典礼暦年の初めが訪れました。ミサの入祭文は、キリスト信者の生活原理、つまり、信者としての召し出しと深い関係のある事柄を考えさせてくれます。「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」[1]。主の掟の頂点である愛徳[2]に向かうことができるようにお導きください、主の足跡をお示しくださいとお願いするのです。
(…)
もう目覚めるとき
ミサの書簡を読むと、目覚めて新しい精神をもって、使徒としての責任を元気よく引き受けなければならないということを思い出します。「今がどんな時であるか(…)あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」[3]。
それは容易なことではないと言われるかも知れません。確かにそうでしょう。人間の敵はその聖性の敵でもあります。キリストの精神を着るというこの新たな生命を妨げようとしているからです。キリスト信者として忠誠を守ろうとするとき現れる障害について、ヨハネは見事に要約しています、「肉の欲、目の欲、生活のおごり」[4]と。世にあるものはすべて、肉の欲、目の欲、生活のおごりなのです。
肉の欲とは感覚の乱れた傾きを全般的に指すのでもなく、性欲を指すのでもありません。というのは、性とは人間の聖化され得る気高い一面ですから、秩序づけられている限り、それ自体悪いものではないからです。ですから、私は淫らなことについては話したくありません。「幸いなるかな、心の清い人、彼らは神を見るであろう」[5]というキリストの言葉はすべての人々に該当するものですから、清さについてだけ話したいのです。神から受けた召命によって、ある人々は結婚生活における貞潔を守らなければならず、他の人々は人間的な愛情を捨てて神の愛のみに熱愛をもって応えなければならないでしょう。いずれの場合も官能の奴隷ではなく、自分の身体と心の主人となって、人々のために献身的に自己を捧げることができるのです。
純潔という徳について述べるとき、私はそれに〈聖なる〉という形容詞を付け加えることにしています。キリスト教的清さとか、聖なる純潔とか言うとき、何の汚れにも染まらず、清らかであることに誇りを感じるという意味ではありません。神の恩恵によって毎日敵の落とし穴から救われているとは言え、私たちの足は粘土[6]でできているのだと自覚することであります。キリスト信者にとって、また一般的に人々と共に生活する上で大切な徳がいろいろとたくさんあります。それを忘れて、この徳だけを特に取り上げて書いたり説教したりするのに一所懸命な人々がいますが、それはキリスト教を歪めることにほかならないと思います。
聖なる純潔だけがキリスト教の唯一無二の徳であるとは言えませんが、聖化を目指して日々の努力に耐え抜くために不可欠な徳であります。もし純潔を守らなければ使徒職への献身などあり得ないでしょう。純潔とは、霊魂も身体も能力も感覚もすべて主に捧げさせるあの愛の結実であります。ただの禁欲ではなく喜ばしい徳なのです。
肉の欲は乱れた官能だけに限られるのではありません。神への忠実をおろそかにするという犠牲を払ってでも、最も容易なもの・快いもの・上辺だけを見て近道を選ぶ怠惰、熱意の不足をも含んでいます。
このように振る舞うことは、聖パウロも警告している法則の一つ、すなわち罪の掟の勢力に無条件降伏するようなものです。「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか」[7]。そして使徒は、「主イエス・キリストを通して神の恵み」[8]によって解放されるのであると答えています。謙遜であれば神の恩恵はいつも与えられるのですから、肉の欲に対抗して戦うことができます。できるのみならず戦わなければならないのです。
聖ヨハネの書いたもう一つの敵は、感覚でとらえられるものにだけ価値を認める貪欲、「目の欲」であります。地上の物事に吸いつけられたようになっている眼は、そのために超自然的な事柄を見出すことができないのです。物質的な富に対する貪欲、他人や生活環境や時間など私たちの周囲の物事を人間的な見方によって見つめさせる歪みを、聖書のこの言葉に含めることができます。
