静寂を味わう
DYAの学生寮が始まって2年が経った時、それまで若者たちの形成活動のすべてを担っていた聖ホセマリアは、彼の子の何人かにこの仕事を手伝うよう依頼します。そのため彼は、形成を与える準備を容易にし、聖ラファエルの青年たちとの使徒的活動にインスピレーションを与えるいくつかのアイデアを取りまとめた指針を書くことを決めました。そこでこの学生寮で育むべき重要な特徴の一つとして、沈黙への愛を挙げています。「私たちの学生は、自分の沈黙が祈りであり、仕事であり、他者の休息であることを忘れないだろう。夜のコメンタリーの後、翌日のミサが終わるまで、大きな沈黙(silencio mayor)が守られる」[1]。聖ホセマリアは、この沈黙を規律や秩序の問題としてではなく、翌日の祈りとミサのための深呼吸と見なしていました。「それは味わうものであり、不可欠なものとなる」[2]。
私たちは誰かに何かを聞いてもらうためには声を上げる必要があると思いがちです。そうすることでしか注意を引いたり、意見を魅力的に伝えたりできないと考えます。しかし神はその逆です。「夜の最も深い静寂の時、あなたのことばが地上に降り立った」(知恵18・14-15)。宿屋の喧騒ではなく、静かな馬小屋において、神は幼子になりました。絶え間ない刺激に囲まれた生活様式を前にして、イエスは私たちに、騒音から離れ、静寂を探すよう求めます。
日によっては、私たちを動揺させる出来事が起き、その意味を理解できず、不安や心配を抱えたまま眠りにつくこともあるでしょう。逆に、日中の出来事に満足したり、喜びに包まれて夜を迎えることもあるでしょう。このようなことすべてを夜の時間に主とともに黙想し、私たちの心を占めた感情を主と一緒にたどることができます。そのざわめき、その理解できなかった事柄は、その日の他の音と調和した旋律に変わります。また、私たちに喜びを与えたことも、孤立した音符ではなく、献身の歌の一部としてのより広い意味を持つようになります。そしてこの旋律は、私たちの期待に応じて無理に作るものではなく、沈黙の中で神が私たちに語りかけることを聞くことで生まれるものです。
ある哲学者は「人間のあらゆる不幸は、ただひとつのことから生じる。それは部屋の中で静かにとどまっていることができないということだ」[3]と言いました。夜の時間は、私たち自身の最も深い部屋、つまり「神と魂との間で極秘な事柄が行われる場所」[4]に入ることを助けてくれます。それは私たちを表面的なものから遠ざけ、「心の奥深くに、神が住まうための内的な空間を作り出」します。「こうして神のことばはわたしたちのうちにとどまります。神への愛がわたしたちの思いと心に根づき、わたしたちの生活を力づけます」[5]。
したがって、この習慣はイエスとともに生きる熱意を育む助けとなります。結局のところ、これが私たちがすべてを売り払って得た宝物なのです(マタイ13・44参照)。心はその孤独を必要とします。それは心を清めるため、様々な束縛から解放する唯一の情熱によって養うためです。この理想は翌日の祈りとミサの中で表現されます。長い間待ち望んできたものが近づくと心は躍ります。同じように、夜の時間に翌日待ち受ける神との〈約束〉への渇望を新たにすることができます。その望みは単なる「気が進む・進まない」といった次元を超えたものです。それは主が私たちに与える恵みであり、私たちの在り方を形作るものです。この時間が必要であると聖ホセマリアが感じたのもそのためです。それは、神が彼の心に置いた、彼の人生の原動力となる理想を養う機会だったのです。帰するところ、それはイエス自身の姿勢と同じです。忙しい一日の後、彼は父と二人きりになることを切望したのでした。
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おそらくイエスは、ナザレの家でその沈黙の時の価値を学んだのでしょう。実際、福音書には聖ヨセフの言葉が一つも記録されていません。彼は聞くことに重きを置いた人でした。そして、その注意深い態度のおかげで、天使を通じて神の声を認識することができました(マタイ1・20-24参照)。マリアは、起こったことすべてを心に深くとどめていました。自分の子の誕生を取り巻いた不思議な出来事も(ルカ2・19参照)、神殿で息子を見つけたとき、彼の答えが理解できなかったことも(ルカ2・51参照)。聖母はこれらすべてを味わい、喜ばしいことや理解できないことを通して神が奏でる旋律に耳を傾けたのです。イエスは30年の隠れた時を経て初めて公の生活を始めました。その30年は仕事と沈黙の時でした。その間について聖ルカは書き記しています:「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2・52)。
[1] 指針、1935年1月9日、169番。
[2] 同、注釈115番。
[3] パスカル『パンセ』139番。
[4] イエスの聖テレジア『霊魂の城』(Las moradas, I, n.14)。
[5] ベネディクト十六世、一般謁見演説、2012年3月7日。