聖霊-知られざる偉大な御方

聖ホセマリアによる聖霊降臨の祭日の説教(1969年5月25日)

聖霊

聖霊が火のような舌となって現れ、使徒たちの上に留まったあの五旬節の出来事を使徒言行録に読むとき、いろいろな民族に教会を発展させはじめられた神の偉大な力を感じます。従順と十字架上でのご死去とそのご復活によってキリストが死と罪に対して得られた勝利を、神ははっきりとお示しになったのです。

復活の光栄の証人となった使徒たちは、聖霊の力を自らのうちに感じました。新たな光が彼らの知性と心を開いたのです。すでに、彼らはキリストに従い、その教えを信仰をもって受け入れてはいましたが、その意味を完全に理解できたわけではありませんでした。真理の霊が来てすべてを悟らせることが必要だったのです(ヨハネ16・12ー13参照)。イエスだけが永遠の生命のみ言葉を有しておられることは知っており、キリストの跡に従い、生命を捧げる覚悟はありましたが、まだ弱く、試練のときが来るとキリストを見捨てたこともありました。しかし、聖霊降臨の日にすべては過去の出来事となったのです。剛毅の霊である聖霊は、彼らを確固たる自信に満ちた大胆な人間に変えました。使徒たちの言葉はエルサレムの街々や広場に強く生き生きと響き渡り始めたのです。

あの時、いろいろな地方からやって来た人々は街に集まり、驚いて聴きいっていました。「パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使徒2・9ー11)。人々は、目の前で行われた不思議のおかげで使徒の説教に耳を傾けることになりました。使徒たちに働きかけた聖霊は、同じく人々の心を動かし、信仰に導かれたのです。

聖ルカによれば、聖ペトロがキリストの復活を宣言すると、取り囲んでいた多くの人々が近づいて質問しました。「兄弟たちよ、わたしたちはどうしたらよいのですか」。ペトロは答えて言いました。「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。その日に三千人ほどが仲間に加わった、と聖書は結んでいます(使徒2・37ー41参照)。

聖霊降臨の日の聖霊の訪れは一つの孤立した出来事ではありません。使徒言行録の中で、キリスト教徒の最初の集団を、生命とみ業で導き励ます聖霊とその行いについて触れない頁はほとんどありません。聖ペトロを宣教に奮い立たせたのも(使徒4・8参照)、使徒たちの信仰を強めたのも(使徒4・31参照)、呼びかけた異邦人に聖霊の賜物を注がれたのも(使徒10・44ー47参照)、パウロとバルナバを遠隔の地に遣わしてイエスの教えのために新しい道を開いたのも(使徒13・2ー4参照)、すべて聖霊であります。一言でいえば、聖霊はその存在と働きかけによってすべてを支配されるのです。

聖霊降臨は過去の思い出ではない

聖書が示すこの重大な事実、聖霊降臨は、過去の思い出でもなく、歴史のかなたに残された教会の黄金時代でもありません。聖霊降臨は私たち一人ひとりの持つ惨めさや罪を超えた、今日の、そしてあらゆる時代の教会の現実の姿なのです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14・16)と、主は弟子たちに仰せになり、そして、その約束を守られました。つまり、ご復活とご昇天の後、私たちを聖化するために、永遠の御父と一緒に、聖霊をお遣わしになったのです。

神の力は地の面を照らし出します。キリストの教会は、聖霊の力を得て、常に、すべてにおいて、諸国に対して掲げられたしるしとなり、神の愛と恩恵を人類に伝えるのです(イザヤ11・12参照)。私たちがどんなに限界だらけの存在であっても、信頼をもって天を眺めれば、喜びに満たされます。神は私たちを愛し、罪から解放してくださるからです。教会における聖霊の存在と働きかけによって神のお与えになる平和と喜び、そして、永遠の至福を垣間見ることができるのです。

