聖ホセマリアの手紙6番(オプス・デイへの召命の主な特徴について)

オプス・デイへの召命の特徴と、教会に奉仕する福音宣教の使命について。また、Sincerus est[誠実である]というラテン語の冒頭句によって名付けられてもいる手紙で、1940年3月11日の日付が記され、1966年11月22日に送られているが、すでに1963年2月に印刷されていたことが知られている。

ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲル

手紙6番(1940年3月11日)

(『書簡集II』に収録)

ルイス・カノ編


目 次

この版について

この手紙の主なテーマ

手紙

キリストに協力することへの呼びかけ

犠牲における喜び

神との親子関係

この世のただ中で世の光となる

仲介者キリストとの一致

世俗生活の現実であり、聖性の手段である仕事

この世のただ中にあって観想的であること

神への希望と信頼:喜び

この世において聖性を求める

聖性への召命はすべての人のためのもの

光の源である愛

聖霊の働き

魂の渇き

オプス・デイへの召命はすべての信者に向けられている

神の呼びかけに応える自由

わたしたちの使徒職は偉大なカテケージス

キリスト教の光

自然さと、個人としてまた集団としての謙遜

平和と一致を促進する

わたしたちの精神はすべての人を尊重するよう促す

友情は信頼の雰囲気を生み出す

オプス・デイの生き方から法的な道が生まれる


聖書からの引用はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(2015年版)を使用しました。ただし、文脈に応じて訳文を調整したところ、あるいは原典で引用されているテキストに準じて訳しなおしたところがあります。

本文中イタリックで記されている箇所は太字で表しています。ただし、それが聖書などからの引用である場合、また文脈から考えて適当とみなした場合には、太字にせず、「 」(カギカッコ)でくくりました。

なお、本文中のラテン語テキストはそのままにし、訳を[ ]内に入れて付け加えました。


この版について

この版に収められているのは、聖ホセマリアの一通の手紙(1940年3月11日の日付が記されている)で、そこではオプス・デイの召命と使命のさまざまな面について、とくにオプス・デイの世俗性について詳しく述べられている。手紙の目的は、彼が説く精神に特有のものはなにか、そしてそれが福音に根ざしたものであること、また初代キリスト者の生活に似たものであることを示しながら、その帰結として、教会における他の召命や道とは異なっていることを明らかにしている。何よりも彼は、オプス・デイにおける召命の世俗性を強調しつつ、あるところではキリスト者としての召命のさまざまな形態と共通する特徴について語りながら、またあるところでは彼が創立したオプス・デイにおいて、独自の特徴がどのように生きられるのかを述べている。

この手紙は、2021年にRIALP出版から刊行された『書簡集II』の中に「手紙6番」として収録されている。聖ホセマリアはこれらの手紙に題名をつけなかった。この版の題名は、校訂版の編者がつけたものである。

この手紙は、聖ホセマリア独特の文学ジャンルのひとつをなしている。これは論文ではない。その文体は、オプス・デイのすべての時代のメンバーたちを相手にした親しい語り合いに近く、そのトーンは、オプス・デイのメンバーたちとの団らんのとき、オプス・デイの精神や歴史、伝統について直接語りかけるときの口調に近いものである。


この手紙の主なテーマ

この手紙は、オプス・デイの精神のさまざまな面を取り上げているが、創立者はその精神を十全に生きるように勧めながら、それを真に単純に示そうとしている。ラテン語の冒頭句"Sincerus est"[誠実である]という言葉はそこに由来する。

いくつかの手紙にもあるように、聖ホセマリアは、厳密な枠組みに従って論を展開するのではなく、あるテーマから別のテーマへと移ったり、ときにはすでに取り上げたことに戻したりして、この巻の別のある手紙で説明しているように、「一見無秩序」に話を進めている。

しかしながら、一貫した流れがある。手紙の目的は、彼が説くオプス・デイの精神に特有のものはなにか、そしてそれが福音に根ざしたものであること、また初代キリスト者の生活に似たものであることを示しながら、その帰結として、教会における他の召命や道とは異なっていることを明らかにしている。何よりも彼は、オプス・デイにおける召命の世俗性を強調しつつ、あるところではキリスト者としての召命のさまざまな形態と共通する特徴について語りながら、またあるところでは彼が創立したオプス・デイにおいて、独自の特徴がどのように生きられるのかを述べている。

たとえば、自分は神の子であると自覚することは、すべてのキリスト者にとって本質的なことであるとしても、聖ホセマリアはそのことをさらに強調し、オプス・デイにおける霊的生活の基盤であると指摘する(2a)。オプス・デイの使命は教会の使命とは同じであるとも言えるだろう。なぜならそれは、キリストにおいて世界を立て直し(2c)、神の光で人々を照らすことであるから(3b-3c)。しかし、オプス・デイの場合、この使命は、とくに世俗での仕事に専念することによって遂行される(9a-9b)。オプス・デイのメンバーは、他の普通のキリスト信者との違いを示すことなく(9a-10c)、人間の活動の頂点にキリストを置くことを熱望しつつ(12a-12c)、仕事に特別な注意を払い、仕事を聖化の手段とし(13a-13c)、友情と理解の雰囲気の内に、個人対個人の使徒職を実践するのである(14a-14b, 54a-55c, 64a-69b, 70a-72b)。こうしたことすべては、「生活の一致」(14c-16b)― 首尾一貫性 ― へと向かう観想生活によって支えられ、独特の自由な精神によって味付けられるのである(37c)。

聖ホセマリアは、さまざまなところで、オプス・デイが歩む道で出会う矛盾や困難について、また、彼が単純で透明な精神と捉えていることを理解しなかった人々について、語っている(17c-20d, 43a-45b)。とくに、秘密主義という非難を退けている(56a-60b)。

彼の説明の背景には、キリストとの一体化という展望と(11a-11d)、福音を全人類にもたらすようにとの呼びかけが見て取れる。彼にとって、この福音宣教の任務は、理解に満ちた友情を通じて実現され、すべての人々の一致を促し、人を好意的に受け入れる寛容を実践することにある(54a-55c, 64a-69b, 70a-71c)。こうしたことすべては、よき模範を示しながら(51a-53c)、聞き手の心に受け入れられるよう配慮しながらキリスト教の教えを説くこと(47a-48c)によって行われるのである。

聖ホセマリアがオプス・デイにおいて特に重要視している他の美徳や特徴としては、謙遜(4a-4c)、基本的なことにおける一致と意見の多様性(27a-27d)、清貧(28a-28b)、喜びと神への感謝(29a-29c)、そして誠実さ(61a-61c)が挙げられる。また、彼が説く精神を、その特異性を適切に反映する法的形式に適合させる必要性についても言及している(73a-75c)。


手紙6番

1 オプス・デイの精神は単純かつ率直で、真正のものです。それは聖書に基づいています。そして聖書は、神からの霊感を受けて書かれた書物 ― 限りなく単純な方であり、ご自分のことを真の神[1]であり、真実な方[2]、真理そのもの[3]であると語られる神からの霊感を受けて書かれた書物なのです。

今日わたしは、わたしたちの明快かつ誠実な精神についていくつかの点を指摘し、その特徴について述べたいと思います。わたしの子どもたち、主はわたしの内に、あなたたちに語りかけたいという熱い望みを燃え上がらせ、使徒パウロがガラテヤの信徒に語った美しい言葉をわたしに感じさせてくださるのです ― filioli mei, quos iterum parturio donec formetur Christus in vobis[わたしの子らよ、キリストがあなたたちの内に形づくられるまで、再びわたしは産みの苦しみを味わっているのです][4]。わたしの子どもたち、キリストがあなたたちの内に形づくられるまで、再びわたしは産みの苦しみを味わっているのです。

わたしがあなたたちに書いていることすべてを黙想し、忠実に生きなさい。そうすれば、初代キリスト者たちについて言われたことが、あなたたちについても言われるようになるでしょう。「彼らはみな、自分たちのなすべきことを本当に学んだ。彼らはそれを学んだだけでなく、全身全霊を傾けてそれを実践した。町や広場だけでなく、山の頂上でさえも、至るところで」[5] ― そう、至ることろで。

2 オプス・デイの精神は、わたしたちが神の子であることを深く感じさせます ― carissimi, nunc filii Dei sumus[愛する者たち、わたしたちは今すでに神の子なのです][6]。愛する子どもたち、わたしたちは今や神の子なのです。この幸いなる真理は、わたしたちの霊的生活全体の基礎であり、わたしたちの内的な闘いと使徒的な活動を希望で満たし、わたしたちに、子どものように信頼に満ちた素朴さで、父である神を知り、付き合い、愛することを教えてくれるのです。さらに、わたしたちが神の子であるからこそ、この現実は、創造主である父なる神の御手から生まれたすべてのものを、愛と称賛をもって観想させるのです。

わたしの子どもたち、世界は、主が造られたものすべては善いものです。聖書は教えています、神が天地創造の驚くべきわざを完成されたとき、すなわち天と地と万物を完成されたとき[7]、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。それは極めて善かった」[8]と。

アダムの罪がこの神の創造の調和を壊しました。しかし、時が満ちると、父なる神は御独り子をこの世に送り、平和を回復させたのです。人を罪から贖い、adoptionem filiorum reciperemusわたしたちが子としての身分を受け[9] ― わたしたちが神の子としての身分を受け、神との親しい交わりに与ることができるようにしてくださいました。そしてこの新しい人、神の子という新しい枝[10]によって、全被造物を無秩序から解放し、キリストの内に万物を回復させ[11]、キリストによって神と和解させたのです[12]

キリストに協力することへの呼びかけ

わたしの子どもたち、わたしたちはそのために呼ばれたのです。それがわたしたちの使徒職、独自の霊性と修徳精神を支えとし、キリストとその教会の唯一の使命に見事に組み入れられた使徒職であるべきなのです。

主はわたしたちに、神に愛された子として、神に倣うようにと呼びかけておられます ― estote ergo imitatores Dei, sicut filii carissimi[ですから、愛された子として、神に倣う者となりなさい][13] ― 愛された子として、神に倣う者となりなさい、謙遜に、熱意を込めて、神のご計画に協力し、壊れたものを一つに合わせ、失われたものを救い、人間がかき乱したものを整え、迷えるものをその目的地へと導き、そうやって全被造物を神との一致へと回復させるのです。

3 聖ヨハネにならって、あなたたちに繰り返し言います ― videte qualem caritatem dedit nobis Pater, ut filii Dei nominemur et simus[御父がどれほどわたしたちを愛しておられるかを考えなさい。わたしたちは神の子と呼ばれるほどで、事実、そのとおりです][14]。神はわたしたちをお呼びになりました、わたしたちは神の子です。それゆえ、肉となられた御言葉[15]であり、in ipso vita erat, et vita erat lux hominum「彼の内に命があり、命は人間の光であった」[16]、彼の内に命があり、命は人間の光であったと言われているお方であるイエス・キリストの兄弟なのです。

光の子、光の兄弟、それがわたしたちです。人々が歩む地上の道を照らすことができる唯一の炎の担い手、闇も薄明も影も知ることのない唯一の光の担い手なのです[17]

Et lux in tenebris lucet, et tenebrae eam non comprehenderunt.[光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった][18]。そして、この光は闇の中で輝きますが、闇はそれを受け入れませんでした。主はその輝きを、そのいつくしみの命であり温もりである光を、人類に惜しみなく注ぎ続けておられます。神は愛だからです[19]。そして主は、神の光という火でわたしたちの霊魂を照らし満たしてくださってから[20]、わたしたちをお使いになるのです、人々の霊魂を照らす松明として、すべての人に命をもたらすものとなるために。

わたしの娘たち、息子たち、多くの魂が暗闇の中にとどまることなく、永遠の命に至る道を歩むことができるかどうかは、部分的にはわたしたちにかかっているのです。ですから、主がわたしたちに無償で与えてくださった召命が提供する広大なパノラマを前にして、また使徒ヨハネの言葉が心に浮かんでくるのです、多くの人に繰り返し伝えるべき言葉が。「わたしたちが見たもの、聞いたものをあなたたちにも告げ知らせるのは、あなたたちもわたしたちと交わりをもつようになるため、わたしたちが御父とその御子イエス・キリストとの交わりとなるため……、あなたたちが喜びのうちにあり、あなたたちの喜びが満ち溢れるようになるためです」[21]

4 わたしたちは、神から受けたこの召命に対して、しばしば神に感謝を捧げるべきです。この感謝が、わたしたち一人ひとりの魂において、主の限りないいつくしみによってもたらされたこの光の最初の帰結でなければならない謙遜と密接に結びついた、本当に深いものでありますように ― quid autem habes quod non accepisti ?[あなたが持っているもので、受けなかったものが何かあるでしょうか?][22]。あなたが持っているもので、神から受けなかったものが何かあるでしょうか?

