。聖なる結婚生活を共に歩むのにふさわしい相手かどうかを、合理的な確信をもって見極められるだけの期間で十分だというのです。
真剣な交際は、現代の人間関係を損なっている二つの極端な傾向を避ける助けとなります。一つは、感情や一時の熱中に突き動かされて、結婚を性急に決めてしまう傾向です。カップルは、しっかりと目を開いて、「恋」に目をくらまされることなく、結婚に向かうことができます。もう一つは、責任のない関係を繰り返しているうちに行き詰まりに陥ってしまう傾向ですが、真剣な交際はこれも防ぎます。この後者の現象について、フランシスコ教皇は「永遠への恐れ」と呼び、次のように警鐘を鳴らしています——「『仮の文化』に支配されてはなりません! 今日、この文化が私たちすべての中に広がりつつあります。しかし、それは正しい文化ではありません」[6]。
この「永遠への恐れ」の処方として、フランシスコ教皇は「真の愛」について語っています。それは、単なる心理的・生理的な状態ではなく、「ひとつの関係」であり「成長していく現実」なのです。そして教皇は、例えとしてこう述べています。——「それは家のように築かれていくものだと言ってよいでしょう。家というものは一人で建てるものではなく、だれかと協力して建てるものです。ここで『建てる』とは、互いの成長を促し、支え合うことを意味します。親愛なる婚約中のカップルの皆さん、あなたがたは今、共に成長し、家を築き、永遠に共に生きる準備をしているのです。あなたがたは、移ろいやすい感情という砂の上に家を建てようとは思わないでしょう。むしろ、神から与えられる真の愛という岩の上に、それを築きたいと願っているはずです」[7]。
コミットメント(結びつきの決意)
キリスト教の結婚にあずかるとき、男女はかけがえのない、大切な誓いを立てます。それは、「順境のときも逆境のときも、富めるときも貧しきときも、健やかなるときも病めるときも、死が私たちを分かつその日まで」、互いに結ばれるという誓いです。しかし、生涯の伴侶として歩む決意は、結婚式当日に突然生まれるものではなく、そのはるか以前から育まれていくものです。
おそらく最初の「コミットメント(結びつきの決意)」は、ふたりが互いに惹かれていることに気づき、単なる友人ではなく、それ以上の存在として相手をより深く知ろうと決めたときに生まれます。もしふたりが、結婚という目的に向かって意識的に交際に取り組むなら、それは初めの段階から「仮の文化」への処方となりえます。時が経つにつれて、愛と友情の絆が深まり、それにともなって互いへのコミットメントも成熟していきます。
そしてふたりが「結婚の準備ができた」と感じるとき、大きな節目が訪れます。新たなコミットメントが交わされ、互いに結婚すること、そして、それに向けて、これまで以上に真剣に準備していくことが約束されるのです。ここで注意すべきなのは、結婚の誓約に至るまでに交わされるすべてのコミットメントには、法的な拘束力がないということです。もし拘束力があるとすれば、結婚前の交際が「気づきと見極めのための時期」であるという本来の目的が損なわれてしまいます。
そして、結婚式当日に交わされる最後のコミットメントこそが、生涯にわたる約束となるのです。この最終的な誓いが真に意味あるものとなるためには、それに至る交際期間を、心を開き、理性をもって互いを理解し、互いに成長しながら、喜びに満ちた友情のうちに過ごすことが大切です。
愛と結婚前の交際
交際とは、互いのことをよく知っていくための時間です。ただ一緒に時間を過ごし、少しずつ好意を抱くようになるだけの期間ではありません。この「互いを知る」という過程は、冷たく計算的なものであってはなりません。ふたりは、就職希望者を評価する面接官のように互いを観察するのではありません。実際にそこで起こっているのは、ふたりがより深い友情を育んでいくことなのです。
しかし、「仮の文化」のさまざまな形態(たとえば同棲や結婚前の性的関係)は、互いを発見していくための大切な期間を非常に困難なものにしてしまいます。交際の初期に肉体的・性的な側面に踏み込んでしまうと、それ以外の大切な側面が軽んじられてしまいがちになります。恋人たちはやがて身体的魅力や情熱に目を奪われ、結婚に至る過程で本来求められる、相手に対する客観的な見極めができなくなってしまいます。その結果、しっかりと目を開いて結婚に踏み出すことができず、後になって後悔や心の傷を負うことになりかねないのです。
「将来の結婚生活において相手に誠実であってほしいと願うなら、今この時点で誠実であることを確かめなさい」という格言は大きな意味を持っています。現代の若者たちにとって、この試練がとくに重要であることは、数多くの実例が示しています。そして実際、この試練を乗り越えた経験こそが、その後の健全な家庭生活を築くための、確かな保証となってきたのです。
貞潔と清さは、健全な交際において欠かせない重要な要素です。映画や広告、音楽がどのようなメッセージを流していようとも、貞潔を守ることは十分に可能です。また魂を深く満たすことでもあります——もっとも、それは二人が真心をもって努力を惜しまない場合に限られますが。