聖霊降臨の日、聖ペトロに近づいた最初の人々のように、私たちも洗礼を受けました。洗礼において父である神は私たちの生命を占有され、キリストの生命に一致させ、聖霊を送ってくださいました。聖書には次のように書いてあります。「救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」(テトス3・5ー7)。

自分の弱さや失敗の経験、キリスト信者と自称している人々の卑少でこせこせした言動のもたらす、嘆かわしくも悪い手本、一部の使徒的事業の外見上の失敗や混乱、これらすべては人間の限界と罪とを明らかにする現実ではありますが、私たちの信仰の試金石ともなり、神の力はどこにあるのかという疑問や誘惑を誘いだすもとにもなるのです。このような誘惑には断固として抵抗し、もっと純粋に、もっと希望を強めなければなりません。つまり、そのような時こそ、忠誠を固めるべく努力を傾けるときなのです。

もう何年も前のことですが、私の体験を述べさせてください。信仰はないが善良な心を持った友人が、ある日、世界地図を指して言いました。「ご覧なさい。東西南北を」。「何を見ればよいのですか」と問うと、次のように答えました。「キリストの失敗を。何世紀にもわたって人々の心にその教えを吹き込もうと努めてきましたが結果はどうでしょう」。一瞬、私は非常に悲しくなりました。確かにまだ、主キリストを知らない人がたくさんおり、キリストを知っている人々の中にも、知らないかのような生き方をしている人が多くいることに大きな苦痛を感じていたからです。

しかしこの思いはほんの一瞬で消え去り、直ちに愛と感謝の思いに変わりました。イエスは、各人が自由に主の救霊のみ業に協力するようにとお望みになったのです。失敗されたのではありません。み教えとご生活は世界を絶えず豊かにしています。キリストの救霊のみ業はそれ自体十分で、溢れるばかりに豊かな実りをもたらしたのです。

神は奴隷ではなく子どもとしての私たちをお望みで、私たちの自由を尊重されます。救霊は続けられ、私たちはそれに参与します。聖パウロの強い言葉のように、キリストのみ旨によると、キリストの体である教会のために、私たちは自らの体と自らの生命で、キリストの苦しみの欠けるところを満たさなければならないのです(コロサイ1・24参照)。

神の信頼と愛に応えるために生命をかけて自己を捧げ尽くすこと、特に、キリスト教の信仰を真剣に受けとめる決意は、誠に、努力を傾ける値打ちのある仕事です。使徒信条を唱えるとき、全能の神と、ご死去の後、復活された御子イエス・キリスト、生命の主であり与え主である聖霊への信仰を宣言します。そして「一、聖、公、使徒継承」の教会は、聖霊によって生命を与えられたキリストの神秘体であると、信仰告白します。さらに罪の赦しと未来の復活への希望に喜ぶのです。しかし、このような真理は心の底まで浸透しているのでしょうか。それともただ口先だけに留まっているのでしょうか。聖霊降臨のもたらす神からの勝利と喜びと平和の使信は、全キリスト信者の考え方、受けとめ方、そして生き方の確固とした基礎であるべきなのです。

聖霊と交わる

聖霊に従って生きるとは、信仰・希望・愛をもって生きることにほかなりません。言い換えれば、神が私たちをご自分の所有物とされ、私たちの心を根本的に変えて神に相応しくされるにお任せすることなのです。堅固で円熟したキリスト信者の生活とは、神の恩恵が成長するおかげであって、一朝一夕にして成就できるものではありません。使徒言行録には、初代のキリスト信者について、次のように簡潔ですが、意味の深い言葉が記してあります。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒2・42)。

これこそ、初代教会の人々の生活であり、私たちの生活でなければならないのです。信仰の教えに精通するまで黙想すること、ご聖体においてキリストと出会うこと、匿名の祈りではなく、神と、顔と顔を合わせた個人的な対話をすること、私たちの生活は根本的にこのような内容を持たなければなりません。仮にそれらが欠けていたとしても、博学な考察や、多かれ少なかれ充実した活動や信心の業や習慣はあることでしょう。しかし真のキリスト教的な生活はあり得ません。キリストヘの同化はなく、救いのみ業にも効果的にあずかっていないからなのです。