心の眼が鈍ると、自力で十分に悟ることができると信じ込んで、理性は神を除外しようとします。しかし、これは知性の尊厳に働きかける巧妙な誘惑です。理性とは父である神が自由に神を知り愛するようにお与えくださったものだったのです。ところがこの誘惑に引きずられて、人間の知性は自分が宇宙の中心であると思い込み、「神のようになる」[9]ことに再び強くあこがれます。そして自己愛で一杯になった理性は神の愛に背を向けるのです。
かくして私たちの存在は、第三の敵である「生活のおごり」の手中に無条件に陥ることになります。これは虚栄心とか自愛心とかを一時的に持つというだけではなく、思い上がりの状態を持続するということであります。自分を欺くのは止めましょう。これは悪の中でも最も醜く、あらゆる逸脱の原因になるものです。傲慢に対してはいつも戦わなければなりません。人が死んでも傲慢はその翌日まで死なないと言われているのも尤もなことです。ファリサイ派の人々は傲慢でしたから、彼らを義とすることを神は拒まれました。自己満足という壁があったからです。他人を見下げ、支配し、悪くあしらうに至らせるのは傲慢によることです。なぜならば、「傲慢のあるところには怒りと偽りとがある」[10]からです。
神の慈しみ
今日から待降節が始まります。これを機会に霊魂の敵のそそのかしについて考えたのはよかったと思います。そのそそのかしとは乱れた官能や軽率さ・神に反抗する理性の狂い・神や人間への愛を冷ます尊大な思い上がりなどです。こういう心の状態はすべて明らかな妨げであり、その攪乱力は決して小さくありません。そのため典礼は神の慈しみを懇願するのです。「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように、敵が誇ることのないようにしてください。あなたに望みをおく者はだれも、決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです」[11]と、入祭唱で唱えました。奉献の祈りでも、「主によりたのむ者は、はずかしめられることがない」と、繰り返している通りです。
救いの時が近づいている今日、聖パウロの次の言葉を聞くと大いに慰めを受けます。「救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」[12]。
聖書に目を通せば、神の憐れみの顕れを至るところで見つけることができるでしょう。神の「慈しみに満ち」[13]、「すべての子の上にひろがる」[14]。「主に信頼する者は慈しみに囲まれ」[15]、主はわたしに「先立って進まれ」[16]、「主の使いはその周りに陣を敷き(…)守り助けてくださ」[17]る。「わたしを超えて力強い」[18]。神は慈しみ深い父として配慮してくださり、慈しみ深くわたしを御心に留めてくださる[19]。それは、「日照りが続いたときの雨雲のよう」[20]な恵み深い慈しみ[21]なのです。
神の憐れみの物語をイエス・キリストは簡潔に要約なさいました。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」[22]と。さらに別の機会には、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」[23]とも仰せられました。福音書のいろいろな場面の中でも次のようなものが強く印象に残っています。たとえば、姦通した女に対するご寛容・放蕩息子のたとえ・迷った羊のたとえ・負債を許された僕のたとえ・ナインのやもめの息子の復活[24]など。この大奇跡を説明するために、正義に基づく理由はいくらでもありました。何しろ、あの哀れなやもめの一人息子が死んだのですから。彼女にとっては彼だけが生き甲斐であり、老後の面倒も見てくれるはずだったのです。しかしキリストが奇跡を行われたのは、正義によってではなく、お憐れみになったからです。人の悲しみをご覧になって心から同情なさったからなのです。