聖ホセマリアはこう教えています。「貞潔とは、どのような生き方においても愛を若々しく保つ徳です。肉体的成熟の芽生えを感じはじめた人にふさわしい貞潔があり、結婚を準備している人にふさわしい貞潔があります。また、神によって独身の召命に招かれた人のための貞潔があり、結婚の召命を受けた人のための貞潔もあるのです」[8]。
貞潔はすべての男女にとって重要な価値であり、神を見ること、そして神の声に耳を傾けることを可能にします。まさに「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」[9]という言葉のとおりです。貞潔は、人が愛の教えを理解し、身につけるための力を与えてくれます。
成長の時
交際期間は、若い男女が互いの資質や長所を知り、尊敬の念を育んでいく時期です。同時に、お互いの欠点や弱さを理解し、相手が足りない部分を克服できるよう助けあうときでもあります。この期間は、それぞれの粗削りなところを少しずつならし整えていくとともに、将来の伴侶となる相手の気質や、その人ならではの強さと脆さとを理解し、思いやるプロセスなのです。
交際を通じて、カップルは将来の幸福な結婚生活に欠かせない多くの徳を育み、実践していきます。こうした徳を身につけようと努力することは、人としての品格を磨くことにつながり、結婚という召命を、より完全なかたちで生きることを可能にします。とりわけ重要な徳として、次のようなものが挙げられます。
無私と寛大さ
これらの徳は、相手の望みを自分の望みよりも優先することを中心として成り立っています。結婚を考える人は、自分の欲求や好みにばかりとらわれてはなりません。たとえば、友人たちとサッカー観戦を楽しむのが好きな青年は、恋人との大切な時間を確保するために、そのような楽しみを控えざるを得ないことに気づくかもしれません。逆に、女性が、たとえ手間がかかったとしても、恋人の好きな料理を作ろうと決意することもあるでしょう。自分の欲求を抑え、相手を思いやるには、自分自身に「ノー」と言える力が必要です。これは、円満な家庭生活を築く上で非常に重要な要素となります。
忍耐と謙遜
交際を通じて互いをより深く知るようになると、相手の中に、あるいは自分自身の中にも、欠点や弱さを見いだすのは避けられません。私たちは、互いの弱さに対して忍耐をもって接し、いらだちや困惑を乗り越えることを学ばなければなりません。完全な人などいないのですから。相手の性格の否定的な側面も含めて、その人全体を受け入れることが、それぞれに求められるのです。
もちろん、それらの欠点が結婚という召命を生きる上で重大な障害とならないかぎりにおいて、私たちは将来の伴侶に対して忍耐強くあり、その苦しみに寄り添い、励ましを与えるべきです。また、自分自身も謙虚さをもって自らの不完全さを認める姿勢が求められます。たとえ自分が正しいと思えるときであっても、必要に応じて指摘を受け入れ、許しを求めることができるようでなければなりません。
ジョン・レジェンド[10]の楽曲『All of Me』の歌詞が思い出されます。
僕のすべてが 君のすべてを愛している
(中略)
君の「完璧な不完全さ」も含めて すべてを
(中略)
君のすべてを 僕に預けてほしい
僕も僕のすべてを 君に差し出すから
君という人 そのものを 僕に預けてほしい
トランプのカードは すべてテーブルの上で
お互いのハートを 見せ合って
すべてを 賭けているんだ
どんな困難が 待っているとしても
節制と勇気
キリスト教のカップルは、交際の期間中、節度をもって日々を過ごし、結婚前の肉体的な親密さへの誘惑に流されないように求められています。人は決して、他者の自己満足のための手段や道具として扱われたいとは思わないものです。節制を生きるということは、人格を鍛え、より大きな喜びと思いやりをもって他者と関わる力を養うことでもあります。
交際や婚約を、いわゆる「試しの結婚」と見なす人もいるかもしれません。しかし、聖ホセマリアはこう強く戒めています。「良識ある人間なら、ましてキリスト者であるのなら、そのような態度は人としてふさわしくないと考えるはずです。それは人間の愛を貶め、愛を利己心や快楽と混同してしまうことにほかなりません。(中略)愛を工業製品のように扱ってはなりません。愛は、気まぐれと安楽さ、興味関心といった基準によって試され、その後に受け入れるか拒むかを決めるようなものではないのです」[11]。
友情
