「聖霊を悲しませてはいけません」なまぬるさ(2)

なまぬるさを脱ぎ捨て、鷲のように翼を張って高く上るための具体的なヒントを提供します(シリーズ:戦い、親しさ、使命 [4])。

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なまぬるさの予防と処方箋

「狐たちをつかまえてください ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから」(雅歌2・15)。なまぬるさは、神に対する細やかさを失ったとき、信頼が無頓着へと変わったときに、霊魂に根を下ろします。確かに、私たちは神に非の打ち所がないものを捧げることはできないかもしれません。しかし、神に対して繊細であり、気遣いを持つことはできます。そして、自分が神をぞんざいに扱ってしまったことや、愛が足りなかったことに気づいたときの痛悔もその細やかさの一部です。そのため、小さなことに注意を払い、愛に抵抗する自分に気づいて痛悔の心を呼び覚ますことが大切です。たとえば、活動にばかり目が行き祈りの時間を省略したり遅らせること、自分のことを優先して夕食に遅れること、怠惰のために奉仕を先延ばしにすること、不機嫌な顔を人に向けたりすることなどについてです。こうしたことにおいても痛悔することが、魂に再び明かりを灯します。「そう、また新たにはじめるのです。毎日、毎時間、そして痛悔するたびに、私はまた新たにはじめます。きっとあなたもそうでしょう」[1]

先に、自己を糾明する態度の重要性について触れました。これは、神と自分自身に対して正直になることを前提としています[2]。神へ向かう道において私たちに同伴してくれる人に対する誠実さ・素直さはそこから生じます。この素直さは、陶工の手中にある粘土[3]のような態度で、聖霊が私たちのうちにキリストを形作ることを容易にし、私たちの愛を生き生きと保ちます。「誠実さとなまぬるさは相容れません。ですから、誠実であるならば、戦う力を得て、なまぬるさの危険な道から抜け出すことができます」[4]

神への愛を若々しく保ち、新たにするには、他者との関わりのなかでその愛を生きることが大切です。聖ホセマリアは「炭火が燃え上がらないとき、それは冷えてきている証拠であり、すでにほとんどが灰になってしまっているということである」[5]と語っています。確かに、他の人が神に近づくことや、私たちの道を歩むことへの望みが燃え上がらないなら、それは私たち自身が眠り込んでしまったというしるしかもしれません。目覚めるためには他者に心を向けることが効果的です:「自分のことは忘れてしまいなさい。あなたの兄弟のため、人々のため、教会のためだけを考えて生きる、一言でいうと、神のために生きることこそがあなたの野心でなければならない」[6]

また、寛大な心を持つことは、なまぬるさに対する特効薬です。私たちの人生における最良のもの、最も貴重なものを主に捧げるのです。聖ヨハネは、イエスがベタニアに滞在していたとき、「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12・3)と記しています。私たちの最高の香油、最も大切な宝、最良の時間は主のためにあるべきです。逆に、ユダのように「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハネ12・5)と考えるようになったら、危険な兆候です。ユダにとって、イエスのためにお金、労力、時間を費やすことは〈割に合わない商売〉でした。実際、ユダは後にイエスを奴隷の値段で売ってしまいます(マタイ26・15参照)。小さな、あるいはそれほど小さくない犠牲や克己は、私たちを内側から照らし、なまぬるさを遠ざけます。それらは、私たちの心が、すべての弱さを抱えながらも、大きな愛を持てることを思い出させてくれます。「主よ、私を人間的な喜びに対しては雪のように、御手のもとでは陶土のように、愛においては炎のようにしてください」[7]

これらすべての処方箋は、聖パウロの次の言葉に要約できます。「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソ4・30)。聖霊は私たちのうちにキリストを形作るために休みなく尽力しています。しかしその業を実現するために、私たちのその霊感に対する俊敏で素直な応答を必要とします。聖霊の導きに従えば、計算や妥協といったなまぬるさを脱ぎ捨て、鷲のように翼を張って高く高く上ることができます[8]。そして人生は使命感を得、冒険に満ちたものになります。「キリストによって生きることを選んだ者は、自分のいる場所を自ら決めるのではなく、派遣されたところへと向かいます。呼びかけに応える心構えを持ち、自分の時間を持ちません。住む家は自分のものではなく、教会と世界が彼の使命が展開される場所となります。彼の宝は、人生の中心に主を置くことにあり、それ以外のものを求めません(…)。主と共に満ち足りており、凡庸な人生に甘んじることなく、証人となり他者と出会う強い望みを持ち、リスクをいとわず、出かけていき、決められた道をただ進むのではなく、聖霊の示す道に心を開き、それに忠実です。〈なんとなく〉生きるのではなく、福音を伝えることに喜びを見出します」[9]

* * *

私たちの母である聖母の生涯には、なまぬるさの影は微塵もありません。燃える柴が神の現存の象徴であるなら、その柴は、神の愛の炎である聖霊の現存のうちで輝きながらも燃え尽きることのないマリアを表します。「あなたはモーセに示された柴のように燃え立っていたが、焦がされなかった。炎と一体になりながら、尽きなかった(…)。炎と一体になることにより、その炎から再び力を得、常に燃え続けていた」[10]。私たちも聖母のように、神の愛でいつも燃えていたいと望みます。「聖母を愛すれば、その愛は息吹となり、あなたの微温という燃え止しに隠れた、熾火のような諸徳を、赤々とした炎に燃え上がらせてくれるだろう」[11]


[1] 聖ホセマリア『主との対話のうちに』12番。

[2] 聖ホセマリア、手紙1、34番参照。

[3] エレミヤ18・6参照。

[4] 聖ホセマリア、1941年12月8日指針、注釈122。

[5] 聖ホセマリア(San Josemaría, palabras recogidas en Crónica, 1973, pp. 640-641 [AGP, biblioteca, P01]).

[6] 聖ホセマリア『拓』630。

[7] E. デ・チャンポルシン(E. de Champourcin, Presencia a oscuras, Rialp, Madrid, 1952, p. 21)。

[8] イザヤ40・31参照。

[9] フランシスコ、説教、2016年7月30日。

[10] ローザンヌの聖アマデオ、聖母についての説教( San Amadeo de Lausanne, Homilías marianas [Sources Chétiennes, 72], III, 313-317)参照。

[11] 聖ホセマリア『道』326番。

    José Brage