フェルナンド・オカリス師の経歴

オプス・デイの属人区長は、オプス・デイの使命である聖性への普遍的召命という教えを、所属する信者が使徒職を通して多くの人々に伝えるよう指導します。

属人区長の書簡

属人区長の手紙(2026年10月16日)| 観想について

この司牧書簡において、フェルナンド・オカリス師は、オプス・デイの100周年に向けた準備として、イエスの生涯と聖ホセマリアの模範に照らしながら、世界のただ中で観想的に生きるという召命について、さらに深く理解するよう招きます。

目次

観想についての書簡(1-2番)イエスと御父との絶えざる対話(3番) 聖ホセマリアの生涯における観想(4-5番)せわしなく動く世界の中で(6-8番)「主よ、あなたの顔を尋ね求めます」(9番)すべての中に神を見る(10番)足を地につけたまま、天を見つめる(11-12番)時は短い(13番)観想は神からの賜物(14-16番)心の清い人々は、幸いである(17-18番)他の人々の中に神を見る(19番)愛されている子どもとして(20-21番)魂への渇きをもって(22-24番)

最愛の子どもたち、イエスが皆さんを守ってくださいますように!

1. 今年3月のメッセージで、わたしはオプス・デイ100周年に向けた準備として、今年10月から来年10月までの間、「世界のただ中で観想的に生きる(観想者となる)」という召命について、さらに理解を深めるよう提案しました。「これは、創立者のパドレがオプス・デイの精神の多くの要素を要約して表した言葉です」[1]。

わたしたちに固有の召命は、日々の普通の状況のただ中で観想的に生きたいと望むよう、わたしたちを導きます。オプス・デイは、ある宗教上の義務を果たすための道ではありません。それだけでも大きなことですが、同時に、それだけでは十分とはいえません。わたしたちの精神は、はるか遠くを目指しています。神の愛を通して世界を見つめ、愛し、神のまなざしにあずかるよう導くのです。これは大きな目標への招きです。そのために自分の力だけではなく、何よりも神の助けを頼りにします。ですから、わたしたちの召命を深く生きたいという大きな望みをもってオプス・デイの100周年に備える中で、次のように自らに問いかけることができるでしょう。わたしは、観想への召命を受けていると考えているだろうか。自分の欠点や困難にもかかわらず、神はわたしが世界のただ中で観想的に生きることを望んでおられると知っているだろうか。神は、歩みの一歩一歩に、起こる一つ一つの出来事に、各瞬間瞬間において、ご自身を見いだすようわたしを招いておられることを自覚しているだろうか。

2. 観想とは何かを理解するために、教会の神学的伝承は、聖トマス・アクィナスによる古典的な定義を示しています。観想とは、simplex intuitus veritatis ex caritate procedens、すなわち、愛から生まれる、真理への単純で直観的なまなざしです[2]。それは、純粋に知的な努力でも、抽象的な思索でもありません。観想とは、愛情に満ちたまなざし、愛から生まれる「見ること」です。ベネディクト十六世は、次のように説明しています。「キリスト者の計画は──それはよいサマリア人の計画であり、イエスの計画でもあります──『見ることのできる心』です。それはどこで愛が必要とされているかを見、そこから行動する心です」[3]。心が神への愛で満たされると、知性と感情は、一つの素朴な「見る」という行為のうちに結ばれます。愛するものを見つめ、そのまなざしによって、観想する人自身が少しずつ変えられていくのです。

イエスと御父との絶えざる対話

3. イエス・キリストは、わたしたちにとって、単に見倣うべき模範以上の方です。イエスはわたしたちのいのちであり、わたしたちのうちでご自身のいのちを生きることを望んでおられます。 主は地上で過ごされた間、さまざまな状況や場所において、御父と絶えず語り合っておられたことを示してくださいました。例えば、ヨルダン川で洗礼を受けられたときに祈る姿(ルカ3・21参照)、御父と静かに過ごすために人里離れた場所を求める姿(マルコ1・35、ルカ5・16、9・18参照)、人里離れた山へ向かわれる姿(マタイ14・23、マルコ6・46、ルカ6・12、9・28-29参照)が見られます。そして受難においても、オリーブの園で苦悶のうちに祈られたときから(マタイ26・36-44参照)、十字架上に至るまで(ルカ23・34・46参照)、御父と語り合っておられる姿を見ることができます。

しかし、イエスの祈りがどのような時に、どのような形でなされたかという具体的な記述を超えて[4]、実際にはイエスの全生涯が御父との絶え間ない対話、すなわち、行いやまなざし、仕事や休息によっても織りなされる語らいであることを、わたしたちは知っています。「イエスの祈りはその生涯を貫いています。それは隠れた水路のように、イエスの生涯と人とのかかわりと行いを潤します。そして、父である神の愛の計画に従う完全な自己奉献へとますます強くイエスを導きます」[5]。

聖ホセマリアは、キリストがナザレで30年間の隠れた生活において、観想的に生きておられたことに、とりわけ目を向けていました。イエス、マリア、ヨセフのこの生活は観想的であると同時に、何一つ特別なことのない、ごく普通の生活でした。「イエスは​一人の​人間と​して​成長し生活しながら、​人間の​生活や​日々の​平凡な​出来事に​神的な​意味が​ある​ことを​示しておられます」と聖ホセマリアは語っていました。「​隠れた​生活と​言っても、​私たちに​とっては​太陽のような​光を​与える​ご生活です。(…)​キリストの​隠れた​ご生活に​よって、わたしたちの​日々は​照らされ、​日常生活の​真の​展望が​明らかに​されます」[6]。

聖ホセマリアの生涯における観想

4. 「市井の観想者(contemplativo itinerante)」──これは、聖ホセマリアの英雄的徳に関する教令が聖ホセマリアを表現した言葉です。「その人物像の最も特徴的な面は、活動家としての並外れた資質だけに見いだされるのではなく、祈りの生活と、絶えず神との一致を経験するその生活にも見いだされる。この経験によって、彼は『市井の観想者』となった」[7]と、この文書は述べています聖ホセマリアの子であるわたしたちも、またオプス・デイに近づくすべての人も、まさにこのことへと召されています。市井の観想者となり、町の道々や生活の喧騒のただ中で神との対話のうちに生きること、どこにいても──家庭でも、仕事でも、日々の生活環境の中でも──いつも神とともにいることへと召されているのです。

「イエスよ、私の注意散漫が、逆向きのものとなりますように。あなたと語り合うときに世間のことを思い出すのではなく、この世の事柄に携わるときに、あなたを思い出すことができますように」[8]と、聖ホセマリアは祈っていました。創立者は、起こるすべてのことの背後に神を見いだそうとし、一見すると最も『世俗的』に思える事柄のただ中におられる神の存在を読み取ろうとしていました。そして、一見すると取るに足りない、あるいは些細に思える行いの中にも、詩を見いだそうとしていました[9]。

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