しかし、それだけではありません ― si dixerimus quoniam peccatum non habemus, ipsi nos seducimus, et veritas in nobis non est[もしわたしたちには罪がないと言うなら、わたしたちは自分を欺いており、真理はわたしたちの内にありません][23]、もしわたしたちには罪がないと言うなら、わたしたちは自分を欺いており、わたしたちの内に真理はありません。反対に、もしわたしたちが謙遜で誠実であるならば、人間の弱さに固有のみじめさや、起こりうる困難は、神の光と愛がわたしたちの内に宿ることに対する障害には決してならないでしょう。そのようにして初めて、わたしたちは忠実な光の子として、神の絶え間ないいつくしみの対象として、また神の御心の効果的な道具として行動することができるのです。

この謙遜は、わたしたちの魂の内に、そしてわたしたちの周囲に、大きな信頼を育み、伝えるでしょう。「わたしたちには御父のもとに弁護者であり正しい方であるイエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪のために、いや、わたしたちの罪のためばかりでなく、全世界の罪のためにささげられた贖いの供え物です」[24]

だから、わたしの子どもたち、謙遜と信頼です、神がわたしたちに指し示された道にわたしたちのまなざしを向け、それを正しく理解し、忠実に従うのです。そのように忠実であるなら、忠実に完全に自分を捧げるなら、わたしたちにはいつも確信が与えられるのです、わたしたちは本当にイエス・キリストを見出したのだ、わたしたちは御父の御心を果たしているのだ、わたしたちが受けた召命に、わたしたちは子として真摯に応えているのだという確信が。

聖パウロの言葉を聞きましょう。「信仰によって、あなたたちの心の内にキリストが住まわれますように。あなたたちが愛に根ざし、愛に土台を据え、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものであるかを、聖なる人々とともに理解しますように」[25]。わたしたちは、キリストと共に生きるというこの神秘を、そのすべての次元において知るでしょう。

犠牲における喜び

5 神の御業、オプス・デイへの召命が求める生活の一致には、犠牲の精神と献身が必要であることを忘れてはなりません。わたしたちは神の道を歩んでいるのですから、イエス・キリストの足跡をたどらねばなりません、わたしたち自身の十字架、聖なる十字架を担いながら! そして、わたしたちの主である神は期待しておられるのです、わたしたちが寛大にこれを行い、犠牲を通じて御業の実現に協力することに幸せを感じることを。

そのようにしてわたしたちは、まだ救いの種を受けていない神の畑を数多く耕すことができるでしょう。わたしたちは多くの抵抗に打ち勝つのです、イエス・キリストとその教会に反対する人からの ― ときにはキリストの友と自称する人からの ― 抵抗に、また、神の子たちの自由と、神の御国 ― 愛と正義と平和の御国 ― の実現を妨げようとする人からの抵抗に打ち勝つのです。そして、わたしたちはまた、わたしたち一人ひとりの自由で責任ある働きを通じて、人間がつくった高貴な制度と、瀕死の状態にあるキリスト教界とに、新たな命を与えるのです。

そうです、わたしの子どもたち、断言します、主がわたしたちの魂に宿らせようと望まれた神聖な光のおかげで、わたしたちは人々の仕事と生活を照らすために力強く貢献できるのだと。

しかし、忘れないでください、「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、その人も歩まなければなりません」[26]。常に勝利へと通じる道を、しかし常に犠牲を伴う道を歩むのです。

6 わたしたちの召命が要求する主なことについて詳しく述べることは、わたしの意図するところではありません。しかし、御父の御心を実現するためには犠牲が必要であることを、聖ヨハネの導きを通じてあなたたちに話したので、今度は、この同じ使徒が、キリスト者の召命の義務を知りたいと願っていた最初のキリスト者たちに教えたことを取り上げたいと思います。

それは、福音の真正かつ永続的な今日的意義をすべて備えた教えですが、神の特別な恵みによって、わたしたちの魂の内に、神との親子関係の深い意味を照らし出す光によって、わたしたちの目にはより明白なものとなっているものです。「愛する者たちよ、わたしがあなたたちに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたたちが初めから有していた古い掟です。この古い掟とは、あなたたちがすでに聞いた言葉のことです。しかしながら、わたしは新しい掟としてあなたたちに書いています。そのことは、イエスにとってもあなたたちにとっても真実です。なぜなら、闇が過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからです。光の中にいると言いながら、自分の兄弟を憎む人は、今もなお闇の中にいるのです。兄弟を愛する人は、光の中に留まっており、つまずくことがありません。自分の兄弟を憎む人は、闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこに行くのか知りません。闇が彼の目を見えなくしたからです」[27]

わたしの子どもたち、わたしたちの道は愛の道です。わたしたちの父である神への愛、誠実で、絶え間ない、こまやかな兄弟愛です。常に、すべてにおいて、あなたたちは愛を生きねばなりません、なぜなら天におられるわたしたちの父の愛も、絶えずわたしたちの心に注がれているからです[28]。神の愛に結ばれ、consummati in unum[完全に一つになって][29]、主のmandatum novum[新しい掟][30]を生きるなら、わたしたちは人々のあいだで神の光と熱となり、城壁に囲まれた都市のように強くなるでしょう ― frater qui adiuvatur a fratre quasi civitas firma[兄弟に助けられる兄弟は堅固な町のよう][31]、自分の兄弟に助けられる兄弟は堅固な町のようです。

7 オプス・デイが始まったとき以来、あなたたちが細やかな心で生きてきた、超自然的愛徳と真に人間的な愛情の素晴らしさについて、長々と話すつもりはありません。多くの人が、わたしたち家族のキリスト教的な暖かさにふれて福音を発見しました。わたしたちの家では、誰ひとり孤独を感じることも、無関心の苦しみを味わうこともないからです。

しかし、あなたたちに強調せずにはいられません、わたしたちを駆り立てるこのキリストの愛が ― caritas Christi urget nos[キリストの愛がわたしたちを駆り立てるのです][32] ― 、わたしたちに限りなく大きな愛を、あらゆる国、言語、宗教、人種のすべての人のための奉仕の業を伴った大きな愛を要求しているということを[33]。なぜなら、キリストはすべての人のために、すべての人が神の子となるため、わたしたちの兄弟となるために、死なれたからです。愛徳の次元において、わたしたちは、個人的、この世的、あるいは党派的理由によって人を差別することはできません、なぜなら、わたしたちの目的はひたすら超自然的なものだからです。

わたしたち自身が働くことによって、また他の人々に、兄弟として、忠実に、すべての人と手を取り合って働くことを教えることによって、わたしたちは示すのです、聖なる教会は生きた現実であり、特にその聖人を通して生きていることを、そして聖人は教会という「神秘体」のどの部分においても決して欠けることがないということを。

すべての人への誠実な愛、それは、わたしたちが神を愛していることの必然的な現れであり[34]、わたしたちが住んでいるこの世界への愛、すなわち、神の愛の対象でもある地上のすべての高貴な現実への愛でもあるのです[35]。だから、わたしの娘たち、息子たち、自分の小ささやみじめさを忘れ、あなたたちの目と心を、オプス・デイというこの力強い生ける水の川に向けるのです、人類を愛と喜びと平和で満たすために効果的に貢献しようとしているこの「業」に。

神との親子関係

8 神との親子関係は、何度も言ったように、わたしたちの霊的生活の確かな土台ですから、聖パウロの次の言葉をよく黙想してください。「神の霊によって導かれる人は誰でもみな、神の子なのです。あなたたちは、人を再び恐れに陥らせ、奴隷とする霊を受けたのではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、わたしたちは『アッバ、父よ』と叫んでいます。聖霊ご自身がわたしたちの霊とともに、わたしたちが神の子であるあることを証明してくださるのです。子であれば、相続人であります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。すなわち、わたしたちはキリストとともに苦しむなら、ともに栄光を受けるのです」[36]

これらの言葉は、わたしたちと父である神 ― 御子と、聖化する聖霊との交わりの内にある御父 ― との関係を要約したものです。もしもわたしたちが、召し出しによってこの地上において委ねられている使徒職に忠実であるなら、わたしたちは神の相続人としていただけるのです。

Postula a me, et dabo tibi gentes haereditatem tuam, et possessionem tuam terminos terrae[わたしに求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領地とする][37]。わたしに求めなさい。わたしは国々をお前が相続すべきものとして与え、地の果てまでお前の領地とする。ですから、わたしたちには、イエス・キリストの教えを人間生活のあらゆる分野にもたらし、あらゆる場所に主の霊を吹き込み、この世のあらゆる仕事を聖化する権利と義務があるのです。

わたしたちは、自然の秩序が要求するところを尊重しつつ、神の創造の御業であるすべての被造物を神に近づける権利と義務があるのです。なぜなら、聖パウロはこう言っていますから。「パウロも、アポロも、ペトロも、またこの世も、生も、死も、現在も、未来も、すべてはあなたたちのもの、そして、あなたたちはキリストのものであり、キリストは神のものなのです」[38]

この世のただ中で世の光となる

9 光の子たちよ、世の光となりなさい。「あなたたちは世の光である…… そのように、あなたたちの光を人々の前に輝かせなさい。そうすれば、人々はあなたたちの善い行いを見て、天におられるあなたたちの父をほめたたえるであろう」[39]。わたしの子どもたち、世の光となるのです、わたしたちの生活の普通の場であるこの地上において自然に生きることによって、人間のあらゆる仕事、あらゆる崇高な活動に参加することによって、それぞれの専門職に従事しながら、人々とともに働くことによって、わたしたちが生きているこの社会の市民たちと同じように、わたしたちの権利を行使し、義務を果たすことによって。しかし、いかなる執着からも常に自由でありなさい、愛ゆえに神の御心を果たすことの妨げになるといけませんから。

そのためにわたしたちは、日々の世俗の仕事を果たしつつ、絶えずイエス・キリストとの親しい交わりを保つよう努め、主がわたしたちの魂に燃やされた火が決して消えたり弱まったりすることがないようにしているのです。わたしたちは世を照らす神の光であると、周囲にいる人たちが本当に気づいてくれるように。

10 ですから、わたしたちの人生は神の前での約束なのです。わたしはそれを、簡単な雇用契約という形で具体化したいと思っていますが、それについてはいつか説明することにしましょう。この約束は、宗教的誓願としてではなく、わたしたちがキリスト教的諸徳を生きるのを助けてくれることでしょう。「今や、罪から解放され、神の奴隷となっているあなたたちは、聖なるものとなるための実りを得ています。その行き着く先は永遠の命です」[40]

自分が自由であることを知っているキリスト者は、イエス・キリストへの愛ゆえに、兄弟である人たちのしもべとなるために、進んで自由を失います。わたしたちは確信しています、神への愛と教会への奉仕のためにわたしたちがする約束は、着たり脱いだりできる衣服のようなものではなく、わたしたちの生活全体を、そしてわたしたちの意志を ― 主の恵みによって ― 包み込むもの、常にそれを包み込むものであると。わたしたちは、何か珍奇な動物のように ― 大きな檻に入れられて運ばれる白い象のような、あるいは見る人に好奇心や感嘆の念、または不快感を抱かせるような、奇妙で不思議な、あるいは気味の悪い動物のように ― 人の目に映ってはならないのです。

わたしたちは、わたしたちの同胞である市民と同じであり、だからこそ、常に街の中で生活し、街に出なければならないのです、少なくとも窓から身を乗り出さなければなりません。わたしたちは群衆の中に溶け込まねばなりません、キリストの塩として社会に味をつけるためです。そのように、わたしたちは自分を際立たせずに ― なぜならそれはわたしたちの精神に反するからです ―、わたしたちの身近にいる人たち、友人、同僚と同じように、この世の崇高な事業に携わりながら、他の人たちに、束の間のものだけで生きてはいけないことをわかってもらうのです。それだと、彼らは決して幸福にはなれないでしょう。だからわたしたちは、彼らが心と精神を天にあげられるよう助けるのです。そうすれば彼らは、人間という被造物は単なる動物ではないと知る喜びを感じられるようになるでしょう。

わたしたちは、火と光にならねばなりません、常に祭壇の上で燃える火[41]となり、状況に応じて、人々を神のもとへ導くのです、イエス・キリストの呼びかけに応えて、venite ad me omnes[みな、わたしのもとに来なさい][42]、みな、わたしのもとに来なさいと。あるいは神を人々のもとにもたらすのです、ecce sto ad ostium et pulso[見よ、わたしは戸口に立ってたたいている][43]、見よ、わたしは戸口に立ってたたいている、と主が言っておられるのが聞こえるように。

しかし、真に熱心なキリスト者は、この二つの態度のあいだで冷静にバランスを保たなければならないことを忘れてはなりません。なぜなら、主が言われるからです、ecce venio cito et merces mea mecum est[見よ、わたしはすぐに来る、報いを携えて][44]、見よ、わたしはすぐに来る、報いを携えて来て、それぞれのその行いに応じて報いよう、と。主はまた、マタイ福音書において、天の国は激しく攻め立てられている[45]とも言っておられます。

復活後の、あのすばらしいエピソードを思い起こせば十分でしょう。主は、歩いている二人の弟子、信仰が揺らぎ暗い顔をした弟子たちと一緒に歩き始められます。主は彼らに聖書の意味を説いた後、エマオに来ると、さらに先へ行こうとなさいました。クレオパとその仲間は、神的かつ人間的な愛情のこもった言い方で、主にこう願うのです、mane nobiscum, quoniam advesperascit, et inclinata est iam dies[一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています][46]、わたしたちと一緒にいてください。あなたがいなければ夜になってしまいますから(*)、と。

* 訳注 ― porque sin ti se nos hace de noche「わたしたちにとって ― わたしたちの心は ― 、あなたがいなければ夜の闇となってしまいますから」というようなニュアンスが感じられる表現。

仲介者キリストとの一致

11 神の御子が人となり、十字架上で死なれたのは、すべての人が御子と御父とともに一つになるためでした[47]。ですから、わたしたちは皆、この父と子の一致に加わるよう召されているのです。わたしたちは、司祭的魂によって、聖なる御ミサをわたしたちの内的生活の中心としつつ、イエスとともに、神と人との間に立とうとしています。

キリストと一致することによって、わたしたちは自覚するのです、わたしたちはキリストとともに世を贖うものとなり、すべての人がキリストの受難の実りを分かち合い、御父に至る救いの道を知り、その道を歩むことができるようにするのだと。

何度でも言いますが、この世での仕事に励みつつキリストと一致するために、わたしたちは十字架を心から寛大に抱きしめなければなりません。わたしの娘たち、息子たち、犠牲はわたしたちの生活の塩です。心臓の鼓動が肉体の生命を維持するように、超自然的な生活を維持するためには、日々の仕事に細やかで賢明な犠牲が伴わなければならないのです。

そのようにしてわたしたちは、この世の現実のただ中で生き、働いている他の人たちに、イエス・キリストの司祭的祈りの意味を示すのです。Pater sancte, serva eos in nomine tuo, quos dedisti mihi... Non rogo ut tollas eos de mundo, sed ut serves eos a malo. De mundo non sunt, sicut et ego non sum de mundo.[聖なる父よ、わたしに与えてくださった者たちを、あなたの名によって守ってください…… わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属してはいないのです][48]。聖なる父よ、あなたがわたしに与えてくださった者たちを、あなたの名によって守ってください…… わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属してはいないのです。

