永遠の生命のパン
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」[1]と言われるように、キリストの肢体となった私たちの中におられるイエスを、聖体のうちに見つめたいものです。神が聖櫃の中に留まる決心をされたのは、私たちに食物を与え、強め、神に近いものとし、私たちの努力や業を効果あるものとするためでした。イエスは、同時に種蒔き人であり、種、そして種蒔きの結実、つまり永遠の生命のパンでもあります。
絶えず繰り返される聖体の奇跡において、イエスの生活そのものが再現されていると言えます。完全な神・完全な人である天と地の主は、最もありふれた食物となって自らを与え、二千年も前から私たちの愛を待っておられるのです。二千年と言えば長い時間のようですが、実はそうではありません。愛があれば月日は瞬く間に過ぎ去ってしまうからです。
アルフォンソ賢王がガリシア語で書いた見事な賛歌の一節が頭に浮かんできます。ある素朴な修道士が、たとえ一瞬でもよいから天国を垣間みたいと聖マリアに願った伝説のことです。聖母はその願いをお聞き入れになり、善良な修道士は天国に上げられました。ところが、彼が修道院に戻ってみると、顔見知りの人は誰もいなかったのです。彼には一瞬に思われた祈りが、実に三世紀も続いていたからです。三世紀と言っても愛する心にとっては束の間にすぎません。聖体において二千年も待っておられる主のことも、このように考えると納得できそうに思えます。私たちを愛し、探し求める主、わがままで利己主義で、心変わりしやすいけれども、無限の愛を見出して主に完全に捧げ尽くすことのできる私たちを、ありのまま愛する主が待っていてくださるのです。
イエス・キリストが地上に来られ、そして聖体において人々の間に留まられたのは、愛のため、そして愛することを教えるためでした。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」[2]という一節をもって、聖ヨハネは過越祭の前日に起こった出来事の冒頭を飾っています。そして、その晩の様子を聖パウロは次のように描写しています。「主イエスは、(…)、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」[3]。
新しい生活
新約が成立する簡素であり厳かな瞬間です。イエスは、古い掟を廃止され、自らが私たちの祈りと生活の中味となるであろうことをお示しになりました。
今日の典礼の中にみなぎる喜びを味わってください。「響き渡る高らかな称賛を歌え。喜びと尊さに満ちたものであれ」[4]。新しい時の訪れを歌うキリスト信者の喜びを歌っているのです。「古い過越が終わりを告げ、新しい過越が定められた。古い式は終わって、新しい式に席を譲った。こうして実体が影を追い出し、光が闇を消し去った」[5]。
愛の奇跡です。「子らのまことのパンである」[6]永遠の父の長子・イエスは、食物として自らをお与えになりました。この世にあって力をお与えになるイエス・キリストご自身が、天では「主の食卓にわれらを座らせ、天の聖人たちの仲間、世継にする」[7]ために私たちを待っておられます。キリストは不滅の生命ですから、「キリストから栄養を摂る者は、この世では死んでも、永遠に生きる」[8]からです。
決定的なマンナである聖体で強められたキリスト者にとって、永遠の幸福はすでに始まっています。古いものは過ぎ去りました。古びたものなど、必要ではありません。「心も、言葉も、行いも」[9]、私たちにとって全く新しいものでありますように。
これが〈新しいよい知らせ〉です。〈新しい〉というのは、かつては想像もできなかったほど深遠な愛を告げる知らせであるから、また、〈よい知らせ〉というのは、すべての善の中で最高の善である神と親密に一致することほど良いことは他にないからです。そして〈新しいよい知らせ〉というのは、何らかの形で、としか言いようのない方法で、今から永遠の生命にあずかることを可能にしてくれるからです。
言葉とパンにおけるイエスとの交わり
イエスは祭壇のいとも聖なる秘跡に隠れておられます。私たちが敢えて主と交わり、主と一つになるために、イエスは私たちの糧となってくださったのです。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」[10]と言われましたが、キリスト信者には何もできないと決めつけられたのでも、困難に困難を重ねてキリストを探し求めるよう要求されたのでもありません。私たちがいつでも主に近づくことができるようにと、人々の間に留まってくださったのです。
ミサ聖祭の犠牲のために祭壇の前に集うとき、聖体顕示台に安置された聖体を眺めて黙想するとき、あるいは聖櫃の中に隠れておられる主を礼拝するとき、再び信仰を燃え立たせ、人々の傍におられる主の新たな現存について考え、神の優しさと愛の深さに心打たれることでしょう。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」[11]。初代信者の生活について、聖書にはこのように記されてあります。信者たちは、使徒たちの信仰と完全な一致を保ち、聖体にあずかり、心をひとつにして祈っていました。信仰とパンと言葉における集いだったのです。
