すべてを神と共に(III)戦うことは愛すること

人生という旅路において最終的に価値を持つのは愛です。そういった意味で、戦うことは〈勝利すること〉以上に大切です。戦うことは愛することだからです。「祈りのうちに主と話し合っているとき、戦いとは〈愛〉の同義語であることが以前にも増してはっきりと分かった」(『拓』158番)。

シリーズ: 戦い、親しさ、使命 (3)

すべてを神と共に(III)

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戦うことは愛すること

「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(一ヨハネ3・18)。行いによって愛の言葉や約束が反故にされたとき、本当に愛されていると感じる人はいません。イエスはペトロに問いかけました:「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ21・16)。私たちの一つひとつの行動はこの問いかけに対する応答です。オプス・デイ属人区長は言います:「主のこの問いかけに対する、独創性ゆたかな態度と常に受諾する心構えを伴った自由な応答、これがキリスト者の生き方です」[1]。自己中心的な心を乗り越える度に、自己主張ではなく謙遜を選ぶ度に、私たちは言葉ではなく態度と行いによって神への愛を表しているのです。

聖ホセマリアはあるとき、年の終わりに言いました:「最後の瞬間まで愛によって戦うこと、これが私たちの地上における運命である」[2]。愛によって戦うとは、戦いの外側から愛の動機を付け加えることではありません。「祈りのうちに主と話し合っているとき、戦いとは〈愛〉の同義語であることが以前にも増してはっきりと分かった」[3]。霊的な戦いは〈勝利すること〉以上に大切です。なぜなら「戦いを続ける限り、内的生活は大丈夫だ。主への愛を毎日の小さな行いにあらわす決意、主はそれをお望みである」[4]からです。戦いはその目的によって愛に変化します。「なぜ戦うのか」「誰のために戦うのか」ということを心がけることが大切です。これらの問いかけは戦いに愛という形を与え、戦いを愛に基づいたものとします。

聖人たちの伝記を読むと、霊的戦いのことを「己の限界まで努力する英雄による戦い」、または「凡人には乗り越えることが困難な使命と向き合うこと」であるかのように想像してしまう恐れがあります。聖人とは「凡人が真似できないような高度な業を実現する聖性の〈曲芸師〉」[5]のように思えてしまいます。しかし、このような理解は聖人の〈秘訣〉の本質を捉えていません。人生という旅路において最終的に価値を持つのは愛、神の賜物である愛徳です。殉教者についてでさえも同じことが言えます。「殉教の偉大さは剛毅による行いに由来するものではありません。そうではなく第一に素晴らしい愛徳による英雄的な行いに由来します。確かに教会の最初の三世紀は勇気と英雄的な剛毅の時代でした。しかしそれ以上に燃え上がる神の愛の時代だったのです」[6]

ときに、人は安心を過度に求める心から霊的な戦いや進歩を、体を鍛えるスポーツマンのように、量的な観点から計測しようとします。確かに、自己改善するための決心を立て、様々な点においてこれまでの限界を超越することは重要です。しかし、これらは霊的な進歩を絶対保証してくれる「しるし」ではありません。聖ホセマリアが言うように、聖性とは「日毎により難しいことを行うことにではなく、日毎により愛を込めて行うこと」[7]にあります。霊的な実りは、難しいことを行うことによってではなく、私たちに対する神の愛に応えることによってもたらされます。聖性とは「自力で偉大なことを為し遂げることではありません。そうではなく、その人の人生において神の業が実現することです」。聖人は「神が自身のうちに働かれるよう、自らを神に委ねました。それゆえ、そのような事が実現するのです」[8]。全ては洗礼の恵みと新しい命を与えてくださった神の無償の愛を出発点とします。聖性とは「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」(ローマ9・16)。

「あらゆる聖化の業は神を出発点とし、その業は神が始められたもので、神自身がその業を完成されます。このことを認識することによって私たちは霊的戦いを理解するための正しい枠組みを持つことができます。私たちは神の愛に値するものとなるために、神の御前において〈点数を稼ぐ〉のではありません。主は何が起ころうとも私たちに絶え間なくご自分を与え続けてくださいます。「わたしたちは自身の働きや努力によってではなく、先に働いてくださる主の恵みによって義とされるということを教会は繰り返し教えてきました(…)。神の友愛はわたしたちをはるかに超えたもので、わたしたちが自分の行為でもってそれを買い取ることはできず、それはただ神の先んじる愛のたまものです(…)。最上のおきてである愛と同様に、この真理はわたしたちの生き方に刻まれるべきものです。それは福音の核心から得られたものであり、わたしたちはそれを知的に理解するだけでなく、感染する喜びへと変えていくように呼ばれているからです」[9]


[1] フェルナンド・オカリス、司牧書簡、2018年1月9日、5番。

[2] 聖ホセマリア『主との対話』83番。

[3] 『拓』158番。

[4] 『十字架の道行』第三留、黙想の栞2番。

[5] ヨセフ・ラッツィンガー『神の働くままに』オッセルバトーレ・ロマーノ、2002年10月6日。

[6] R. ガリグー・ラグランジュ『内的生活の3時期』(R. Garrigou-Lagrange, Las tres edades de la vida interior, Tomo I, p. 167)。

[7] 聖ホセマリア、説教メモ(San Josemaría, Apuntes de la predicación (AGP, P10, n. 25), cit. por E. Burkhart y J. López, Vida Cotidiana y santidad en la enseñanza de san Josemaría, Rialp, Madrid 2013, vol. II, p. 295)。

[8] ヨセフ・ラッツィンガー『神の働くままに』オッセルバトーレ・ロマーノ、2002年10月6日。

[9] フランシスコ、使徒的勧告「喜びに喜べ」、52、54、55番。