12 わたしの魂の子どもたち、こうした思いがわたしの心に浮かぶのです ― きっとあなたたちもそうでしょう ―、人間の営みのただ中で行うわたしたちの使徒的使命の偉大さを前にするとき、わたしは、十字架上のイエスの死の ― 勝利の ― 場面と一つになって、イエスが語られた次の言葉を心に刻もうとするのです ― et ego, si exaltatus fuero a terra, omnia traham ad meipsum[そして、わたしが地上から上げられるとき、すべてをわたしのもとに引き寄せる][49]、わたしが地上から上げられるとき、すべてをわたしのもとに引き寄せる。

日々の仕事を果たしつつ、祈りと犠牲によってキリストに結ばれ、ごく普通のキリスト者として生きているわたしたちの様々な状況の中で、わたしたちは、主の足元にすべてを置くことのすばらしさを実感することでしょう。主は、世界と人類に対する大きな愛ゆえに、自ら十字架に釘付けにされ、上げられたのです。

このようにわたしたちは、神を愛し、自分の専門職や仕事、主がわたしたちを呼ばれたときにわたしたちがしていた仕事を果たすことによって、わたしたちの使徒職を行うのです。それは、人間のありとあらゆる活動の頂点とその中心に、キリストをすえることです。なぜなら、これらまじめな活動のいかなるものも、わたしたちの働きから除外されることはなく、すべてキリストの贖いの愛を表すものとなるからです。

世俗生活の現実であり、聖性の手段である仕事

13 ですから、わたしたちにとって仕事とは、単に経済的な必要を満たし、他の人たちとともにごく普通に生活するための自然な手段であるばかりでなく、また何よりも、父なる神がわたしたちに示された個人的な聖化の具体的な手段であり、神の望まれた秩序が被造物全体の中で輝きを放つようになるために、神がわたしたちの手に委ねられた聖化のための使徒職の偉大な道具でもあるのです。

仕事は、この地上での人間の生活とともにあるものですが[50]、わたしたちにとっては同時に ― また最高度に、なぜなら自然的な要求とは別に明らかに超自然的な要求もあるのですから ― わたしたちの意志と天の御父の救いの意志とが出会う場でもあるのです。

わたしの子どもたち、改めて言いますが、主はわたしたちを呼んでくださったのです、各自が自分の生活の場において、自分の専門職や務めを果たしながら、仕事を通じて自分自身を聖化するようにと。こうしてわたしたちの人間的な仕事は、当然のこととして、opus Dei[神の業]、operatio Dei[神の仕事]、神の仕事と見なされることができるのです。

主は、神の子たちがその頭と体を使って行う仕事に、大きな価値を与えてくださるのです。このように、人が、神の御前で、愛と奉仕のために、司祭的魂をもって行うことすべてが、わたしたちの生活をすべての恵みの源に結びつける、超自然的意味を獲得するのです。

こうしたことすべてが、聖職者至上主義と呼ばれているものとどれほどかけ離れたものであるか、わかるでしょう。なぜならそれは、キリストと教会の超自然的な使命をこの世的なものにすることではなく、それとは反対に、人間のこの世での活動を超自然的なものにすることだからです。実際わたしたちは、人間の正当な仕事はすべて、それがどんなにささやかで取るに足らないように見えても、常に超越的な意味をもつもの、愛を動機とし、神について語り、神へと導くものとなり得ると確信しているのです。

14 ですからわたしたちは、神的な現実を素晴らしい単純さをもって示しているこの単純な聖性の道を、人々に示さなければなりませんし、わたしたちはそうすることができるでしょう、もしもわたしたちがこの教えをわたしたち自身の模範によって伝え始めるなら、わたしたちが自分の仕事を ― 人間的な意味でも可能な限り完全さを目指しつつ ―、それを神への捧げものとすることができるよう、しっかりと果たしながら生きるなら。

もしもわたしたちがそのように自分の専門職を実践するなら、もしもわたしたちがこの世のただ中でそのように自分の活動を行うなら ― 皆に知られているそれぞれの仕事あるいはmunus[務め、責務]を果たしていくなら ―、他の人たちはわたしたちから学ぶでしょう、そうしたことは本当に可能なのだということを、日常生活のごく普通の状況においても、主がわたしたち全員に示された掟を、自分も霊的に実行することができるのだということを ― estote ergo vos perfecti, sicut et Pater vester caelestis perfectus est[だから、あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者となりなさい][51]、あなたたちの天の父が完全であるように、完全な者となりなさい。

仕事において神の御心を行うこと、仕事において神を観想すること、神と隣人への愛ゆえに仕事をすること、仕事を使徒職の手段に変えること、人間的なことに神的な価値を与えること、これが生活の一致です。単純で強力なこの一致を、わたしたちは自分のものとし、教えねばなりません。

この世のただ中にあって観想的であること

15 この世のただ中にある観想的な霊魂、それがオプス・デイのわたしの子どもたちであり、それこそが、あなたたちが受けた召命を忠実に忍耐強く果たすために、常にそうあるべき姿なのです。一日のどの瞬間にも、わたしたちは心からこう叫ぶことができるようになるでしょう、loquere, Domine, quia audit servus tuus[主よ、お話しください、あなたのしもべは聞いております][52]、主よ、お話しください、あなたのしもべは聞いております。

わたしたちはどこにいようとも、街の喧騒の中でも、工場、大学、畑、オフィス、あるいは家庭で仕事をるしているときでも、自分が神の子であることを素直に観想し、神との絶え間ない対話を続けることでしょう。

なぜならすべてが ― 人も物事も仕事も ― 主との絶え間ない語り合いの機会やテーマを与えてくれるからです。召命の違いから、他の人たちにとっては、世を捨て ― contemptus mundi[世を蔑む] 独房や砂漠で沈黙の内に生きることが観想生活を容易にしているのと同じように。しかし、主がわたしたちに求めておられるのは内的な沈黙、つまり、古い人間のエゴイズムの声を黙らせることであって、世界の沈黙ではありません。なぜなら、世界はわたしたちのために沈黙することはできませんし、沈黙してはならないからです。

16 父なる神とのこうした忠実で親しい交わりに、わたしたちは召命によって招かれているわけですが、この交わりがなければ、オプス・デイで堅忍することは非常に困難であることは確かです。ですから、「あなたたちが行うことはすべて、人間のためではなく主のためと思って、精魂をこめて果たしなさい。あなたたちは報いとして、相続できる、約束されたものを主からいただけることをわきまえなさい。あなたたちは主キリストに仕えているのです」[53]

このように生活の一致を保ち、また、この世のただ中で ― 街中で、野外で、太陽の下で、雨の中で ― 観想的であろうとすることによって、あなたたちは、この世の現実から離れずに現世的な活動を続けようとするだけでなく、これらすべての世俗的な現実の中に果敢に入り込んでいき、そこから神が求めておられることを世に示したいという使徒的な熱意に駆りたてられることでしょう。神の子としての兄弟愛 ― 人間的な兄弟愛には超自然的な意味があるのです ― それが世界の諸問題を解決するための大きな手段となることを教えるのです。人々から利己主義の殻を取り除くのです。また、集団の中に埋没してしまっているような人たちに、必要な人格と真の自由 ― qua libertate Christus nos liberavit[この自由によってキリストはわたしたちを自由なものにしてくださったのです][54] ― とを保証するのです。つまり、一言で言うなら、この地上で神に至る道を人々に開くのです。

17 愛する娘たち、息子たち、神との親子関係という共通の糸で結び合わされたわたしたちの霊性のこれらの特徴的な面を考えるなら、それがどれほど使徒職という大いなる展望へと広がっていくか、わかるでしょう。

あなたたちは神に感謝せねばなりません、なぜなら神はわたしたちにこの霊性を与えてくださったからです。この霊性は、まさしく超自然的であると同時に実に人間的で、この世での高貴な事業にも近いのです。それは非常に特別な恵み ― わたしがよく言っていたように神からの光 ― であり、神の憐れみによってわたしたちはそれを受け取り、謙遜で誠実な心をもって他の多くの人たちに伝えるべきものなのです。

しかし、この霊性と修徳的精神ゆえに、あなたたちのパドレや兄弟たちがしばしば犠牲を強いられてきたことを心に留めておくべきでしょう。わたしたちは無理解にさらされ、神が望まれた道を狂気の沙汰、さらには異端と決めつけられ、それに従う者は狂人、異端者扱いされたのです。

18 光のあとに闇が続くように、主は神の御業が無理解を招き、中傷や迫害の対象となることさえ許されることがよくあるのです。それはしばしば、《善良》で盲目的な人々がすることです。その人たちは、自分たちの慣習や安楽あるいは利己主義からはずれることを受け入れようとせず、生活を複雑にするようなものは何であれ避けようとするのです。

教会の中にさえ、たくさんの聖なる人や、少なくとも自分の義務を果たす人のほかに、熱意のない人、神の教会の官僚など、魂のことなど気にかけていないような印象を与える人が大勢います。霊的な言葉を理解していない人たちもいて、そのような人たちに霊的なことについて話しても、虚しく響くだけのようです。霊的な生き方をしようとしてこなかったからでしょう。

ときに思うことがありました、ろくに準備ができていないとしても、情報を求め、被告人の話を聞き、彼が教えていることとそれがもたらす果実を研究することが、彼らに課せられた差し迫った義務であることに気づくべきだと。

わたしは黙っていますし、できる限り黙っているつもりです。しかし、オプス・デイの精神を守ることは神との友情を守ることだと、わたしははっきりと感じているのです。神はわたしたちにこう言っておられるのですから ― ergo iam non estis hospites et advenae, sed estis cives sanctorum et domestici Dei[だから、あなたたちは、もはや寄留者でも他国の者でもなく、聖なる者であり、神の家の者なのです][55]、だからあなたたちは、わたしにとって、もはや外国人でも寄留者でもありません、聖なる者たちの同胞であり、神の家族をなす者なのです。

19 彼らは盲目であるがゆえに、安楽を求めるがゆえに、理解できないのです、自由 ― 個人の自由 ― はオプス・デイの精神の核心であるということが。彼らは理解できないのです、わたしたちはほとんどの場合「わたしは」と言って自分たちの行為に責任を負うのであって、「わたしたちは」と言うことはめったにないということが。なぜなら、この世の事柄においては、教会が人々の自由な議論に任せている神学的な問題についてと同様に、他の兄弟たち ― もっとはっきり言えばオプス・デイの他のメンバーたち ― は、ある一人のメンバーの見解に従う義務はないからです。福音書にneque enim fratres eius credebant in eum[兄弟たちも彼(イエス)を信じていなかったからである][56] ー 誰もイエス・キリストを信じなかった、とあるのを読むことは慰めになります。

また、自分たちの長年の経験をもとにわたしたちを評価し、偏見をもってわたしたちを見る人々もいます。しかしわたしは ― あなたたちも同意してくれるでしょうが ― ベテランも新人も活力に満ちていられると思っています。子どもも、若者も、壮年も、老人も、心身ともに等しく健康でありうるのだと。彼らは、歳を重ねた者の偏見用心深さをもって、わたしたちに助言を ― わたしたちが求めてもいない助言を ― 与えてくれますが、わたしたちが必要としているのは祈りと理解、そして愛情なのです。

神への希望と信頼:喜び

20 こうしたことはすべて過ぎ去るでしょう。それまでわたしたちは内的生活で闘いましょう、楽観主義と喜び、平和と希望に満ちた修徳的闘いを。そして、わたしたちオプス・デイの最初の数年間に射祷として使ったあの言葉を繰り返しましょう。素朴すぎる祈りかもしれませんが、聖ヨハネによれば、弟子たちが師に向かって言ったのと同じ言葉です ― nunc scimus quia scis omnia[今わたしたちは知りました、あなたがすべてを知っておられることを][57]

わたしは今も言い続けています、「神はもっと知っておられる」と。わたしの子どもたち、eratis enim aliquando tenebrae, nunc autem lux in Domino: ut filii lucis ambulate[かつてあなたたちは闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい][58]、かつてあなたたちは闇でしたが、今は、主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。

矛盾に直面したときは、イエスがパウロに語った言葉を、そしてパウロがわたしたちに語ってくれる言葉を聞きましょう ― sufficit tibi gratia mea, nam virtus in infirmitate perficitur[お前はわたしの恵みで十分だ。弱さにおいてこそ、力は余すところなく発揮されるのだ][59]、わたしの恵みはあなたには十分である、わたしの力は弱さにおいてこそ余すところなく発揮されるのだから。

あなたたちを誹謗する人々に対して、あなたたちは間違いなく、テルトゥリアヌスの『護教論』の最後の言葉を、謙遜に、そして力強く、言うことができるでしょう。「神の業と人間の業との間には大きな矛盾があり、あなたたちがわたしたちを非難するとき、神はわたしたちを赦されるのです」[60]

21 しかし、わたしの子どもたち、わたしたちのこの新しさは福音と同じくらい古いものです。イエス・キリストが「わたしは道であり、真理であり、いのちである」[61]と言って、自分に従うようすべての人を招かれて以来[62]、教会の初期の時代から、多くの信者の魂には、福音によって示され、イエス・キリストご自身が模範的に実践された完全への探求、すなわち、個人的な聖性と使徒的活動の生活を体現したいという強い願いがありました。

このようにして、福音の真の霊性は、初期キリスト信者が暮らしていた異教社会のあらゆる領域で、聖性の豊かな実りを生み出したのです。彼らは信仰を誠実に生きた男女であり、それゆえに布教者であり、市民は市民として、奴隷は奴隷として、他の人たちのあいだで自然に働き、うるわしい兄弟愛を実践し、一人ひとりが受けた賜物に従って神と福音を広めることに献身しました[63]。その結果、異教社会全体がキリスト教化されたのです。

22 それ以来、何世紀にもわたって、イエス・キリストの模範に忠実に従おうとする人々は絶えませんでした。しかし、彼らは少しずつ、伝統的となった三つの誓願、すなわち、清貧、貞潔、従順を公に宣言して生きることに努力を集中するようになりました。その結果、これらの誓願は、普通の信徒のものとは異なる、ある特定の生活状態の修徳的柱として典型化されたのです。

このようにして、修道者固有の条件が形作られるようになり、修道者は、その歴史的発展の様々な形態において、常に ― 実質的な要素として ― 世俗社会と世俗的な仕事や活動から多かれ少なかれ完全に離れることが求められてきたのです。