主の憐れみはなんという安らかさをもたらすことでしょう。「もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」[25]。これは必ず実現される約束であり招待であります。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」[26]。主の憐れみが私たちを守ってくださるので、聖性の敵は、何も手出しできないでしょう。たとえ自分の弱さや過失によって倒れたとしても、主が馳せつけて私たちを助けてくださることでしょう。「あなた方は、怠慢を避けること、尊大から遠ざかること、敬虔になること、現世の物事の虜にならないこと、はかないものよりも永遠を大切にすることを学んだ。しかし人間的な弱さによって、この滑りやすい世の中をしっかりと歩み続けて行くことは難しいであろう。そこでよい医者は、あなたが方向を見失ったときに備えて手段を与え、憐れみ深い裁判官は赦しへの希望を残してくださったのだ」[27]。
人間からの応答
この神の御憐れみを背景として、キリスト信者の生活が展開します。これが、御父の子どもとして生きるために信者が努力する場であります。召命がしっかりと根を下ろすようにするにはどんなことをすればよいでしょうか。今日は二つお教えしましょう。それはキリスト信者としての行動の生きた要のようなもの、つまり、信仰についての深い知識と内的生活をもつことなのです。
第一に内的生活です。これがわかる人はまだなんと僅かなのでしょう。内的生活という言葉を耳にすると、うす暗い教会を想像し、でなければどこかの殺風景な香部屋を考える人々もあります。そうではないのだと言い続けて長い年月が経ちました。普通のキリスト信者は大抵外にいるのでその内的生活は戸外にあります。それは、街で、仕事・家庭・レジャーの時などにおいて、一日中イエスのことを忘れずにいることだと言えるでしょう。日常生活を絶えざる祈りの生活としないとすれば、それは一体何になるでしょうか。あなたを〈神のようにする〉ために導いてくださる神との交わりを求めて、祈りの人となることが必要だとわかったのではありませんか。これがキリスト教の信仰です。祈りの精神をもった人々は常にこのように理解してきたのです。アレクサンドリアのクレメンスの言葉を借りれば、「神がお望みになることを望む人は神のようになる」[28]のだと言えます。
最初は困難でしょう。しかし、私たちに対する父としてのあれやこれやのいつくしみに感謝するためにも、神に向かって話しかけるためにも、努力をしなければなりません。そうすれば、気持ちの問題ではありませんが、神の愛も心に触れるように一気にはっきりしてくるでしょう。優しく私たちの後を追われるのはキリストであります。「わたしは戸口に立って、たたいている」[29]。私たちの祈りの生活はどうでしょうか。一日の間、時にはもっと落ち着いてキリストと語り合いたいと感じることはないでしょうか。後でお話ししますとか、後でこのことについて話し合いましょう、などと申し上げたことはないでしょうか。
主との対話のために時間を決めると、心は大きくなり、意志は強められ、恩恵に助けられた知性は超自然的なことや人間的なことを深く洞察できるようになります。その結果、行いをよりよくし、どんな人とも愛徳をもって親切に交わり、愛と平和のキリスト教的な戦いにおいて、立派な運動選手のように一所懸命に励もうという実践的ではっきりした決心がいつも生まれることでしょう。
心臓の鼓動や脈拍のように祈りは継続的になります。この神の現存なしには観想生活などあり得ません。観想生活がなければキリストのために働くことにもあまり価値がありません。主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしいからです[30]。
犠牲の塩
世間を捨てた修道者とは違って、信徒は社会の直中にキリストとの出会いの場を持っています。ですから、聖化のためには、外的な習慣も目につくしるしも必要としません。信者としてのしるしとは、絶えざる神の現存と犠牲の精神という内的なものです。犠牲とは身体で捧げる祈り以外の何ものでもないので、実際には、両者はひとつということになります。
キリスト信者としての召命は犠牲への召命であり、償いの召命であります。まず自分自身の罪を償わなければなりません。なんとしばしば、神を見ないように顔をそむけたことでしょう。さらに、人々の罪もすべて償わなければなりません。キリストのみ跡を近くから従うべきです。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」[31]。私たちの道は己れを捧げ尽くすことにあり、この自己放棄において「喜びと平和」[32]を見出すでしょう。
