「神は私たちの心より大きい」(一ヨハネ3・20)痛悔と和解(3)

ゆるしの秘跡は、教会の「世界と神を和解させる」という使命の実現において中核的な役割を果たします。

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世界に美しさを取り戻す秘跡

聖アウグスティヌスは「教会とは、神と和解した世界である」[1]と述べました。ですから、神の家族は「世界を神と和解させること」を通して成長していきます。「これこそが、すべての人の偉大な使徒的使命です」[2]。そしてゆるしの秘跡は、この和解の実現において中核的な役割を果たします。この秘跡によって私たちは咎から解放され、罪から距離を置くことができます。無条件に愛してくださる御父の前では何も隠す必要がないと悟ることができます。告解の秘跡は、私たちが自分の弱さ、矛盾、傷と向き合うことを助けます。それらを癒すことのできる唯一の医者のみ前にすべてを提示するのです。聖パウロは神に対する信頼を持つように私たちを励まします。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(二コリント 12・9)。

このような信頼は、同時に痛悔、すなわち、自らの中にある悪に苦しむ心と結びついています。「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」(詩編 51・4-5)。カトリックの伝統は、痛悔には2つの種類があると言います。一つは神への愛から生じるもので、これは三位一体の神──私の人生において最も大切な存在──の愛を拒んだことを悔やむものです。もう一つは間接的に生まれる痛悔で、たとえば「罪の醜さを思う心、あるいは永遠の罰(…)に対する恐れなどから生じるもの」[3]です。前者は「完全な痛悔」と呼ばれ、この痛悔によって、たとえ大罪であっても、「できるだけ早くゆるしの秘跡を受けるという固い決心」[4]があれば、神はその罪をゆるしてくださいます。後者は「不完全な痛悔」と呼ばれますが、これも「神のたまものであり、(…)ゆるしの秘跡においてそのゆるしを得るための心の準備となります」[5]。痛悔の祈り──たとえば一日を通して何度も唱える「イエス様、ごめんなさい」といったような短い祈り──は、心の痛みを呼び覚まし、神のあわれみを一層豊かに受け取り、それを他者に分かち合うことを可能にします。

カトリック教会のカテキズムは、ゆるしの秘跡──通常の生活において大罪から私たちを解放する唯一の場──とともに、小罪のゆるしを受けることができるその他の形を教えてくれます。聖書や教父たちは、たとえば「隣人と和解する努力、悔い改めの涙、隣人の救いへの配慮、聖人たちの執り成し、『多くの罪を覆う』(一ペトロ 4・8)隣人愛の実行などを挙げています」[6]。しかしそれでも教会は、小罪についても、ゆるしの秘跡を受けることを勧め続けています。聖パウロ六世はこう述べました。「頻繁な告解は、今なお、聖性、平和、喜びの特別な源泉であり続けています」[7]。また聖ホセマリアはこう言います。「 小心に​陥らないよう​注意して、​毎週、​必要な​ときは​いつでも、​悔い​改めの​聖なる​秘跡、​神の​ゆる​しの​秘跡に​あずかってください(…)。​すると、​世界の​歓喜を​再発見できる。​世界は​神の​手から​生まれた​汚れなく​美しい​ものですから、​痛悔の​心を​もつことができれば、​世界に​元々の​美しさを​取り戻して​神に​お返しする​ことができるでしょう」[8]

頻繁な告解は、私たちの心を繊細にし、冷淡さや神の愛に抵抗することに慣れてしまうことを防ぎます。ベネディクト十六世は、こう述べたことがあります。「私たちの罪は、多くの場合同じようなものかもしれません。しかし、私たちは自分の家や部屋を、少なくとも毎週一度は掃除します。たとえ、同じような汚れであっても、清潔な空間で生活し、リフレッシュするためにそうするのです。さもないと、汚れは気が付かないうちにたまっていきます。同様のことが霊魂にも言えます。もしまったく告解をしなければ、霊魂は放置されてしまい、やがて自己満足に陥り、もう自己を改善する必要を感じなくなるのです。告解という秘跡においてイエスがくださる霊魂の清めは、より目覚めた良心をもたらし、心を開き、人格的・霊的に成熟する助けとなります」[9]

教皇フランシスコは、「和解の秘跡はキリスト教生活の中心に再び位置づけられる必要がある」[10]と記しています。大きな傷の癒しだけでなく、日々のキリスト者としての歩みにおいても、この秘跡は必要不可欠な味方です。それは、日ごとに私たちが自分をより深く知り、神のあわれみに満ちたみ心に親しむ助けとなるからです。悪へと向かわせる習慣や性向を、すぐにすべて克服することは難しいでしょう。恵みは、私たちの人生とともに歩み、それと一体化されていきます[11]。だからこそ、自分の弱さに対する絶望を生み出すような非現実的な誤った期待を作り出さずに、常にイエスに目を向けていましょう。私たちを癒したいと望み、実際に癒すことのできる方のもとに、何度でも立ち返っていきましょう。なぜなら、「霊的生活とは、​絶えず​始める​こと、​繰り返しやり直す​こと」だからです。「やり直すって?​ そうだ。​痛悔する​度に​(...)あなたは​やり直したことになる。​痛悔する​ごとに、​再び神を​愛し始めるからである」[12]


[1] 聖アウグスティヌス、説教96、8番。

[2] フェルナンド・オカリス、メッセージ、2023年10月21日。

[3] カトリック教会のカテキズム、1453番。

[4] 同、1452番。

[5] 同、1453番。

[6] 同、1434番。

[7] 聖パウロ六世、使徒的勧告「ガウデーテ・イン・ドミノ──喜びの源に立ち返れ──」52番。

[8] 聖ホセマリア『神の朋友』219番。

[9] ベネディクト十六世、カテケージス、2005年10月15日。

[10] フランシスコ、使徒的書簡「あわれみあるかたと、あわれな女」11番。

[11] フランシスコ、使徒的勧告「喜びに喜べ」50番参照。

[12] 聖ホセマリア、鍛384番。