神からこの召命を受けた人々にとって、普通のキリスト信者の現世的な職業や仕事は妨げとなるものであり、それを必須の条件として捨て去り、福音的完徳の生活を生きることによって個人的な聖化を追求し、かつ、祈り、償い、そして自分の生活状態に適合した使徒職の業を通じて、世俗社会の外から他者の救いを促進しようとしたのです。

この世において聖性を求める

23 このことは、普段の活動や、この世での生活の条件や状態から離れることなく、神の御意志を完全に果たすために自らを捧げようとした人たちが他にはいなかったと言うことではありません。そうした人たちはいました ― たいていは孤立していましたが ― 、そのなかには教会が聖人と認めて栄光の座にあげた人たちもいました。

しかし、これらの人たちの大多数は、影に隠れ、気づかれることもないまま、沈黙を守っていたので、彼らの聖なる生涯がどれほど他の人たちの模範となり、教会の聖性に貢献してきたかは、ほとんど知ることができません。

これら特別な人たちの模範と同様に、洗礼を受けたすべての人は、この世のただ中で普通に働く生活を送りながら、自らを聖化し、キリスト教的生活の力強いパン種となることができるし、そうでなければならないという明確な教義もまた ― 少なくとも実践においては ― 、半ば闇に包まれた状態にとどまったままでした[64]

24 男性であれ女性であれ、寛大な魂の持ち主はいて、主のぶどう園で全力で働きたいと感じています。しかし、彼らは修道者としての召命を受けているのでも、福音的完徳の生活を望んでいるのでもなく、この世のただ中で普通の生活を送りながら、キリスト教的完成を求め、使徒職に身を捧げるという願いを実現したいと思っているのです。

完全さを渇望するこれらの魂は知っているのです、多くの環境が ― それらも神のものであるのですが ― 、司祭や修道者には、その召命の性質上、越えることのできない境界線によって閉ざされているということを。現代社会の脱キリスト教化の進行は、人間の生活、職業、社会的活動が、しばしば教会から、また教会への奉仕に奉献された人々にふさわしい活動から、遠く離れていることを雄弁に物語っています。

25 ところで、わたしの娘たち、息子たち、― これは、聖なる教会が福音の精神を守ることができるように配慮してくださる神の摂理の現れですが ― 1928年10月2日以来、主はオプス・デイに、キリスト教的完成への普遍的な呼びかけがあり、それに応えることが可能であることを、あなたたちの生活の模範によって、また、あなたたちの言葉によって明らかにし、それをすべての人たちに思い起こさせる使命を託しておられるのです。

主が望んでおられことは、あなたたち一人ひとりが、この世におけるそれぞれの身分に固有な状況のなかで、聖人になるよう務めることなのです、haec est voluntas Dei, sanctificatio vestra[あなたたちが聖なるものとなること、これを神はお望みです][65]。神の御心は、あなたたちが自らを聖化することです。この聖性は、ほとんどの場合隠されていて ― 外見的には輝きはありませんが ― 日々、英雄的に、キリストと共に贖い、キリストと共に魂を救い、すべての人間的な事柄をキリストへと向かわせようとする聖性なのです。

神は、オプス・デイの精神に従ってあなたたちが求めている個人的な聖性を用いて、あなたたちがすでに知っていることを ― 洗礼によってキリストに結ばれたすべての信者は、キリスト教的生活を十全に生きるよう招かれているということを ― すべての人に教えるようを望んでおられます。

聖性への召命はすべての人のためのもの

26 主は望んでおられます、わたしたちが主の道具となり、自分の召命を実際に生きることによって、聖性への召命は真に普遍的なものであり、少数の人々のものでも、ある特定の生き方、一般的に世俗を捨て去ることを条件としている生き方に限定されたものでもないことを、人々に思い出させることを望んでおられるのです。

わたしの子どもたち、これは確かな教えであり、神からの光です。この教えは、キリスト教的完成や観想生活は司祭や修道者でなければ不可能だと考える人たちには理解しがたいものでしょうが、聖書と教会の聖伝に基づいており、そしてまた、わたしたちの人間的な小ささにもかかわらず、オプス・デイの生活が絶えずわたしたちに与えてくれる経験によって確認されるのです。

27 オプス・デイの目的は、ひとえに超自然的なものです。だからこそ、各メンバーの個人的な自由がその精神の一部をなしているのです。だからこそわたしたちは、わたしたちの活動から、誰一人として排除しないのです、たとえわたしたちの信仰を共有しない人であっても、わたしたちの熱望を共有したいと望む人であるなら、誰であれ排除しません。

あなたたちもよく知っているように、わたしたちの霊的家族の中には絶対主義はありません。そうしたリスクを避けるために、あらゆる配慮がなされており、まず合議制による統治があります。しかし、オプス・デイの中には、基本的なことについての分裂も複数の意見もないでしょう。わたしたちはconsummati in unum[完全に一つ][66]なのですから。わたしたちには共通の小さな分母があります。それは教会の教えであり、その中に、個人的な聖性とわたしたちの周りにいるすべての人たちの聖性を求めるという、オプス・デイに特徴的な精神と、街のただ中で使徒職を実践するという特有の方法があります。そして、非常に大きな分子、時と場所に常に適応する、果てしない海があります。そこでは様々な意見があり、それが良い精神の証拠、オプス・デイには暴君も奴隷も存在しないという事実を示す明らかなしるしとなるでしょう。

主は、人類の歴史の中に見られるあることを理解するために十分な光をわたしたちに与えてくださいました。それは、奴隷にされた者は、その後、暴君になることが多いということです。しかしながら、オプス・デイには秩序があり、またそうであるべきです。さもないと、わたしたちのオプス・デイは、魂に奉仕し、教会に奉仕し、教皇の教導職に忠実であるための道具にはなり得ないでしょう。

しかし、この秩序は、自由な意思に基づく徹底した従順さをもって生きられるもので、― あなたたちはわたしが言っていることを理解してくれると思いますが ― それは組織なき組織なのです。だからこそ、改めて言いますが、この世における事柄と教義に属さない神学的な事柄においては、すべての意見は良き精神の健全な現れとして認められ、尊重されるべきなのです。

28 オプス・デイには、さらに、喜び、仕事への愛、清貧への愛という三つの特徴があります。わたしたちは神に最良のものを捧げます。神を礼拝するとき ― 普通は小さな聖堂で行いますが ―、わたしたちは注意し、努力を払いながら行います。カインのいけにえを神に捧げるようなことにならないためです。前にも話したように、男性が愛する女性に愛のしるしとしてセメントの袋と鉄の棒3本を捧げるようなことを、わたしたちも天におられ御聖櫃にもおられるわたしたちの主に対してすることになってしまいますから。

わたしの子どもたち、わたしたちの貧しさは人目を引いてはならないのです。わたしたちの貧しさは、笑顔によって、身体と衣服の清潔さによって、そして何よりも魂の清潔さによって隠されています。だから、地上での称賛を期待せず、聖マタイの言葉を忘れないようにしましょう ― Pater tuus, qui videt in abscondito, reddet tibi[隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださる][67]

ですからわたしたちは、常に、人間にとって自然なことを、超自然的な感覚をもって生きなければならないのです。ですからわたしたちは、地上の事柄を神的なものにすることができるのです。ですから、召命を受け入れることは、わたしたちにとって犠牲ではありません。それは犠牲ではなく、選びと愛の証しであることを、わたしたちは知っているからです ― redemi te, et vocavi te nomine tuo, meus es tu[わたしはお前を贖い、お前の名をもって呼んだ。お前はわたしのもの][68]

29 わたしたちは、詩編作者がわたしたちの贖い主であり模範である主について述べていることを、自分自身についても言うことができます、exsultavit ut gigas ad currendam viam[彼(太陽)は巨人のように喜びながら道を走る]、わたしたちは実に小さいものでありながらも、a summo caelo egressio eius et occursus eius usque ad summum eius[彼は天の果てから出て、その果てまで行き]、わたしは自分の道を走る巨人のように喜び、果てから果てへと行き、天に至り、その果てにまで行き着きます、nec est qui se abscondat a calore eius[その熱から逃れられる者は誰ひとりいない][69]、誰も隠れることができず、すべての人がその熱を受けるのです。

主がすでにわたしたちの手を使って、わたしたちに近づく人たちの内に不思議な業を行われているのを見ても、わたしたちは高慢の誘惑に引き込まれたりはしません。なぜなら、わたしたちの心の奥底で、詩編のこの一節が鳴り響いているからです。Tu es, Deus, qui facis mirabilia : notam fecisti in populis virtutem tuam[あなたは不思議な業を行われる神。御自分の力を諸国の民に示された][70]。あなたは不思議な業を行う神、あなたの力を諸国の民に知らせる方。

だから、nolite itaque errare, fratres mei dilectissimi : omne datum optimum, et omne donum perfectum, de sursum est, descendens a Patre luminum, apud quem non est transmutatio nec vicissitudinis obumbratio[わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。善い贈り物と、完全な賜物とは、すべて上から、光を造られた御父から来るのです。御父には移り変わりもなく、影に隠れることもありません][71]、わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。善い贈り物と、完全な賜物とは、すべて上から、光を造られた御父から来るのです。御父は、他の人々のように、移り変わることも、影に隠れることもないのです。

光の源である愛

30 あなたたちがこの教えのすべてを生きるなら、時には話すだけではもはや十分でなく、恋人に愛を語ろうとする若者たちのように、愛のために歌う必要を感じるでしょう。しかし、あなたたちは、神に捧げるために人間の愛の詩を作るのです。そして、エゼキエルが語る ― 主の福音記者たちを連想させる ― あの生き物たちのように、自分を感じることでしょう、ibant et revertebantur in similitudinem fulguris coruscantis[(その生き物たちは)まるできらめく稲妻のように行きつ戻りつしていた][72]。あなたたちは世界を巡り歩き、光を放つのです、燃えて火をまきき散らす松明のように。

聖霊は、わたしたちの母である教会 ― 古くて新しく、常に今を生きる現実であるイエス・キリストの教会 ― が、託された豊かな宝を忠実に守れるよう、その若さを新たにするために必要なエネルギーを絶えず得られるようにし、そうやって教会が、時代に応じてキリスト教のメッセージをすべての人々に伝える方法を見いだし、人々の言葉に適応し、そのメンタリティを理解できるようになさるのです ― nova et vetera, dilecte mi, servavi tibi[新しいのものも、古いものも、わたしのいとしい方、あなたのためにとっておいたのです][73]、ああ、いとしい人よ、あなたのために、わたしはとっておいたのです、新しいものも、古いものも、と雅歌で歌われています。

そして、福音書には、omnis scriba doctus in regno caelorum similis est homini patrifamilias, qui profert de thesauro suo nova et vetera[天の国について学んだ学者はみな、新しいものと古いものを、自分の倉から取り出す、一家の主人に似ている][74]と書かれています。天の国について学んだ人はみな、新しいものと古いものを、自分の蔵から取り出す、一家の主人に似ている、と。

31 わたしたちの精神はそのようなもの、― いつもあなたたちに書き送ってきたように ― 福音のように古く、福音のように新しいものです。わたしたちの召命の本質、聖性を求め神の国のために働くわたしたちの方法は、人々の言葉で神について語り、人々と同じ健全な習慣を持ち、人々の正しい考え方を共有することです。つまりは、世俗のなかで生きる人と同じ視点、人々が自分の人生の重要な問題を考えるときの、あるいは考えることができるような視点から神を見ること、とも言えるでしょう。わたしたちは決して氷のような冷たい模範になってはなりません。そんな模範は、称賛されることはあっても、愛されることはないでしょう。

ですからわたしたちは、若々しい精神で福音の宝を集め、地の果ての国々にまで届けてきました。しかし、わたしたちは革命を起こすために来たのではありません。わたしたちは、本物のカトリックの教えという良いワインを飲んでいるのです、主が聖なる教会のために幾世紀にもわたって育ててこられたことすべてを尊重し、愛しながら。

聖霊の働き

32 Spiritus ubi vult spirat, et vocem eius audis, sed nescis unde veniat aut quo vadat[風(霊)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこに行くかを知らない][75]。風(霊)は思いのままに吹き、その声は聞こえるが、それがどこから来るのか、どこへ行くのか、あなたは知らない。それがわたしの人生でした ― そのことをわたしは、感動しながら、わたしの神への感謝を込めて書いています、わたしはあわれな罪人ですから ― 、何年ものあいだそうでした、主がわたしに豊かに恵みを注いでくださり、御自分の「業」オプス・デイにおいて働くよう、はっきりと、明確な召命を示しつつ、わたしを招かれるまでは。

オプス・デイは祈りによって前進します。わたしの祈りによって ― そしてわたしの惨めさによって ― 、それが神の目には、御心の実現のために必要な力となるのです。そして、多くの人たち ― 司祭、信徒、若者、老人、健康な人、病気の人たち ― の祈りによって。わたしはその人たちに頼みました、主が聞いてくださるに違いないと確信していましたから、わたしの意向のために祈ってくださいと。最初はわたしだけが知っていた意向のために。そして、わたしのあとに続いてくれた人たちの祈りと犠牲と働きによって。それが戦いのためにわたしたちが持っていた、ただ一つの強力な武器だったのです。

そのようにしてオプス・デイは成長し ― そのように成長し続けるでしょう ―、ありとあらゆる場所に広がってきました。病院や大学、恵まれない地域の要理教室、家庭や人が集まる場所に。貧しい人、裕福な人、あらゆる階層の人々のあいだで。神がわたしたちに託されたメッセージをすべての人に届けるために。

33 それが、オプス・デイが直接的に、寛大に、誠実に、策略や人間の庇護に頼ることなく、― 例えてみるなら ― 暖かな太陽や豊かで魅力的な花を求めて絶えず飛び回ることなく、果たそうとしている使命なのです。太陽はわたしたちの内にあり、使徒職は ― そうあるべきものですが ― 、街中で行われ、すべての人に向けられているのです。

最初の頃、わたしは神への深い感謝の気持ちでいっぱいでした。そして同時に、わたしの子どもたち、わたしは考えたのです、オプス・デイに託されたこのカトリック的で普遍的な種を、地球上のすべての国々、人間の活動のすべての領域に蒔くために、わたしたちはどこまで行かねばならないかと。

