シリーズ: 戦い、親しさ、使命 (3)
すべてを神と共に(IV)
スポーツのように
「正に、内的生活はこれに尽きる。すなわち、始めること、そして、再び始めること」[1]。このように聖ホセマリアは言います。それでは具体的に何から手をつけたら良いのでしょうか。たとえば頻繁に現れる自分の欠点にその手がかりがあります。それは自分の気質・性格と密接に関連していることが多いからです。一例として、ある人が激しい気質の持ち主の場合、それが粗野な態度としてしばしば表れるかもしれません。または、やさしい性格である場合、その人の主な欠点は柔弱さとして表れるかもしれません。戦いの焦点は、第一に神への愛に反するもの、つまり大罪を排斥することから始まり、その次に心が神と隣人に開かれることを妨げるもの、すなわち小罪をしりぞけることに当てられます。そして最後に愛の欠如や凡庸さを取り除くことにフォーカスを当てます。人が生涯をかけて取り組むこのプロジェクトをフルーエの聖ニコラスは次のように祈りとして表現しています:「主よ、私の神よ、私をあなたから引き離すすべてのものを取り除いてください。主よ、私の神よ、私をあなたに近づけるすべてのものを私に与えてください。主よ、私の神よ、私を私自身から解放し、私の全身全霊をあなたに捧げさせてください」[2]。
聖ホセマリアは霊的戦いをスポーツと比較することを好みました:「修徳のための戦いとは、否定的なものでも嫌なものでもなく、喜びに満ちた肯定的な戦いである。スポーツなのだ」[3]。スポーツには努力が伴いますが、それは楽しむ空間を生み出します。他者との交流、新しい経験、自己超越の喜びなどです。同じように、いくらかのトレーニングによって、霊的戦いにおいて神と共に過ごすことを〈楽しむ〉ことができるようになります。このようにして、客観的な困難において、障害だけでなく神において新しい命を成長させる機会を見出すことができます。困難を挑戦として受け入れることにより、それは単なる「不愉快なもの」ではなくなります。また、周囲の人、特にあまり相性が良くない人への見方も変わるでしょう:「あの人には我慢ならないと言ってはいけない。あの人は私を聖化してくれると考えなさい」[4]。
スポーツのトレーニングにおいては継続性が鍵です。一日で大きな勝利は実現しません。時に何度もチャレンジする必要があります。「良いスポーツ選手は諦めない。長期間にわたりトレーニングに打ち込み、準備をする。高跳びの選手ならば、何度も何度も挑戦する」[5]。粘り強さと忍耐を通して向き合う一つ一つの小さな一歩が大きな成功をもたらします。そういった意味で、通常継続的に向き合う小さく具体的な決心のほうが、実行を伴わない大きな決心よりも効果的です。それに加え、霊的戦いにおいては時間がかかることを考慮にいれることが重要です。始めること、そして再び始めること、謙遜と創造性をもって何度も新たに目標を立てること。神への愛の応答は人生という時間をかけて目立たない形で実現していきます。
スポーツと同様に、霊的生活において敗北を経験することは〈ゲーム〉の一部です。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15・7)。ですから主は私たちの一つ一つの小さな〈再スタート〉を喜んでくれます。まだ長い道程が残っていると知っていても、何か勝利を経験したときは立ち止まりそれを喜び味わいましょう。一歩の前進は神に感謝し新たな力を得るチャンスです。また戦いにおいて私たちは一人ではないことを思い出すことは大切です。アスリートのように、私たちの周囲には助けてくれる人たちがいます。神が彼らをそこに〈置かれた〉のです。彼らが私たちを鍛え成長させてくれます。信仰における兄弟姉妹、天国の聖人たち、守護の天使そして聖母が私たちを支えています。
[1] 聖ホセマリア『道』292番。
[2] 聖ヨハネ・パウロ2世、聖ニコラスの墓の前での祈り、1984年6月14日。
[3] 聖ホセマリア『鍛』169番。
[4] 聖ホセマリア『道』174番。
[5] 聖ホセマリア『主との対話』32番。