悲しそうな顔で世間を見ることはできません。産声をあげたときから何か特異な出来事があったかのように書かれた神の僕たちの伝記は、意図的にそうなされたのではないとしても、教理指導のためにはあまり役に立ちません。その中のある者は、乳児のときでも泣かなかったとか、金曜日には乳を吸わなかったなどと書いてあります。しかし私たちは生まれてから好き勝手に泣き、四旬節も待降節もお構いなしに、母の乳を力一杯吸ったものです。
今は主の助けによって、外見上いつも同じように見える日々の中に真の償いのときを見出すことを学び、その時々に生活を改める決心を立てましょう。これこそ、恩恵と聖霊の勧めに対して霊魂を準備するための道なのです。くり返し申しますが、この恩恵によって、喜びと平和、選んだ道に堅忍する力が与えられるのです。
犠牲は生活の塩のようなものです。そして最も優れた犠牲とは、一日中、小さなことにおいて、肉の欲・目の欲・生活のおごりに対して戦うことなのです。それは他人に迷惑をかけない犠牲であり、私たちをもっと親切でもっと理解と抱擁力のある人にする犠牲のことです。もしあなたが猜疑心の強い人ならば、そして自分のことしか考えないならば、あるいは人を自分に従わせるのであれば、また物事が自分の予想通りに運ばないときに失望するとすれば、犠牲の人とは言えないでしょう。しかし、「すべての人に対してすべてのものになる」[33]ことができるなら、犠牲の人であるということができるのです。
信仰と理性
神の子であるという自覚をもち、祈りと償いの生活をするならば、あなたは非常に敬虔なキリスト信者となり、神のみ前では小さな子どものようになることでしょう。敬虔な生活とは子たるものの徳です。幼くて、助けを要する者であることを自覚しなければ、また事実そうでなければ、父親の腕に子どもが身を任せることはないでしょう。何回も霊的幼子の道について黙想したことがあります。この道は剛毅に対立するものではありません。というのは、強い意志と鍛え上げられた円熟、確固とした誠実な性格を要求するからです。
子どものように信心深いこと、しかし無知であってはなりません。各人は、できる限り、信仰に関する真剣な学問的研究、すなわち神学の勉強に励むべきです。子どものような信心と神学者のような確かな教理を身につけることが必要なのです。
神学 ― 健全でしっかりとしたキリスト教の教え ― を知りたいという熱意は、第一に、神を知り、神を愛したいという希望を動機として持っています。同時にまた、創造者の御手から出たこの世が有する、いとも深遠な意味を究めたいという信者としての関心によるものです。信仰と学問、あるいは人間の理性と天啓の間に存在するという仮想の矛盾を、ある人々は同じような調子で何度も持ち出します。しかし、矛盾があると思う人たちは、問題の真の姿を理解していないのです。
世界が神の御手から出たのであれば、また神が、ご自身にかたどって人間をお造りになり[34]知性の閃きをお与えになったのであれば、たとえ困難な作業であるにしても、すべてのものが本性的にすでに所有している神的意義を知性が探究するのは当然でしょう。そうすれば私たちが恩恵の次元まで高められた結果としての物事の超自然的意味も、信仰の光によって把握できるようになります。いかなる学問でも、真剣に探求されるならば真理に達するはずですから、科学を恐れることはありません。キリストご自身も「わたしは真理である」[35]と言われましたから。
キリスト信者は知識欲を持つべきです。最も抽象的な知識の探求から手先の技術に至るまで、すべてにおいて神に到達することができるはずなのです。人の仕事で聖化できないというものはありません。すべて自己の聖化の動機となり、周囲の人々の聖化において神に協力する機会となるものです。イエス・キリストに従う人々の光は谷底に隠されるべきではなく、山頂にあるべきですが、それは、「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」[36]ためです。