だからわたしは、あなたたち皆の祈り、犠牲、専門職と喜びに期待し続けながら、絶えず主への信頼を新たにするのです  universi, qui sustinent te, non confundentur[あなたに希望を置く人たちは、だれひとりとして恥を受けることはありません][76]、あなたに希望を置く人たちは、だれひとりとして恥を受けることはありません。

魂の渇き

34 わたしの子どもたち、いつも絶えずわたしの意向に心を合わせ、また自信を持って、若々しさを新たにしながら、オプス・デイの発展のために働き続けてください ― qui replet in bonis desiderium tuum : renovabitur ut aquilae iuventus tua[(主は)生涯、お前を善いもので満たされる。お前の若々しさは鷲のように新たになる][77]。わたしたちの神は、わたしたちの心に置かれた望みを実らせてくださり、地上でのわたしたちの霊的な仕事は、常に活力に満ちた若々しいものとなるからです。

主は、あなたたちとわたしに期待しておられるのです、神の限りないいつくしみによってわたしたちに与えられた召命を喜び感謝しつつ、わたしたちが、人々が歩む道に平和と喜びの種をまく大軍団を形成し、やがて無数の魂がわたしたちとともにこう繰り返すようになることを ― cantate Domino canticum novum ; cantate Domino omnis terra[新しい歌を主に歌え。全地よ、主に歌え][78]

御業によって神の子とされたわたしたちが、自分が神の子であることを心から感じ、兄弟愛という力強い絆で結ばれて生きるなら、使徒職を行う組織なき組織 ― と前にも言いましたが ― それが簡単にできるでしょうし、キリスト教の生命力を社会の血流に絶え間なく注入し続けることができるでしょう。

35 主は、あなたたちが、個人的な使徒職を通して一人で、あるいは、他の人たち ― 神から離れている人や、カトリック信者でない人、キリスト教徒でない人たち ― と力を合わせて、世界であらゆる種類の美しく穏やかな事業を計画し、実行することを望んでおられます。それらは、地球の表面のように、またそこに住む人々の感情や願望のように多様で、社会の精神的・物質的善に貢献し、すべての人にとってキリストに出会う機会、聖性の機会となるでしょう。

いずれにせよ、どんな形の使徒職を実行するにしても ― それを自分一人でするのであれ、他の市民とともにするのであれ ― 、自由に使える重要な手段はあなたたちの専門職です。ですからわたしは何度もくり返し言ってきたのです、わたしたち一人ひとりの専門職への召命は、神的な召命の重要な部分をなすものだと。また、だからこそ、オプス・デイが世界で実行する使徒職は常に今日的、現代的で、必要とされることであると。なぜなら、地上に人がいる限り、働く男性や女性がいるのです、特定の専門職や仕事 ― 知的労働であれ肉体労働であれ ― をもち、その仕事を聖化するように呼ばれている人たち、その仕事を通じて自分自身を聖化し、他の人たちを神との親しい交わりへと導こうとする人たちが。

あなたたちの仕事、あなたたちの使徒職は、初代のキリスト教徒たちのように、必ず福音宣教的なものになるでしょう。それは、働く意欲のある人々を引き付けるでしょう、熱心に、力強く、まっすぐに働こうとする人たち、目立つことよりも一貫性をもって働こうとする、大胆で、誠実で、自由を愛する人たち、ですから、わたしたちがここで行っているような自己を捧げる生き方をすることができる人たち、人生においても、仕事においても、オプス・デイであることができる人たちを。けれどもそのようなことを、彼らは思ってもみなかったでしょう ― ほとんどの場合、異教的な環境の中で生きてきたのですから ― 、神との友情の内に幸せになれるなどと、自己奉献と奉仕の人生を送ることができるなどとは。

オプス・デイへの召命はすべての信者に向けられている

36 あなたたちも個人的な経験からよく知っているように、神のいつくしみの道は数多くあります。オプス・デイへと、あらゆる国、人種、言語の人々がやってくるでしょう、老人も若者も、独身者も既婚者も、健康な人も病気の人も。その一人ひとりが、神の御意志によって定められた場所を見出し、一人ひとりが、主が与えてくださる機会 ― 特別な恵み ― を活かすことができるでしょう。

初代キリスト教の味わいをもつこの道は、多くの人々の人生に、驚くほど単純な方法で、恵みの奇跡を新たにするために神が生み出されたのだと思いつつ、わたしは、聖ユスティノスが福音の驚くべき力に驚嘆しながら書いたことをゆっくりと読み返して喜んでいます。彼はこう言っています。

「かつては放蕩を楽しんでいたわたしたちは、今は貞潔だけを受け入れ、かつては魔術に身を捧げていたわたしたちは、今は生み出されたものではない善なる神に身を捧げています。かつては何よりも金銭を愛し、財産を増やすことを愛していたわたしたちは、今は自分の持っているものさえも人と分かち合い、困っている人に分け与えています。かつては互いに憎み合い、傷つけ合い、異なる習慣によって隔てられ、同じ民族でない者たちとは家庭を共にしなかったわたしたちが、キリストの到来後、今は皆、共に暮らし、敵のために祈り、わたしたちを迫害する者たちの不当な憎しみを思いとどまらせようと努めるのは、キリストの美しい教えに従って生きることによって、彼らが、わたしたちと共に、万物の主である神から、わたしたちが望むのと同じ財を得る善い望みを持つためです」[79]

37 神に呼ばれたなら、誰でもオプス・デイのメンバーとなることができます。オプス・デイへの召命は、身分を変えることを伴いません、従って、外的にはなにも変わることがないのです。一人ひとりがこの世で占めている場所にとどまり、自分の仕事、メンタリティー、身分上の義務、専門職に伴う責任、共同体への義務、社会的な関わりを持ち続けます。なぜなら、これらの関わりはすべてキリスト者としての使徒職のための手段であるからです。

神の御業オプス・デイは、メンバーに超自然的精神、特有の修徳性、適切な教理的形成与えることによって、その人がまさにこうした人間的現実の中で、その現実を通じて、自らを聖化し、自分のオプス・デイを実現できるようにするのです。

しかし、このように精神と形成との一致を常にはかりながら、オプス・デイの各メンバーは、この世において ― 職業的、文化的、政治的、社会的な活動に携わりながら ― 、完全に自由に、それゆえ自分の責任のもとに行動するのです。その責任は、イエス・キリストへの信仰と道徳が許す範囲内であれば意見も行動も絶対的に自由であることの帰結として、各人がそれぞれ自分のものとして担うものだからです。

38 オプス・デイの神学的・使徒職的現実は実に独自なものであり、また修道生活への召命の起源やこの召命に伴う生活条件とは非常に異なっているため、オプス・デイに入りたいという人は、それ以前には、神に身を捧げるために修道者になることも神学校に行くことも、考えたことなどなかったに違いありません。ですからわたしたちは、他の道に進もうとする人たちの邪魔をしたりはしないのです。

オプス・デイは小神学校や宣教師養成のための学校(*)をもっていませんし、もつべきでもありません。わたしたちはそうした学校を愛してはいますが、それは他の人々のためのものです。それは母親たちが、善い願い、聖なる願望に駆られて、まだ幼いころから息子たちを連れてくるところです、特に恵まれた環境で生活することによって、息子たちの中に司祭の召命や修道者の召命が芽生えるかどうかを確かめようと。

*訳者付記:escuelas apostólicas ― Trésor de la langue française(フランスの仏語大辞典)によると、escuela apostólica に対応するフランス語「école apostolique」には「将来、宣教地に派遣する司祭を養成するための無償の中等教育機関」というような説明がある。

オプス・デイに入ることを望む者たちは ― すでに十分な年齢に達していますから ― オプス・デイへの召命が意味する自己の贈与について、自分たちが実行しなければならない特別な使徒職の使命について、明確な自覚をもってそうするのです。

彼らは、冷静かつ自由に考えたうえで、オプス・デイに入ることを望むのです。よく考え、責任を持って、イエスと言うのもノーと言うのも自由なのだと自覚し、オプス・デイ特有の召命を受け入れることによって負うことになる義務についても理解したあと、この決断を下すのです。

神の呼びかけに応える自由

39 神からのこの特別な召命をほんとうに持っている者だけが、完全な自由の中で自らを捧げ堅忍しようと望む者だけがオプス・デイに来るということについて、わたしたち以上の関心を持つ者はいません。まさにそこに、その人たちが神の恵みに助けられて力を発揮するであろうということの、最高の保証があるからです。

それと同時に、あなたたちもよく知っているように、神学校や修道会のために多くの召命が生まれることを喜びをもって見ることも、わたしたちの精神にふさわしいことです。しかも、わたしたちは神に感謝します、なぜなら、これらの召命の多くは、わたしたちが若者のあいだで行っている霊的・教義的形成の成果だからです。わたしたちを取り巻く環境を、キリスト教の精神で燃え立たせ、より超自然的で、より使徒的なものにすることによって、その論理的帰結として、教会のあらゆる組織に、より多くの人々が送り込まれるのです。

40 修道者への召命については、わたしたちは特別に注意を払っています。オプス・デイの創立当初から、わたしはオプス・デイという組織を、そのメンバーは修道者となることも、ad instar religiosorum[修道者のように]修道者のように生きることも、修道者と同一視されるようなこともあってはならないものとして見てきました。

それは、修道者に対する愛情が欠如しているためではありません。わたしは心から彼らを愛し、尊敬しています。わたしの子どもたち、それは、フィリピの信徒たちに対する聖パウロと同じ言葉を、誠心誠意、繰り返すことができるほどです ― testis enim mihi est Deus, quomodo cupiam omnes vos in visceribus Iesu Christi[キリスト・イエスの心をもって、わたしがどれほどあなたたち一同に想いを寄せているかは、神が証人です][80]、イエス・キリストの心をもって、わたしがどれほどあなたたちを愛しているかは、神が証人です。

わたしたちは、司祭への召命、修道者への召命を、そして修道者たちが教会のために行ってきた、またこれから行うであろう巨大な仕事を、心から尊敬しています。そう思わないような者はわたしの善い息子とは言えないでしょう。

しかし、それと同時に、改めて言いますが、わたしたちの召命とわたしたちの仕事は ― 世俗にとどまるようにとの招きであり、また、わたしたちの使徒的活動は世俗の活動の中でまたそこから行われるものであるのですから ― 、修道者に託された召命と仕事とはまったく異なるものなのです。

41 あなたたちは、自分の社会的身分を変えず、修道者あるいは修道者と同一視されるような人にはならず、そして、神の民である他の信者たち、つまりあなたたちと同等な人たちと、生活や仕事において完全に交わりながら、この世のただ中にとどまるという明確な条件のもとに、自らを主にささげたのです。

わたしたちが行う仕事、わたしたちが採用する精神性と手段、わたしたちがそれを行う状況、そしてわたしたちのために用意されている特有の形成と修徳主義は、神学的・教会法的に見ても、修道者の身分にはないものです。

42 わたしたちの活動はまた、教会の通常の位階制の枠組みにおいて、あるいは修道会によって、多かれ少なかれ直接的に推進されている様々な団体や運動における他の一般信徒の活動とは、通常、全く異なっています。

これらの団体や運動は、使徒職に自己を全面的に捧げることを必要としないもので、会員と団体の結びつきは弱く、ほとんど存在しないか、あるいは事実上存在しません。修徳的・教理的形成にも、深さ、厳密さ、継続性を欠いています。なぜなら、それらの団体や運動はそれほど形成を必要としていませんし、また、その目的のために形成が不可欠であるとは言えないからです。

たとえ、これらの点をすべて持っていたとしても、彼らには、仕事と使徒職との内的かつ完全な一致が、やはり欠けているのです。この一致こそが、オプス・デイのメンバーに特有の召命と修徳的要請の基本的な特徴であり、その実際上の結果として、オプス・デイもそのメンバーも、誰からのものであれ、人のお金を必要としていません。なぜなら、メンバーたちはそれぞれの仕事によって得た実りをもって自分たちの必要を賄っているからです。たとえ、もう一方で、わたしたちが行っている使徒的事業は、それが適切に発展するためには、カトリック信者であるか否かを問わず、祈り、仕事、あるいはお金によって支援してくれる人々の、寛大な協力を常に必要としているとしてもです。

43 ここまで来たところで思うのですが、わたしたちの道を理解しようとしない、あるいは理解できずにいる人たちの態度を ― それを正当化するのではなく ― 説明することができる理由について、具体的に示す必要があるようです。多少否定的なやり方になるかもしれませんが、わたしたちの霊性と使徒職を明確に定義するものが、それによってより明確になるでしょう。

人工的なものを称賛し、奇抜なものや偽りのものを喜び、貴重で本物の美しさを無視することに馴染んでいる人たちには、花は自然の花でない方が美しいと思えるのでしょう。みずみずしく香り高いバラをほめるのに、なんてきれいなんだ、まるで造花のようだ、などと言うのを聞いたことがあるでしょう。そういう人たちには、使徒的な事業の内に、神の恵み、神の日常的な摂理、そして人間の真摯で高貴な仕事の、驚くべきではありますが簡素な実りを見出すのは、容易ではないのでしょう。

そのひとたちが、鳴り物入りの見世物のような ― 打ち上げ花火のような ― 仕方で仕事をするのに慣れているとしたら、そのような心的態度が何世紀も続いてきたために、独特な意識、考え方が身についているのかもしれず、その結果、他の人たちが、見た目を飾ることも秘密めかすこともせずに、まったく単純かつ自然に、率直に、したがって謙遜に行動しているのを見ても、理解することも信じることもできなくなるのです。

44 このような人々が表面的で、ものごとを曲解しがちなのは、軽率さや思慮のなさから、ある特定の召命にとっては正当な意味があるけれども、キリスト教的完全さを真に探求することにおいて不可欠ではない要素 ― たとえば、衣服の色や形、長く厳粛な儀式、紐や帯、肩紐で吊り下げるか首から下げるキリストの十字架像、はっきりと見えるメダイなどといった、ある種の階級意識には付き物となりがちなしるし、教会が再三嘆いてきたしるし ― を最重要視するためです。このような人々は、これらの伝統的な要素のいずれかがまったくないことに気づくと、聖性へと向かう本物の道があることさえ疑うようになるのです。

