主よ、隠れた罪からわたしを清めてください
「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました、『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」(詩編 32・5)。詩編作者の心には、神がいつも私たちをゆるしてくれるという確信が宿っています。同じ心で私たちも聖なるミサの神秘に近づきます。イエスの十字架と一致し、人類の歴史のおいて行われたすべての悪を愛によって贖う「救いの業」にあずかるため、まずはへりくだって自らの罪を認めます[1]。
自分の罪に気づき、それを認めようとするこの姿勢のことを、ある人は病的なもの、または不必要な重荷を心に負わせるものだと理解します。確かに内的生活の成長を妨げる小心は避けねばなりません。しかし健全な罪意識というものがあり、それは心の翼を広げるために欠かせないものです。責任のあるところに本当の自由があります。そうであってこそ、私が行ったことは本当に「私が」行ったことになるのです。霊的な成長には現実を直視することが欠かせません。たとえ不安や良心の呵責を伴うものであっても、自分の行いをまっすぐ見つめることが必要です。神とともに、自分の思い、言葉、行い、そして怠りに目を向け、神に背き、他者を傷つけ、主と他の人に対して無関心であったこと、自分自身に害を与え、魂の中に悪を育ててしまったことを見つめるのです。なぜなら真理のみが、私たちを本当に自由にするからです(ヨハネ 8・32参照)。ですから、特に自らが生きてきた人生についての真理と向き合うことは真の自由への道です。
自己を見つめるにあたり、私たちは三つの誘惑を避けなければなりません。第一は、表面的な良心の糾明や、内的沈黙を避けることによって、自分の責任を軽視することです。聖霊は、内的静寂という空間において、私たちについての真理を明らかにします。第二は、責任を他人や状況に転嫁することです。そのことにより、自分はいつも被害者であり、また自分は誰にも害を与えていないと思い込んでしまいます。そして第三は、自分のみじめさを受け入れることができない高慢から生じる失望です。神に背いたり、他の人を傷つけたりしたことを悔いるのではなく、自分自身のプライドが傷ついたがゆえにがっかりするのです。
「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し、支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ、わたしは完全になるでしょう」(詩編 19・13-14)。健全な罪の意識の背後にあるのは、「病的に非の打ちどころのない履歴を収集する」[2]ような態度ではありません。そうではなく、自分を神から遠ざけるもの、心の内や周囲に分裂を生み出すもの、愛することや愛されることを妨げるものを「無視したくない」と願う謙遜な心です。私たちが告白するのは、ただの「不完全さ」ではなく、無関心や愛の欠如といった、具体的な言動に現れた心の状態なのです。「主よ、私の愛よ、私の中に、あなたを悲しませるものがなかったでしょうか?」[3]このような姿勢が、自分についての真実を落ち着いて見つめるための光をもたらします。そして、その光が私たちを霊魂の奥底へと導いてくれます。そこにはすでに、神の国が宿っており(ルカ 17・21参照)、それが私たちの中で道を切り開こうとしているのです。神なしには何もできないということを忘れない限り、健全な罪の意識は、私たちがさらに神のものとなるための助けであり、「連続的な改心」[4]の推進力となります。
[1] ミサの式次第、回心の祈り参照。
[2] 聖ホセマリア『神の朋友』75番参照。
[3] 聖ホセマリア『鍛』494番。
[4] 聖ホセマリア『神の朋友』57番。