すべての人は等しく聖化に召されているので、この教えはすべてのキリスト信者のための教えであります。福音の教えを少しだけ実行すればよいというような、二流のキリスト信者など存在しないからです。皆、同じ洗礼を受けました。神の賜物や各々の状況が、文字通り種々様々であったとしても、神の賜物を分配する聖霊は一つであり、信仰もひとつ、希望もひとつ、愛もひとつなのです(一コリント12・4ー6、13・1ー13参照)。

従って、使徒の次の言葉は私たちに向けられたものと考えることができます。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(一コリント3・16)。この言葉を神との今以上に個人的で直接的な交わりへの招きと考えることができます。残念なことに、一部のキリスト信者にとって慰め主は〈知られざる御者〉です。その名を口にしても唯一の神の三つのペルソナの一つであるお方であると理解していません。聖霊なる神と話し、その方によって生きているとは言えないのです。

典礼を通して教会が教えているように、たゆみなく、信頼をもって素直に聖霊と交わらなければなりません。そうすれば私たちの主をより深く知り、同時にキリスト信者に与えられた計り知れない賜物についても、もっと完全に理解できることでしょう。前に述べた神の生命への参与や、神化の意味がいかに偉大で、いかに真実であるかも深く理解できることでしょう。

なぜなら、「聖霊とは、ご自分が神に無縁な存在であるかのように、私たちの中に神の本質を描きだす画家ではない。神の似姿を私たちに与えるのはこのような方法によるのではなく、神であり神から発出される聖霊ご自身が、それを受ける心に、ろうに印が押されるように、ご自分を刻みつけられるのである。このように、聖霊がご自分を伝え、ご自分の似姿を与えることによって、神の美しさに相応しい本性を人間に回復させ、再び神の似姿にするのである」(アレクサンドリアの聖チリロ、Thesaurus de sancta et consubstantiali Trinitate, 34 [PG 75, 609])。

聖霊との交わり ― そして聖霊を通して御父と御子との交わり ― を深めて、慰め主なる御方と親しくなる生活様式を定めるには、一般的にではありますが、次の三つの基本的な事項に留意しなければなりません。すなわち、素直、祈りの生活、および十字架との一致であります。

素直であることが第一です。聖霊はその勧めによって、私たちの思い・望み・働きに超自然的な色合いを添えてくださる御方であるからです。人々にキリストの教えを深く吸収させ、従わせるように導く御方、各個人の使命を自覚させ、神のお望みをすべて果たすための光をお与えになる御方は聖霊です。聖霊に素直に従うなら、キリストの似姿が私たちの中で次第に形づくられ、日毎に父である神に近づいて行くことでしょう。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ローマ8・14)。

この世での生活原理である聖霊の導きに任せるなら、霊的な生命力は増し、子どもが父親に頼るのと同じように、自然に信頼しながら、父である神の腕に自己を依託できることでしょう。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18・3)と主は言われました。霊的幼子の道とは、別に新しい道ではありませんが、いつも効果的な道です。弱々しい人々の道でも、成熟に欠ける人々の道でもありません。それは、神の愛の素晴らしさを深く考えさせ、自分の惨めさを認識させ、自己の意志を全く神のみ旨に一致させる超自然的な円熟への道なのです。

第二は祈りの生活です。キリスト信者の温和・従順・奉献などは愛から出て愛に向かって進むべきものです。そしてその愛によって、交わり・語り合い・友情が生まれます。キリスト信者の生活は、唯一にして三位なる神との絶え間ない対話を必要とします。聖霊のお招きになる親しい交わりとはその対話のことであります。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」(一コリント2・11)。聖霊と絶えず交われば、霊的に成長し、キリストとの兄弟意識を抱き、父として呼びかけることをためらうことのない神の子であると感じることでしょう(ガラテヤ4・6、ローマ8・15参照)。