わたしの子どもたち、わたしたちの場合、そうしたしるしは何一つありません。オプス・デイを示す略号さえありませんし、またあってはならないのです。なぜなら、わたしたちは修道者の身分とは何の関係もないからです。わたしたちは普通の市民、他の市民と同じだからです。

もしも彼らが、まじめで専門的な仕事、世俗の学問への完全な自己奉献が何を意味するかを知らないのなら、神がオプス・デイのメンバーに求めておられる使徒的な仕事の範囲と規模、そしてそれを実行する方法を理解することはできないでしょう。

もしも彼らが、教会を自分の虚栄心のために利用したり、無闇矢鱈と命令し、押しつけ、すべてを牛耳ろうとすることを習いとしているのなら、自分の支配欲に制限が設けられるような仕事は必ずや敵視するでしょう。そのような仕事は、自分の権威を侵害するもの、おそらくは経済的利益をも侵害するものと見て取るからです。

45 また、わたしの子どもたち、それは驚くべきことでもありません。残念なことですが、今述べたような人々の周りには自然と取り巻きたちが集まってきて、うたい文句に惹かれたり ― それに耳を貸してはいけません、神の働きや教会の活力を制限し、操作するものだからです ― 誤謬や教理的知識の欠如からくる偏見に惑わされて、言いなりに動くのです。

今わたしが問題にしている人たちは、まじめな人たちではありますが、オプス・デイが示す高貴な望みの正しさ、正当性を見て取ることができないのです。善良な人たちではありますが、いかにも立派に見える人たちが繰り返し垂れ流す一方的な情報や誤った情報にあらがうことができないのです。悪を行うことはできませんが、権力者が怖いので、善を行いません。賢く、学識さえありますが、自分たちの前で展開される、神とその教会への奉仕の有効性も、それを支える神学的教義も、必要とされる法的規範も認識できないのです。

46 わたしの娘たち、息子たち、そんなことはどうでもいいのです。わたしがこれらの困難についてあえて触れたのは、そのことによって ― 逆に ― わたしたちの精神の特徴をより明確に示すのに役立つからにほかなりません。それ以外のことについては、父なる神への子としての信頼をもって祈り、皆を赦し、希望を持って待つのです。

その時が来たと天が判断するとき、教会の使徒職の組織において、オプス・デイという豊かな川が流れるべき水路が開かれるでしょう。オプス・デイは、現状ではまだ適切な場所を見出してはいないので、それは困難で辛く苦しい仕事になるでしょう。わたしたちは多くの障害を乗り越えなければなりませんが、主はわたしたちを助けてくださいます、なぜなら、神の御業であるオプス・デイにとって、すべては御旨であるからです。

祈ってください。わたしの絶え間ない祈りに結ばれていてください ― Domine, Deus salutis meae: inclina aurem tuam ad precem meam[主よ、わたしの救いの神よ、わたしの祈りに耳を傾けてください][81]、わたしとともに言ってください、わたしたちの救い主である神よ、わたしたちの祈りに耳を傾けてください。山々のあいだに水は流れるという深い確信が、あなたたちに欠けることが決してありませんように、inter medium montium pertransibunt aquae[山々のあいだに水は流れる][82]、水は流れる、これは神の言葉です。

それはそうと、わたしが少し前にブルハソット(*)で、キリスト者としての生活を高めようとしている学生たちに ― そのうちの何人かはすでにわたしの子どもになっていますが ― 数日間説教をしたときに得た招きを実践する決心をしてください、わたしもそうしますから。あるドアに「旅人よ、己が道を行け」という言葉が書かれていて、わたしは喜んでそれを何度も読み返しました。これこそ、わたしたちがなすべきことです、わたしたちの主である神がわたしたちを引き寄せてくださった特有の道をよく知り、その道を忠実に歩み続けるよう、常に努力すべきことなのです。

*[訳注]スペイン、バレンシア地方の町。

わたしたちの仕事は偉大なカテケージス

47 わたしたちの召命についての理解を深め、わたしたち独自の方法で福音のメッセージを人々に伝えることの価値と可能性を考えるなら、わたしの娘たち、息子たち、わたしたちがそのように生き、そのように働くことによって、オプス・デイ全体が、市民社会の中で、生き生きとした単純で直接的な方法で行われる偉大なカテケージスに等しいものとなることは明らかです。

実際、この教理的使徒職は本当に必要とされているのです。古くからキリスト教の伝統を持つ社会集団や国々においてさえも、宗教的無知が日に日に増しているからです。神の最大の敵は無知であると言えるでしょう。神を知らなければ神を愛することはできません。だから無知は多くの悪の源であり、魂の救いにとって大きな障害となるのです。

「わたしたちは聖霊があることを聞いたことさえありません」[83]と聖書がわたしたちに伝えていることは、多くの人々、多くのキリスト信者の心に明確な教理的知識が欠けている今日の状況を、そのまま映し出しています。それは、教育をろくに受けていない人だけでなく、人文科学の分野で学識者と言われている人、専門家として高く評価されている人、政府の要職にある人にさえ言えることなのです。

そして、無知は混乱を生み、さらに、教会の敵や軽率な人々がその混乱をあおるのです。口頭や文書による、ありとあらゆる伝達手段 ― 迅速に隅々にまで行き渡る手段 ― を使い、無害に見えるけれども誤りを含んでいたり、誤りにつながるような計画、発言、慣習を利用して。

48 病気の人や貧しい人を助けることが物的な慈善行為であるのと同じように、教理的知識に乏しい人を助けることも慈善行為です。そうした慈善行為、霊的愛徳を、わたしたちは、それが必要とされるとき、全力でなすべきなのです。

豊富な善で悪を溺れさせるために、教理を教えねばなりません。真理は贅沢品であってはならないのです[84]。信者たちに正しい教義、確かな教義という種を ― 教導職が信仰の真理として示すものは揺るぎないものであるという確信をもって ― 豊かに蒔かなければなりません。各人の意見に委ねられていることについては自由であるということも教えながら。

わたしの子どもたち、種を蒔くのです、明快に、曖昧にならぬように。実践的懐疑主義がまかり通るようなことを許してはならないからです。真理は一つですから。言葉の賜物によって ― 聖霊降臨に喜んで触れながら[85]、よくあなたたちに言っていますが ― 、常にその場の状況や聞く人の能力や知識に応じて話せるようにしてくれるこの賜物、話す人の適切な準備とこの使徒的務めを果たそうとする信仰と愛の実りであるこの賜物によるのです[86]

49 自分の知識を絶えず向上させたいというあなたたちの願い、学びたいという願いに応え、オプス・デイは、それぞれの個人的な状況によって必要とされる程度や方法を考慮しながら、教理と倫理、聖書と典礼、教会の歴史と教会法に関する正確な知識を提供することによって、あなたたちの人間的な知識を超自然的レベルにまで容易に高め、それを使徒職の道具に変えるのです。

しかし、あなたたちはまた、専門職に応じた適切な準備をすべきです。社会におけるそれぞれの活動に応じた準備、知的労働であれ肉体労働であれ、それぞれの公的な職務に応じた準備をしっかりとすることによって、自分の職業、日常の仕事を通じて、この教理の使徒職を効果的に行うことができるようになるからです。

仕事を聖化することは、人間的にも完全な仕方でその仕事を行わなければ、難しいでしょう。そして、その人間的な完全さがなければ、専門職に携わる者としての威信 ― 仕事を聖化し、キリスト教の信仰が要求するところに自分の生活を一致させることを他の人たちに教えるために必要な影響力 ― を得ることは難しい、いや、不可能とさえ言えるでしょう。

50 ですから、しっかりとした職業訓練を受け、常に最新の状態を維持するために、あらゆる手段を講じなければなりません。わたしたちは、他の市民と同じ権利と手段を持っていますから、知的労働のためであれ、肉体労働のためであれ、良い教育・訓練を保証してくれる、公立あるいは私立の教育機関に通うのです。

学者になれる人が学者にならないとしたら、それは許されないことです。しかし、全員が学者になる必要はありません。その代わり、オプス・デイのメンバーは皆、教育を受け、自分の専門職において有能であり、その誠実な人柄、学識、技量ゆえに同僚たちから評価されていることが必要なのです。

51 Coepit Iesus facere et docere[イエスは行い、教え始められた][87]、イエスは行い、教え始められた。わたしの子どもたち、模範を示して教えなければなりません。人々はあなたたちの善い行い[88]や振る舞い方を見て、あなたたちが教えていることを信じるでしょう。良い模範は常に人を惹きつけます。しかし、それが効果的であるためには、オプス・デイのメンバーたちが、単純かつ自然に、自分たちが教えている通りの生き方をしていることの結果でなければならないのです。

それは、普通のキリスト信者が、自分の職業や仕事を正しく責任を持って行うことによって示されるのです。自分の市民的義務をすべて忠実に果たすことによって、すべての権利を実践することによって ― それは義務でもあります ―、この世での生活の日々の問題や苦難に立ち向かい、解決することによって、つまり、人間関係すべてにおいて、キリスト教的に、超自然的な動機のために、神と隣人への愛に基づいて生きることを通じて、はっきりと示されるのです。

このように模範を示すのですから、遠くから見る限り、オプス・デイのメンバーが注目されることはないかもしれません。しかし、メンバーに近づき、親しく接するようになった人は、すぐに、ここにキリストがいると言うでしょう。なぜなら、その人は、このChristi bonus odor[キリストのかぐわしい香り][89]、キリストのかぐわしい香り、主と常に親しく接しながら生きている霊魂の香りを感じるからです。

キリスト教の光

52 オプス・デイのメンバーは、それぞれが自分の場所、自分の仕事場で、誠実に、ごまかしも策略もなしに、人々が、周囲の世界が期待しているキリスト教の光を示さなければなりません。わたしたちは人々のために、周囲の世界のために存在しているのですから。

わたしたちの仕草、眼差し、話し方、物の見方、行い方、人との関係、そして、全般的に言うなら、オプス・デイのメンバーの生活と行動全体に、他の人々と同じであることから生まれるあの単純さが伴わなければなりません。わたしたちは他の人々とは違うのだと誤解されるようなことになれば、わたしたちは周囲の世界にも人々の中にも入っていけなくなり、魂に仕えることができなくなるでしょう。

53 このようにして、教会は、人間のあらゆる営みの中に、真に、無理なく存在するようになるのです。修道者ではなく、修道者らしくもない、教会の普通の信徒である娘たち息子たちの個人的な証しが、キリスト教のメッセージを生き生きと、効果的に伝えることになるのです。

これは、自分の仕事によって生活している人たちが、一般信徒としてのメンタリティーでもって行う模範の使徒職であり、したがって、教会にとって経済的な負担にはなりません。彼らは、いかなる種類の人間的な報酬や補償も期待せず、惜しみなく教会に奉仕しているのです。

あなたたちは、市民であり良き職業人であることを拠り所とする者として、誠実かつ公正に生き、働かねばなりません。カトリシズムや聖人の名前、あるいはカトリックという肩書に頼らずに。そして、キリスト教は否定的内向的な宗教ではなく、世界のどんな場所にあっても喜びをもって肯定的に物事をとらえる宗教であると深く確信している人の超自然的な喜びと人間的な楽観主義を持って、生き、働くのです。キリスト教は、地上の生活におけるあらゆる高貴な願いに確固たる基盤と確実な進展を与えることができる唯一の教えなのです。

54 この率直で効果的な献身による模範を支えとし ― それは父なる神との絶え間ない交わり、聖母マリアへの信頼に満ちた崇敬、教会とローマ教皇への愛、祈りと犠牲によって可能になり、育まれるものです ― 、あなたたちは、職場の同僚や、何らかの理由で接することになるすべての人との友情を育むよう努めなければなりません。

わたしの娘たち、息子たち、もちろんあなたたちはそのように行動してくれるでしょう。友情を、社会に浸透するための戦術として用いるためではなく ― そんなことをしたら友情がもつ本質的な価値を失わせてしまうでしょう ― 、兄弟愛という人間が真っ先に、最も直接的に求めるものの現れとして、さまざまな違いを持つ人々のあいだに育むのです。それは、キリスト者にとって義務ですから。

そして同時に、神への愛からそうしてください。友情は信頼を生みますから、教理の使徒職を行うことができるようになり、わたしたちが善を望んでいるその人たち、友人たちを、主に近づけることができるのです。

55 夜、イエスに会いに行ったニコデモのように[90]、人々の無遠慮な好奇心にさらされないようにしながら、この控えめでまっすぐな友情の内に、人間的な敬意を乗り越えて、魂が熱望する神の真理を見いだす手段を求めようとする人たちさえいることでしょう。

わたしの魂の子どもたち、本当にこう言うことができるのです、オプス・デイの働きの最良の実りは、そのメンバーが、大学や工場、職場、鉱山や畑などで、仕事上の仲間たちを相手に、模範と忠実な友情の使徒職を「個人的に」行うこと通じて得られるものである、と。

それは、謙遜に、静かに、しかし効果的に、絶え間なく続けられる、放射線のような働き、模範と教理による働きであって、その成果を統計で示すことは難しいでしょう。

56 わたしたちの神的な召命、職業の実践と密接に結びついているこの召命の超自然的本質を理解しない人々にとって、あるいは、神に完全に身を捧げるためには普通の人であることをやめなければならないと考える人々にとって、この使徒職が実に人間的であるため、オプス・デイのメンバーが異様に見えてしまうのでしょう。実に普通で、すべてにおいて他の市民たち、他の同僚たちとまったく同じなのですから。

実際、オプス・デイのメンバーは、それぞれの職業に応じて、その社会的地位にふさわしい生活、服装、働き方をしています。ですから、他の市民と同じように、自分の置かれた環境が要求することや状況に無理なく適応し、誠実かつ率直に振る舞います。つまり、まさに他のキリスト信者と同じように、オプス・デイに属していなかったとしてもそうするであろうように、振る舞うのです。

57 ですから、自分の個性や身分を隠したりはしませんし、ありのままの自分の姿、自分の自然な姿にそぐわない、ある特定の外見を取り入れたりもしません。使徒職の戦術としてそのように行動することも、不必要なカムフラージュを取り入れることもないのです。