このように働くことは祈りです。このように勉強することも研究することもそれぞれ祈りです。結局、いつも同じことに帰着します。つまりすべては祈りであり、すべては私たちを神に導き、朝から晩まで神との絶えざる交わりを豊かにさせることができ、またそうでなければならないということなのです。真面目な仕事はすべて祈りであり得るし、祈りとなるすべての仕事は使徒職でもあります。こうして人は、飾り気はなくとも確固とした生活の一致において強められるのです。
待降節への期待
救い主の誕生まであと幾日と指折り数え始める待降節第一主日の今日、いろいろなことを十分に申し上げたと思います。キリスト信者としての召命の真相、すなわち人々を聖性に導き、神に近づけ、教会に一致させ、すべての人の心に神の国を拡げるために、主はどれほど私たちを頼りにしておられるかということを考えてきました。私たちが自己を完全に捧げ、忠実であるように、細やかで愛情深いものであるようにと主は望んでおられます。私たちが聖人であること、全く主のものであることを望んでおられるのです。
一方には傲慢・官能・憎悪・利己主義があり、他方には愛・献身・いつくしみ・謙遜・犠牲・喜びがあります。そして、そのいずれかを選ばなければなりません。信仰・希望・愛の生活に召されたからには、目標を下げて中途半端なところに孤立しているわけにはいきません。
ある時、鉄のおりに閉じこめられている鷲を見たことがあります。羽は汚れて半分抜けており、足には腐った肉をつかんでいました。そのとき自分のことを考えてみたのです。もし神から受けた召命を捨てればどうなるであろうか、と。あの鳥は非常に高いところまで飛翔し、太陽を正面から見つめるべく生まれてきているのに、おりに閉じこめられて孤独な姿をさらしているのは残念なことです。私たちは、神の愛と人々への奉仕という〈謙虚な高さ〉まで昇ることができます。しかしそのためには、イエス・キリストの光が差し込まないような陰が心にないようにしなければなりません。イエスから自分を遠ざけるようなすべての心配事を投げ捨てるべきです。そうすれば、キリストは知性にも、言葉にも、心にも、業にも留まってくださるでしょう。心と業・知性と言葉からなる生活全体はこうして神に満たされるはずです。
「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」[37]という福音書の一節を読んだところです。待降節は希望の季節です。キリスト信者としての召命についての広い視野と父である神の現存を中心とした〈生活の一致〉は、日々実現されなければなりません。
聖母が御子の降誕を待つ数ヶ月をどのようにお過ごしになったかを想像しながら、ご一緒に聖母に願いましょう。聖母は私たちが同じキリスト、キリスト自身となることができるように助けてくださることでしょう。
(聖ホセマリア・エスクリバー『知識の香』1、4〜11)
[1] 詩編24・4。
[2] マタイ22・37、マルコ12・30、ルカ10・27参照。
[3] ローマ13・11ー12。
[4] 一ヨハネ2・16。
[5] マタイ5・8。
[6] ダニエル2・33参照。
[7] ローマ7・21ー24。
[8] ローマ7・25。
[9] 創世記3・5。
[10] 箴言11・2。
[11] 詩編24・1ー3。
[12] テトス3・4ー5。
[13] 詩編32・5。
[14] シラ18・2。
[15] 詩編31・10。
[16] 詩編58・11。
[17] 詩編35・8。
[18] 詩編116・2。
[19] 詩編24・7参照。
[20] シラ35・24。
[21] 詩編108・21参照。
[22] マタイ5・7。
[23] ルカ6・36。
[24] ルカ7・11ー17参照。
[25] 出エジプト22・36。
[26] ヘブライ4・16。
[27] 聖アンブロジオ、ルカ福音書についての注釈(PL. 15, 1540)。
[28] アレクサンドリアのクレメンス、Pedagogo, 3, 1, 1, 5 (PG. 8, 556)。
[29] 黙示録3・20。
[30] 詩編126・1参照。
[31] 二コリント4・10。
[32] 「全能にして憐れみ深き神よ、平安と共に喜びを与え給え。生命と改善を与え給え。真実の痛悔の時間を与え給え。聖霊の恩恵と慰めを与え給え」(Breviarium Romanum, ミサ準備の祈り)。
[33] 二コリント9・22。
[34] 創世記1・26参照。
[35] ヨハネ14・6。
[36] マタイ5・16。
[37] ルカ21・28。