私たちを聖化してくださる聖霊としばしば交わる習慣を持つようにしましょう。この習慣によって、近くにおいでになる聖霊に信頼し、助けを求めることが容易になるのです。こうして、狭い心も広くなり、神を愛し、神においてすべての人々を愛する希望も燃え上がってくることでしょう。そして、霊と花嫁、聖霊と教会、さらに一人ひとりのキリスト信者も、イエス・キリストに近づき、来てください、いつまでも私たちと共にいてくださいと願う黙示録の終末の光景が私たちの生活に再現されるのです(黙示22・17参照)。

最後に十字架との一致を挙げることができます。キリストのご生涯においてカルワリオがご復活や聖霊降臨に先行したように、同様の過程がキリスト信者の各々の生活の中にも再現されるべきなのです。聖パウロの言葉によれば、神の「子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(ローマ8・17)。聖霊は、ただ神の光栄のみを求める自己放棄という十字架の結果、神への完全な奉献の結果、与えられるのです。

恩恵には忠実に応え、自分の心に十字架を立てて神の愛ゆえに自己を否定し、我儘と人間の誤った確信から本当に離脱しているとき、すなわち真実に信仰を実行するとき、そのときこそ人は、聖霊の偉大な焔や偉大な光、偉大な慰めを全面的に受けることができるのです。

キリストが勝ちとられ、聖霊の恩恵によって与えられる光と平安が私たちの心にみなぎるのもその時です(ガラテヤ4・31参照)。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5・22ー23)であり、「主の霊のおられるところに自由」(二コリント3・17)があるのです。

私たちの中にはまだまだ何らかの形で罪が宿っているので、限界だらけの存在ではありますが、それにも拘わらずキリスト信者は、新たな光を受けて神の子となる富を有することを知っています。御父のために働くゆえに全く自由であると自覚し、何ものも自己の希望を破壊できないゆえ、喜びは永続的であることを知っているのです。

それと同時に、地上のすべての美と素晴らしさに感嘆し、すべての富とすべての善を大切にし、愛するために創られた対象を純枠・完全に愛することができるはずです。人間の弱さを知り、罪を痛悔することによって、キリストの救霊への望みに再び一致し、すべての人間との結束を強く感じることができますから、罪を悲しむ心が私たちを苦々しい態度や絶望的あるいは高慢な態度に向かわせることもないはずです。結局、キリスト信者が聖霊の力を強く自分の中に経験するとき、自己の失敗によって挫折することはなくなるはずです。その挫折とは、実は個人的惨めさにも拘わらず、あらゆる場所でキリストの忠実な証人として、再び立ち直るようにという招きにほかならないからです。そのような場合、個人的な惨めさと言っても、大きな過失でも、心を取り乱させるほどの失敗でもないでしょう。仮に重大な過失であったとしても、痛悔の心をもち、ゆるしの秘跡にあずかれば、神の平和は蘇り、再び神の御憐れみを証す善良な証人になることができるのです。

人が自己を聖霊の導きに委ねたときの、信仰の豊かさとキリスト信者の生活を、人間の貧弱な言葉で十分に言い尽くすことはできませんでしたが、簡単にまとめてみたつもりです。結びとして、教会全体の絶えざる祈りをこだまする聖霊降臨の祝日の典礼聖歌にある祈願を私の最後の祈りにしたいと思います。「創り主の聖霊、来てください。わたしたちの心を訪れ、あなたに創られたこの心を、天の恵みで満たしてください。(…)わたしたちがあなたによって、御父と御子を知り、父と子から発せられる愛の息吹を信じる恵みを与えてください」(聖務日課の聖霊降臨賛歌Veni Creator Spiritus)。

(ホセマリア・エスクリバー『知識の香り』127ー129、134ー138)