そのような奇行や偽善はオプス・デイではありえないことです。しかし、いずれにせよ、そうしたことは、一般信徒のふりをしたり、修道者でないように見せるために自ら一般信徒化しようとする人たちにとっては、おそらく使徒職の戦術として、あり得ることでしょう。そうした人たちをわたしは知っていますが、それは間違いなく危険な戦術です。知的にも行動的にも異常な手段に頼るのですから、修道者としての身分を捨てることになりかねません。誠実であることが常に求められるのです。

58 「天の神を賛美し、生きとし生けるものの前で神をほめたたえなさい。神はあなたたちにそのいつくしみを示されたのだから。王の秘密を隠しておくことは善いことだが、神の御業を明らかにし伝えることは輝かしいことである」[91]。わたしの娘たち、息子たち、わたしたちには隠すものは何もありません。わたしたちの自発的な行動や振る舞いを秘密と混同するようなことは、誰にもできないのです。

これまでわたしは秘密を持たなかったし、今もこれからも、持つことはありません。オプス・デイもそうです、秘密を持つことは正しくないことですし、創立者であるわたしがそれを知らないのも正しくないことです。オプス・デイにとって、秘密は何の役にも立ちません。これまでも必要なかったし、今も、これからも、必要ありません。神がわたしたちに託された宝、わたしたちが伝えるべき光は声高に叫ぶべき秘密です。わたしたちの義務、神から与えられた使命は、それを四方八方に広めることなのです。

自然さと、個人としてまた集団としての謙遜

59 しかし、この単純で自然なわたしたちの召命の生き方は、使徒職の有効性、そして何よりも個人としてまた集団としての謙遜が求める、賢明で超自然的な慎み深さと、完全に一致することを忘れないでください。とくに今は、オプス・デイが始まって間もないとき、細心の注意が必要な時期なのです。

わたしたち個人が神への献身の内にかもしだす親密さ、わたしたちの家族的生活がかもしだす親密さは、街中で公言するようなものではありませんし、わたしたちの扉を叩きに来る詮索好きな訪問者の攻撃的な好奇心を満足させるためのものでもありません。わたしたちは素直であると同時に慎重でもあるべきなのです。

60 わたしの子どもたち、聖パウロのこの明確で素晴らしい言葉を黙想してください。「わたしたちの誇りは、わたしたちの良心が証しするところです。わたしたちはこの世において、神の前で単純な心で誠実に振る舞ってきました」[92]。これがオプス・デイの誇りです、そしてこれが、わたしたち一人ひとりが、どのような状況や境遇に置かれていても、生きようと努めるべきことなのです。

わたしたちの精神の単純さと自然な誠実さは、あなたたちが神との交わりにおいて、神の子らしく単純かつ誠実であろうと努めるなら、自分の考えや言葉、行いを「真理である方」に一致させようと絶えず努めるなら、この世において、人々の前に輝くことでしょう。

61 また、オプス・デイにおいてあなたたちを指導し形成する使命を持つのメンバーたちに対しても、誠実かつ単純でありなさい。彼らが愛情を持って、確固として、理解を示しながら、効果的にあなたたちを導き、助けられるようになるためです。細やかな心を持って誠実に、しかしまた野蛮なほど誠実に

あなたたちへの指導がしやすくなるようなことがあれば、何でも恐れずに言いなさい。あなたたちを神へと導き、霊性を高め、形成を進め、どんな傷もすぐに癒し、どんな逸脱も ― いかに重大なものであれ、あるいはそう見えるものであれ ― すぐさま正せるようにするためです。忘れてはなりません、真に重大なことはただ一つ、その傷や逸脱を、医師であり、導き手であり、牧者である人に隠すことだということを。

要するに、わたしたちの家族としての生活における誠実さです。自発的で開かれた態度は、あなたたち相互の関係を、暖かで心が通い合うものにし、必要な場合には兄弟的説諭を含め、常に助け合えるようにするための、非常に効果的な方法なのです。

平和と一致を促進する

62 オプス・デイの使徒職は ― まさに真の兄弟愛が染み込んでいるがゆえに ― 相互理解を促進し、平和と穏やかな共存の雰囲気をわたしたちの周囲につくり出し、そうやって人間同士の一致、主との一致を阻む障害を ― いまだに数多くある障害を ― 取り除くことを目指さなければなりません。

ですから、キリスト教的世界観、人間観、キリスト教的行動規範を制限し、偏狭さや自己中心的なものへと矮小化させるものは、オプス・デイの精神とは無縁のものです。わたしたちは、コリントの信徒に対する聖パウロの教えを、教会の一致、すなわち全人類の一致の象徴として、自分たちのものとするのです。「実に、わたしたちは、ユダヤ人であれギリシア人であれ、奴隷であれ自由な身分の者であれ、洗礼を受けてみな一つの霊によって一つの体に組み入れられ、また、みな一つの霊を飲ませていただいたのです」[93]

63 オプス・デイのこの真にカトリック的な精神は、わたしたちに、広い、普遍的な心を持つよう求めています。わたしたちの心からたくさんの善いものを取り出す ― de bono thesauro profert bona[善いものを入れた倉から善い物を取り出す][94] ― ことができる心を持つことによって、神の子としての兄弟愛の道をふさいでいる多くの精神的・心理的障壁を乗り越え、打ち砕くために。

その障壁のひとつ ― おそらく今の時代において最も危険な障壁 ― は、ナショナリズムです。ナショナリズムは、理解と共存を妨げ、祖国への真の愛とは相容れず、人類社会の共通善を追求するうえで、大きな障害となります。

このナショナリズムが神にかかわる事柄に持ち込まれたりすれば、この上なく深刻かつ危険な事態を招くことになるでしょう。神にかかわる事柄において、なによりもまず輝くべきことは、すべてのもの、すべての人が、イエス・キリストの愛の内に一つになることなのですから[95]

64 キリスト教的愛におけるこの一致という現実は、人間社会の全領域において、行いを通じて示されるべきもので、階級意識、ましてやカーストやセクト主義を許すものではありません。「もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷や自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたたちはみな、キリスト・イエスにおいて一つだからです」[96]

この一致を達成し、永続させることは、困難な仕事です。それは、謙遜、放棄、沈黙、耳を傾け理解しようとすること、隣人の善に寛大に心を寄せること、必要であれば何度でもゆるすこと、要するに、行いを通して真に愛することによって養われるものです。

わたしたちは、この大いなるキリスト教的使命に、決然と、使徒的努力をもって貢献するのです。オプス・デイに近づくすべての人が、この一致のため、共存と人間的・霊的・物的幸福につながる相互理解のために働くよう促されていると感じるようにするのです。

65 教会においても市民社会においても、二級信徒も二級市民も存在しません。使徒職においても、現世的な領域においても、神の子の自由、良心の自由、また正当なイニシアチブに制限を加えることは恣意的かつ不当なことです。そのような制限は、権威の乱用、無知、あるいは理不尽な差別をすることが許されると考える人々の誤りから生じるのです。

そのような行為は、人間の尊厳に反するがゆえに、不当であり、自然に反するものです。それは、良心に従って行動する権利、働く権利、団結する権利、自然法の範囲内で自由に生きる権利を抑圧するものですから、共存への道には決してなりえません。

わたしたちの精神はすべての人を尊重するよう促す

66 わたしの娘たち、息子たち、わたしたちはすべての人と平和的に働きたいのです。なぜならわたしたちは、神が創造の瞬間から理性的な被造物である人間に与えた尊厳と自由を、計り知れない価値であると認め、尊重し、擁護するからです。さらにまた、神ご自身が人間の本性をとることをためらわず、かくして御言葉は人間となり、わたしたちのあいだに住むようになった[97]からでもあります。

ですからわたしたちは、すべての人と親しく接するよう努めるのです。キリストが関心を持たなかった人は一人もいませんでしたから、わたしたちにとっても関心を持たない人は一人もいないのです。だからわたしたちは、単なる社会的慣習を越えた、人間としての細やかな心遣いをもって人と接するのです。なぜならそれは、わたしたちの信仰そのものを表すものだからです。

これがオプス・デイの精神ですから、多くの非カトリック信者、さらには非キリスト教徒たちの心を引き付け、支援を集めねばならないことが、よくわかるでしょう。あなたたちは、その人たちと同じ場所で共に生き、働くのです、同僚として、真の友として。

67 真理と愛の内に歩みましょう。教会にゆだねられた信仰の遺産(*)への忠実、教導職への忠実をしっかりと守ることによって、わたしたちは真理の担い手となるのです ― veritatem facientes in caritate[愛に基づいて真理を行い][98]、イエス・キリストの愛をもって福音の教えを伝えるのです。

*[訳注]depósito de la fe 、ラテン語Depositum Fidei:聖書および聖伝に含まれた啓示の総体のこと。教皇ヨハネ・パウロ二世は使徒憲章『Depositum Fidei(ゆだねられた信仰の遺産)』の冒頭で「ゆだねられた信仰の遺産を守ること、これこそ主がご自分の教会に与えられ、また教会がいつの時代にも果たしている使命です」と述べている。この使徒憲章は日本語版『カトリック教会のカテキズム』の冒頭(1‐6ページ)に収められている。

妥協できないときであっても、その非妥協性は聖なるものでなければならず、従って、教理に関してはその姿勢を貫くでしょうが、人々に対してはそうであってはなりません。さもないと、わたしたちは人々を神のもとに導くことができませんし、キリスト者としてわたしたちに求められているように、兄弟として人々と共に生きることさえできないでしょう。信仰にかかわることでは譲歩できませんが、真理を語るために人を傷つける必要はないということを忘れてはならないのです。

もしも例外的に、相手が横暴で暴力的な場合には、強く言わざるを得ないでしょうが、そのときも、わたしたちの言葉が相手を傷つけないように ― irascimini et nolite peccare[怒っても、罪を犯してはならない(*)][99]、厳しい話し方をしても、感情に流されずに ― なぜそのようにする必要があったかを説明しながら、ただちにその傷に愛の香油を塗り、手当をし、癒さなければなりません。

*[訳注]ラテン語に即して訳した。

68 どんな人に対しても、その人の自由を尊重すべきですが、見解が異なる場合には、なおさら心にかけるべきです。残念なことに、人間には全体主義や専制、狂信へと向かう強い傾向があって、議論するとなると、どうしても自分自身の意見にこだわってしまうのです。わたしたちは ― どこにあっても ― 一人ひとりの自由を愛するというわたしたちの姿勢を、模範として示すよう努めねばなりません。

わたしはいつも以下のように考えてきましたし、あなたたちにも同じように考え、他の人にも教えてほしいのです。主が多くの事柄を人間の自由な討論に委ねられたのですから、わたしと異なる考えを持つ人を、敵と見なす必要がはたしてあるのでしょうか。

同じ考えを持っていない人が相手で、その人がわたしを納得させれば、わたしはその人の考えを受け入れますし、わたしがその人を納得させれば、その人はわたしと同じように考えるでしょう。もしも二人とも相手を納得させられなかったとしても、わたしたちは互いに尊敬し、愛し合い、共に平和に生きることができるでしょう。

69 Tribue sermonem compositum in ore meo[わたしの口に適切な言葉をお与えください][100]、わたしに反論する人の前で、わたしの口に適切な言葉を与えてください。激しい口論 ― 議論 ― から光は生まれません。感情がそれを妨げるからです。だからわたしたちは、相手の言うことに耳を傾け、穏やかに話すようにしなければなりません。ときには自分を抑える努力が必要となるでしょうが、超自然的理由からそのように振る舞うのですから、それは価値あることなのです。

自分は完全に正しいと思っていても、実際には部分的なとらえ方、不完全なとらえ方でしかないことがあります。何かが、ある人にはへこんで見え、別の人には出はって見えたりしますが、それはその人の視点によるものです。だから、相手の意見を落ち着いて冷静に検討し、反論する人の立場になって考えるのが正しいのです。

70 神との友情 ― わたしたちが培い、発展させなければならない最初の友情 ― の内に生きることによって、あなたたちは多くの真の友[101]を得ることができるでしょう。わたしたちが主との友情の内にいられるよう、主がわたしたちにしてこられ、今もし続けてくださっているのは、わたしたちを御自分の道具として用いながら、他の多くの人たちにもそうしたいと望んでおられるからです。

わたしの子どもたち、すでに話したように、わたしは人間の友情を信じて言います、amico fideli, nulla est comparatio[忠実な友に匹敵するものは何もない][102]、忠実な友に匹敵するものは何もありません。友情は宝であり、わたしたちはその大きな人間的価値を大切にし、人々を神のもとに導く手段として使わなければならないのです。

わたしはすべての人を友と感じています。あなたたちにもそう感じてほしいと思います。わたしたちは、誰一人例外なくすべての人の善を求めているのですから。ある人がどれほど主から遠く離れていても、どれほど敵意を示していても、わたしたちは聖アウグスティヌスとともに、こう考えましょう。「わたしたちはその人の回心を絶望してはなりません、なぜなら、公然と敵対している人々の中にさえ、自分では知らずにいるが、友となるべく予定されている人たちが隠れているからです」[103]

友情は信頼の雰囲気を生み出す

71 真の友は、友に対して二つの顔を持つことはできません、vir duplex animo inconstans est in omnibus viis suis[そのような人は二心の人であり、何事においても不安定な人です][104]、二心を持つ偽りの人は、すべてにおいて無定見な人です。友情が忠実で誠実なものであるためには、自己放棄、公正さ、正当な事柄においては進んで助け合い奉仕し合うことが求められます。超自然的な思慮深さに従い、個人的な犠牲を払ってでも他者のことを寛大に考える人であるなら、その人は強く誠実な友と言えるでしょう。

わたしたちが友人に期待していることは、真の友情によって築かれた信頼の雰囲気に応えてくれることです。友人が、ありのままのわたしたちを認め、必要であれば、その場しのぎではない明確な支援を与えてくれることを期待しています。実際に、昔読んだカスティーリャ語のテキストにはこうありました。「友人が熱意なく擁護したり称賛したりするのは、称賛すべきところも擁護すべき理由も見つからないと認めているからに他ならない。もしもそれがあるのなら、友としてそんなふうに擁護したり称賛したりすることができるだろうか?」