友情は、質の高い時間を共に過ごすことによって育まれます。ですから、良い交際における必要不可欠な側面の一つが「互いにどのように時間を過ごすか」に心を砕くことであるのは、見過ごされがちでありますが、ごく当然のことです。会話は友情の成立に不可欠な条件であり、意思疎通の不足で結婚生活が深刻な困難に陥ることは少なくありません。カップルは、交際の初期の段階から、互いに良いコミュニケーションを取る方法を学ぶことができますし、また学ばなければなりません。たとえば、一日の出来事や互いの関心事について語り合い、意見を交わし、価値観や希望、夢について話すことが大切です。喜びや感謝を伝えること、そしてとりわけ、怒りや傷ついた気持ちを建設的に伝える方法を学ぶことは、交際を喜びに満ちた実りあるものとし、将来の結婚生活にも大きな助けとなります。
より深い価値観について、しっかりと時間をかけて語り合うことが欠かせません。カップルは、人生や愛、家庭に関する基本的な価値観を共有しているかを確認し、将来に向けた共通の夢を持っていることを確かめるべきです。趣味を分かち合い、お互いの関心を励まし合い、共に何かに取り組むこと——結婚を、老い・貧困・病いといった困難の中でも生涯にわたって持続させる鍵は、まさにこのような関係にあり、肉体的・感情的な結びつきにあるのではありません。
もちろん人はそれぞれ異なり、男女の感受性には特有の傾向があることにも注意を払うべきです。男性は、自分にとってまったく新しい感受性に対して心を開き、それを知り、受け入れ、そして愛することが求められます。
交際の時期とはまた、カップルが感受性や洗練された礼儀作法を身につけていくべき時期でもあります。教皇フランシスコがこの三年間にわたり繰り返し説いてきた助言の一つに、三つの小さな言葉の大切さがあります——「よろしいでしょうか?」「ごめんなさい」「ありがとう」。これらの言葉は、単なる形式的な言い回しではあってはならず、互いへの深い敬意と愛情を映し出すものでなければなりません[12]。
交際中には、工夫を凝らすことが大切です。すなわち、身体的・性的なものに頼るのではなく、深い愛や思いやりを伝える方法を見つけることです。たとえば、花を贈ること、相手のために食事を作ること、手書きのメッセージや贈り物、心を込めた働きかけ、優しく気品のある言葉など——愛のやさしい武器庫には、実に多くの手段が詰まっています。こうした工夫が失われ、互いに自分の方向にばかり進んでしまうと、愛情はしだいに冷めていき、やがて「私たちはあまりにも違いすぎる。別れたほうがいいかもしれない」という思いが、水平線のかなたに浮かんでくるようになります。
内的生活
これまで述べてきたすべてのことにおいて、何よりも大切なのは、神との強い結びつきです。祈りと秘跡を通して与えられる恵みがなければ、愛はたやすく底の浅いものとなり、犠牲は重荷となり、希望は色あせていきます。教皇ベネディクト十六世は、愛についての回勅の中で、次のように述べています——「愛を与えたいと思う人は、愛をたまものとして与えられなければなりません。たしかに、主がいわれたとおり、人はその人の内から生きた水が流れ出る源となることができます(ヨハネ7・37–38参照)。けれども、そのような源となるためには、つねに第一の源泉から飲まなければなりません。第一の源泉とは、イエス・キリストです。このかたの刺し貫かれた心から神の愛が流れ出るからです(ヨハネ19・34参照)」[13]。
祈りのうちに、私たちは自らについて新たな気づきを得、寛大さや理解、思いやりの新しい道を発見し、許すこと、そして許しを乞うことを学びます。さらには、将来の伴侶にいかに愛をもって接するべきかについての具体的な導を受けることさえあります。なぜなら、神とは、いついかなるときも、私たちに愛を注いでくださる方だからです。
[1] 【訳註】シンガポール在住の夫婦で、カトリックの価値観に基づいた結婚や交際についての執筆活動を行っている。
[2] 【訳註】この寄稿は2016年にオプス・デイの英語版ウェブサイトに掲載された。https://opusdei.org/en/article/courtship-makes-good-sense/。
[3] 【訳註】アメリカのシンガーソングライター。グラミー賞受賞。『Marry You』のテーマは今この瞬間に身を任せた「気まぐれ結婚」。
[4] アメリカ心理学会「結婚と離婚」。https://www.apa.org/topics/divorce/。
[5] Conversations with Monsignor Josemaria Escriva de Balaguer(『ホセマリア・エスクリバー師との対話』未邦訳)p.105.
[6] 2014年2月14日教皇フランシスコ一般謁見。
[7] 同。
[8] 聖ホセマリア・エスクリバー『知識の香』3章「結婚への召し出し」25節「人間的愛の聖化」。
[9] マタイ5・8。
[10] 【訳註】アメリカのシンガーソングライター。グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞、エミー賞を受賞。『All of Me』のテーマは「恋人への無条件の愛」。
[11]上掲書[2]、同頁。
[12] 2015年5月13日教皇フランシスコ一般謁見参照。
[13] 2005年12月25日教皇ベネディクト十六世回勅「神は愛」第7項。