聖体は人々の霊魂におけるイエスの現存と世界を支える力の保証であり、世の終わりに、父である神、子である神、聖霊なる神、つまり唯一の神の至聖なる三位一体の玉座、天の住家に永遠に住まわせようという、救いの約束の確かな保証でもあります。キリストご自身と、パンとぶどう酒の外観の下に実際に現存なさるイエスを信じるなら、私たちの全信仰を表明することになるのです。 言葉とパン、祈りと聖体においでになるイエスと絶えざる交わりをもたないで、キリスト信者らしく生きることができるとは思えません。しかし、何世紀にもわたって代々の信者が聖体への信心を具体化してきた理由はよくわかるのです。あるときは公に信仰を宣言する大衆的な行事をもって、またあるときは、教会内の神聖で平和な雰囲気のうちに、あるいは心の奥底で沈黙のうちに人々は代々聖体への信心を表してきたのです。
何を差し置いても、一日の中心であるミサ聖祭を大切にしなければなりません。よい準備をしてミサ聖祭にあずかるならば、一日中、主が働かれたように働き、主が愛されたように愛するために、主の傍から離れまいとする意気に満たされて、当然のように主のことを思い続けるのです。そうすれば、主のもう一つの心遣いに感謝するようになることでしょう。主は、ミサの犠牲が捧げられるときのみ祭壇に留まってくださるだけでなく、聖櫃の中に安置される聖なるホスチアのもとにいつも現存することになさったのです。
私にとって、聖櫃は常にキリストがおられる落ち着いた静かなベタニアであります。主の友であるマルタとマリア、ラザロが単純率直に主に語りかけたのと同じように、聖櫃の前で私たちの心配事や苦しみ、希望や喜びについて主にお話しすることができるのです。ですから、どこかの街角に、遠くからでも教会の塔を見つけるととても嬉しくなります。そこにはもう一つの聖櫃があるから、また、秘跡におられる主と一緒にいたいという気持ちにかられて、聖櫃に思いを馳せる機会となるからです。
聖体の豊かさ
主が聖体の秘跡を制定されたのは最後の晩餐のときでした。聖ヨハネ・クリゾストムは、「夜であったことにより、時が満ちたことを明らかにしたのである」[12]と言っています。世界は夜の闇に包まれていました。古い儀式や、神の無限の慈悲である古いしるしは過ぎ去り、新たな過越、真の夜明けが訪れたからです。聖体の秘跡は夜の間に制定され、復活の朝を前もって準備しました。
私たちの生活も黎明を迎える準備をしなければなりません。はかないものや危険なものはすべて、また、失望、不信、悲嘆、卑怯など役に立たないものはすべて捨て去らなければならないのです。聖体は神の子どもたちに神的な新しさを与えたのです。従って、気持ちや振舞いを一新し、「心を新たにして」[13]、この恩恵に応えなければなりません。私たちには、活力の新たな原理である強力な根、主に接ぎ木された根が与えられました。今日の、そして永遠に続く〈パン〉を持っている私たちが古いパン種に戻ることはもはやできない相談なのです。 今日の祝日には、世界中至るところで信者が聖体行列に加わります。主はホスチアに隠れて、かつての地上での生活のときのように、通りや広場を通り抜け、主に会いたいと望む人々を待ち受け、主を探し求めない人々には偶然会ったようなふりをされます。このようにイエスは、〈ご自分の人々の間〉に、お現れになるのです。主のこの呼びかけに対してどう応えればよいのでしょうか。
愛の外的表現は、心から生まれなければならず、また、信者らしい振舞いとなって継続しなければなりません。主の御体を拝領して新たにされたのであれば、その事実を行いに表さなければならないのです。私たちは心から平和と献身と奉仕を望まなければならず、私たちの言葉は、人を慰め、助ける言葉でなければなりませんが、特に神の光を人に伝えることができるよう、真実にして明白かつ適切であるべきです。そして振舞いは、主の業や生活を想起させるもの、つまり、「キリストの良い香り」[14]を振り撒く、首尾一貫した、的確で効果的なものでなければならないのです。
聖体行列によって、キリストは津々浦々に来てくださいます。せっかくキリストが来られるのですから、その日限りの行事で終えてしまったり、聞いては忘れ去る騒音であったりしては残念なことです。イエスがお通りになるとき、日常の些細な事柄にも主を見つけるべきことを思い起こしましょう。この木曜日の荘厳な行列とともに、黙々とした、慎ましい日常生活という行列がなければなりません。信者は人々と変わらない毎日を送りますが、神的使命と信仰を受ける幸運に恵まれて、再び地上に主の指針を告げ知らせなければならないのです。私たちが過失や惨めさや罪から解放されることはないでしょう。しかし神は人々と共においでになります。わたしたちは主が絶えず人々の傍らをお通りになることができるよう主の道具の働きをしなければなりません。
聖体を愛する心をくださるように、また、主との個人的な交わりが喜びや落ち着き、正義への渇きとなって表れるよう、主にお願いしたいものです。そして人々がもっと容易にキリストを認めうるよう援助し、人々の活動の頂点にキリストを据えるべく力を尽くしたいと思うのです。そうすれば、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」[15]というキリストの約束が実現するのです。
(聖ホセマリア・エスクリバー『知識の香』151ー156)
[1]一コリント12・27
[2]ヨハネ13・1
[3]一コリント11・23ー25
[4]続誦ラウダ・シオン
[5]同
[6]同
[7]同
[8]聖アウグスティヌス『ヨハネ福音書についての注釈』26, 20 (PL 35, 1616)
[9]賛歌サクリス・ソレムニス
[10]ヨハネ15・5
[11]使徒言行録2・42
[12]聖ヨハネ・クリゾストム『マテオ福音書についての説教』82,1 (PG 58, 700)
[13]ローマ12・2
[14]二コリント2・15
[15]ヨハネ12・32