友人は時に裏切るものだ、とあなたたちは答えるかもしれません。しかし、もしもあなたたちが、常に正しい意向をもって、超自然的な感覚をもって行動するなら、思いがけないことがあったとしても、動揺したり落胆したりはしないでしょうし、そうしたことが、すべての人に対して純粋で愛のこもった高貴な共感を持ちたいという、あなたたちの効果的な願いを抑えることはないはずです。

72 確かに、人間に信頼するよりも神に信頼する方が善いことです、bonum est confidere in Domino, quam confidere in homine[主に信頼することは、人に信頼することよりも善い][105]。だからこそ、わたしはあなたたちに、まず神に信頼するだけでなく、兄弟たちにも信頼するよう頼んでいるのです。愛と理解をもって、常にあなたの周囲に安心の種を蒔くのです、適切な慎重さをもって、しかし気前よく。そうやって人々に、あなたたちの広い心と愛に応えなければ、いや応えずにはいられないと感じさせるのです。

それと同時に、良心の自由を尊重し愛しつつ、この信頼と友情の使徒職によって、イエス・キリストがあなたたちの人生に入ってこられたように、あなたたちも他の人たちの人生に入っていき、福音宣教に励むのです。たとえ話の中で、quia nemo nos conduxit[誰もわたしたちを雇ってくれなかったからです][106]と言った人たちのように、オプス・デイへの召命をもつ人が、誰一人として、「誰も何も言ってくれなかったからです」などと言い訳することがないように。

さらに、考えてください、わたしたちには、主が永遠の昔から用意しておられるすべての子どもたちを、わたしたちの素晴らしい家族に迎え入れる権利と義務があることを。それは、この地上に人間がいる限り続くのです、イエス・キリストが、神に飢え渇く多くの人たちを[107]御自分のものとなさるために。

オプス・デイの生き方から法的な道が生まれる

73 わたしの子どもたち、終わりにしましょう。この手紙の冒頭ですでに言っていたように、わたしの意図は、限りなく善である主、お使いになる道具の小ささを補ってくださる主が、あなたたちのために、わたしに与えてくださった誠実で単純な精神のいくつかの要点を思い出してもらうこと、それに他なりません。わたしたちの父である神は、あなたたちがこの精神をよく学び、しっかりと自分のものとし、それを生きることを望んでおられます。

この生き方、オプス・デイの生き方こそが、その時が来れば、必要な法的道筋を開き、わたしたちが信頼して待ち望んでいる法的枠組みが整えられるでしょう。オプス・デイのように、地面から生え出た植物は、自ら道を切り開かねばなりません、生命という穏やかな力によって、庭師に世話され守られながら。庭師 ― わたしたちの庭師である神 ― が、根に栄養を与え、外気と日光の下で、たくましく育ててくださるのです。

74 わたしたちの召命の非常に独自な特徴は、多くの神学的、修徳的、教会法的問題を含んでいるため、それらに対して適切な解決策を見出し、適切な言葉で表現することが求められています。それには、必然的に、多大な時間と労力が必要となるでしょう。そしてまた、多くの人々、善意を持ち、使徒職や教会生活のさまざまな形に精通している人々でさえ、わたしたちのことを理解するのには時間がかかるからです。それは、すでに言ったとおりです。

しかし何よりも、神が教会の内につくり出されたこの(オプス・デイという)社会的かつ使徒的現実は、修道生活固有の問題とは異なる問題を ― その提起の仕方を含めて ― 提起しています。そして、わたしたちの道を理解していない人々には、いくつかの問題は共通しているように見えるかもしれませんが、その解決策は必ず異なるものとなるでしょう。

75 わたしたちは、神の業であるオプス・デイの超自然的性質を確信しているので、わたしたちが生きている精神に完全に対応する法的形態に至らなければなりません。わたしたちは自分に合わない服を着ることはできません。自分に合う服が必要なのです。自分を目立たせたいと思うからではありません。それはただ単に、わたしたちの内的生活を、さらには堅忍を保証するために不可欠な条件であり、教会に仕えるオプス・デイの真に霊的な有効性のためにも不可欠な条件なのです。

このようにしてのみ、わたしたちは、わたしたちが受けた特有の召命に寛大かつ忠実に応えることができるのです。このようにしてのみ、わたしたちは、わたしたちの召命の本来の目的に完全に応える修徳的手段と使徒的実践をもって、わたしたちに託された使命を果たすことができるのです。だから、あなたたち一人ひとりに言います、「旅人よ、道はない。道は歩くことによってつくられるのだ」[108]

このようにすれば、恐れから、わたしたちが教会で働く他の使徒的組織と「競争」していると考え、まったく根拠のない恐れから ― そのためにわたしたちは悩まされているわけですが ― 、わたしたちの仕事を妨げようとする人たちが現れるのを、避けることができるでしょう。その人たちは、わたしたちが持っている神の子としての自由に反対し、教会の使徒職の見事な一致と多様性と、主の霊の多様な豊かさを損なっているのです。

76 わたしの子どもたち、天はオプス・デイが実現されることを約束しています。人間的な困難はあります ― たとえば、スペインにおける3年間の内戦の痛ましい経験や、他の国や他の大陸へのオプス・デイの拡大を脅かしているように見える新たな世界大戦について考えてみてください ― 、しかしそうした困難も、わたしたちの超自然的な仕事の活力と広がりを抑えることはできなかったし、今後もできないでしょう。

また、わたしたちが生きている絶対的な貧困や、時には最も必要な人間的手段の欠如も、障害や困難とみなすべきではありません。それどころか、それらは強力な刺激であり、拍車なのです。なぜなら、手段の欠如は、わたしたちが本当にキリストの足跡をたどっていることを示す、もうひとつの外的証拠だからです。

ましてや、わたしたちの歩む道が理解されないという困難が、わたしたちの力強い歩みを止めたり弱めたりすることなど、ありえないでしょう。わたしたちは神の歩調で進んでいるのです。だから、教会と人々に仕えたいという、神に由来する聖なる熱意を抑えることなど、誰にもできないのです。

だから、あなたたちの信仰と神への信頼を強めなさい。そしてまた、あなたたちのパドレを少しは信じ、信頼してください。あなたたちが真理の内に歩んでいると保証します、哀れな司祭の……何かを創立することなど望んでいなかったし、考えたことすらなかった司祭のささやかな望みではなく、わたしたちの主の御心に従って歩んでいると。

77 主が聖パウロに言わせた言葉に耳を傾けてください。「以上のようなわけで、わたしたちは、神の憐れみによってこの奉仕の務めを受けているのですから、気を落としはしません。かえって、恥ずかしくて人目をはばかるようなことを捨て去り、悪賢い生き方をせず、また、神の言葉をゆがめず、真理を明らかにして、神の前ですべての人の良心の判断に、わたしたち自身を進んで委ねています。

なお、わたしたちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは滅びる人々にとって覆いが掛かっているのです。彼らの場合、『この代の神』が信じない人たちの心の目を眩まして、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が、輝くことがないようにしているのです。

実に、わたしたちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、イエス・キリストこそ『主』であると宣べ伝えています。わたしたちは、イエスのためにこそあなたたちに仕える者なのです。なぜなら、『闇の中から光が輝き出るように』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの顔に輝く神の栄光を悟らせるように、光を与えてくださった方だからです」[109]

78 ですから、わたしの魂の娘たち、息子たち、祈りなさい、そして忠実でありなさい ― multum enim valet deprecatio iusti assidua[正しい人の不断の祈りは大きな力があるからです][110] ― 祈りは大きな価値があり、それはこれまでも、そしてこれからもわたしたちの大きな武器となるはずです。働きなさい、喜んで、穏やかに、自信をもちながら、あなたたちの召命にふさわしく、オプス・デイの単純で誠実な精神で ― filii lucis estis et filii diei[あなたたちは光の子、真昼の子です][111]、あなたたちは皆、光の子、真昼の子です。街の明るい光の中を、わたしたちは歩むのです、太陽の輝きの中を。

あなたたちのことを思い、忠実でありたいというあなたたちの願いを思うとき ― わたしは絶えずあなたたちのことを思っています ― 、あなたたちに聖書の言葉を繰り返す必要を感じるのです。「わたしは、あなたたちに対してまったく打ち解けた思いでおり、あなたたちを大いに誇りに感じています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦しみに遭っても、この上なく喜びに溢れているのです」[112]

主はなんと善いお方でしょう、主はわたしたちを探し、この聖なる方法を ― 効果的に働くための方法を、自分の命を捨て、神の内にすべての被造物を愛し、人々の間に平和と喜びの種を蒔くための方法を ― わたしたちに教えて下さったのです! イエスよ、あなたはなんと善い方なでしょう! Iesu, Iesu, esto mihi semper Iesus![イエス、イエス、いつもわたしのイエスでいてください!]

わたしの子どもたち、神に願います、この喜びと平和が、わたしたちの主イエス・キリストとの一致の内に、そしてわたしたちの母である聖マリアとの一致の内に、いつもあなたたちと共にありますように。

あなたたちのパドレが、主において、あなたたちを祝福します。

マドリッド、1940年3月11日


[1] エレミヤ10・10参照。

[2] ローマ3・4参照。

[3] ヨハネ14・6参照。

[4] ガラテヤ4・19。

[5] 聖ヨハネ・クリゾストモ『マタイ福音書講話』1・5。

[6] 1ヨハネ3・2。

[7] 創世記2・1参照。

[8] 創世記1・31。

[9] ガラテヤ4・5。

[10] ローマ6・4-5参照。

[11] エフェソ1・9-10参照。

[12] コロサイ1・20参照。

[13] エフェソ5・1。

[14] 1ヨハネ3・1。

[15] ヨハネ1・14参照。

[16] ヨハネ1・4。

[17] ヨハネ1・5参照。

[18] ヨハネ1・5参照。

[19] 1ヨハネ4・8参照。

[20] ルカ12・49参照。

[21] 1ヨハネ1・3-4。

[22] 1コリント4・7。

[23] 1ヨハネ1・8。

[24] 1ヨハネ2・1-2。

[25] エフェソ3・17-18。

[26] 1ヨハネ2・6。

[27] 1ヨハネ2・7-11。

[28] ローマ5・5参照。

[29] ヨハネ17・23。

[30] ヨハネ 13・34。

[31] 箴言18・19。―[訳注]ヴルガタ訳ラテン語聖書からの引用で、フランシスコ会訳聖書も新共同訳聖書もこれとは違う訳文となっている。

[32] 2コリント5・14。

[33] 1ヨハネ3・18参照。

[34] 1ヨハネ4・20参照。

[35] ヨハネ3・16参照。

[36] ローマ8・14-17。

[37] 詩編2・8。

[38] 1コリント3・22-23。

[39] マタイ5・14、16.

[40] ローマ6・22。

[41] レビ記6・2参照。

[42] マタイ11・28。

[43] 黙示録3・20。

[44] 黙示録22・12。

[45] マタイ11・12参照。

[46] ルカ24・29参照。

[47] ヨハネ17・22参照。

[48] ヨハネ17・11, 15-16。

[49] ヨハネ12・32。ー[訳注]聖ホセ・マリアが使っていたヴルガタ訳ラテン語聖書では omnia traham ad meipsum[《すべて》をわたしのもとに引き寄せる]となっているが、新ヴルガタは omnes traham ad meipsum[《すべての人》をわたしのもとに引き寄せる]を採用し、邦訳聖書もこれと同じように訳している。

[50] 創世記2・15参照。

[51] マタイ5・48。

[52] サムエル上3・9。

[53] コロサイ3・23-24。

[54] ガラテヤ4・31。ー[訳注]ヴルガタ訳ラテン語聖書による。現行の聖書ではガラテヤ5・1。

[55] エフェソ2・19。

[56] ヨハネ7・5。

[57] ヨハネ16・30。

[58] エフェソ5・8。

[59] 2コリント12・9。

[60] テルトゥリアヌス『護教論』50・3。

[61] ヨハネ14・6。

[62] マタイ16・24参照。

[63] 1コリント7・7参照。

[64] 1コリント5・6。

[65] 1テサロニケ4・3。

[66] ヨハネ17・23。

[67] マタイ6・18。

[68] イザヤ43・1。

[69] 詩編19[18]・ 6-7。

[70] 詩編77[76]・15。

[71] ヤコブ1・16-17。

[72] エゼキエル1・14。

[73] 雅歌7・13。―[訳注]ヴルガタ訳ラテン語聖書による。現行の聖書では雅歌7・14。

[74] マタイ13・52。

[75] ヨハネ3・8。―[訳注]ラテン語spiritusには「風、息、霊、精神」などの意味がある。

[76] 詩編 25[24]・3。

[77] 詩編103[102]・5。

[78] 詩編 96[95]・1。

[79] 聖ユスティノス『キリスト教についての弁明』I、14(SC 507, p. 162-165)。

[80] フィリピ1・8。

[81] 詩編88[87]・2‐3

[82] 詩編104[103]・10。

[83] 使徒言行録19・2。

[84] マタイ11・25参照。

[85] 使徒言行録2・4-6参照。

[86] ヨハネ7・38参照。

[87] 使徒言行録1・1。

[88] 2ペトロ1・10。―[訳注]邦訳聖書には「善い行い(によって)」という言葉が欠けている。

[89] 2コリント2・15。

[90] ヨハネ3・1-3参照。

[91] トビト記12・6-7。―[訳注]ヴルガタ訳ラテン語聖書をふまえたスペイン語が記されているので、それに即して訳した。

[92] 2コリント1・12。―「訳注」引用されたスペイン語テキストに即して訳した。

[93] 1コリント12・13。

[94] マタイ12・35。

[95] 1コリント10・17参照。

[96] ガラテヤ3・28。

[97] ヨハネ1・14参照。

[98] エフェソ4・15参照。

[99] 詩編4・5。

[100] エステル記14・13。―[訳注]ヴルガタ訳ラテン語聖書による。

[101] シラ書6・17。

[102] シラ書6・15。

[103] 聖アウグスティヌス『神の国』第1巻第35章。

[104] ヤコブ1・8。

[105] 詩編 118[117]・8。

[106] マタイ20・7。

[107] ヨハネ6・35参照。

[108] Antonio MACHADO, Campos de Castilla, "Proverbios y cantares" XXIX.

[109] 2コリント4・1-6。

[110] ヤコブ5・16。

[111] 1テサロニケ5・5。

[112] 2コリント7・4。