イエスのみ心

「イエスから学ばなければ、本当に愛することは決してできないでしょう」。聖ホセマリアによるイエスのみ心の祝日の説教(1966年6月17日)。

イエスのみ心
Detail of the painting "Allegory of the Sacred Heart" by Federico Laorga, located in the Sanctuary of Torreciudad.

父である神は尽きることのない愛[1]と慈悲と愛情の宝を、御子の聖心を通して私たちにお与えになりました。神が私たちの祈りを待って聞き入れるだけでなく、願う前に願いをかなえてくださること、つまり、神が私たちを愛してくださっていることを確かめたいと思うなら、聖パウロの教えを知るだけで十分でしょう。「その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」[2]

恩恵は人の心を新たにし、罪深く反抗的であった者を善良で忠義な僕[3]に変えます。そして、その恩恵の源とは、言葉だけでなく、行いをもってお示しになった神の愛なのです。神はその愛ゆえに、聖三位一体の第二のペルソナである〈みことば〉、父である神の御子を、罪以外はすべて、人間の条件を備えた肉体を有するものとなさいました。それゆえ、神の〈みことば〉は、神の愛から出る〈みことば〉[4]であると言えるのです。

受肉(託身)に始まり、救い主としてのこの世でのご生活、イエス・キリストの十字架におけるこの上ない犠牲に至るまで、神の愛の顕れです。ところが、十字架上では、その神の愛が新たなしるしをもって示されたのです。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」[5]。イエスの水と血、それは愛ゆえにすべてを成し遂げる[6]まで、最後の最後まで身を挺した主の献身を物語っています。

祝日を迎えるにあたり、信仰の中心的な秘義〈神秘〉を改めて考えてみると、御子をお与えになった父である神の愛、また、ゴルゴタを目指して心静かに歩む御子の愛が、いかにして人間に身近な振舞いとなって表れているかを知り、ただただ驚くばかりです。神は、権力者や支配者の態度をもってではなく、「僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ」[7]、接してくださいます。教えを説き続ける間、時には、人間の邪悪に満ちた態度に心を痛め、不愉快を味わわれたこともありますが、イエスは決して人々に背を向けたり、尊大な態度をとったりはなさいませんでした。それどころか少し気をつけて見ると、イエスの立腹や怒りは愛から出ていることがすぐにわかります。私たちを不忠実と罪の状態から救いだすための呼びかけであることが理解できるのです。

「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」[8]。キリストの一生はこの言葉に言い尽くされています。また、私たちと同じ心、生身の心をもってお現れになった理由もこの言葉よって理解できるのです。まさに、キリストの聖心は確かな愛であり、筆舌に尽くしがたい神愛の秘義〈神秘〉の証しなのです。


十字架上で、人々を愛するがゆえに刺し貫かれた聖心をもつイエスこそ、物事や人間の価値を雄弁に物語っており、もはや言葉を必要としません。人間、そしてその命と幸せには、神の御子が人々を救い、清め、高めるため自らをお与えになるほどの値打ちがあるのです。傷ついた聖心を眺めて、ある祈りの人が言いました。「これほど傷ついた聖心を誰が愛さずにいられようか。愛に愛をもって応えない人があるだろうか。これほど清らかな聖心を抱擁しない者があるだろうか。生身のわたしたちは、愛には愛を報いる傷ついた御方を、不信仰者たちが御手と御足、脇腹とみ心に手を差し入れたその方を抱きしめるのである。我々の心を愛の絆で結び、槍で傷つけてくださるようお願いしよう。我々の心はいまだに頑なで強情であるから」[9]

愛する人は、昔からこのような考えや愛情をイエスに捧げ、イエスとこのように語り合ってきたのです。ところで、このような話を理解し、人の心とキリストの聖心、神の愛を本当に知ろうと望めば、信仰と謙遜が要求されます。信仰篤く謙遜な聖アウグスチヌスは、万人周知の有名な言葉を残してくれました。「主よ、御身は私たちを、御身のものとなるようにお創りになりました。私たちの心は御身に憩うまで安らぐことがありません」[10]

謙遜になる努力を怠ると人は神を自分のものにしようとします。しかし、キリストが、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」[11]と言って神を所有することができるようにしてくださったような神的な仕方によってではなく、逆に、神の偉大さを自己の能力の限界にまで引き下げようとするのです。このような理屈、冷たく盲目的な考え方、それは信仰から生まれる知性でも、事物を玩味して愛することのできる正しい知性でもありません。かえって、人間の能力を超えた真理を卑小にし、人間の心を覆ってしまい、聖霊の霊感に対して無感覚にさせる考え方、いつもの惨めな経験に合わせてすべてを判断しようという無茶な考え方なのです。神の慈しみ深い力によって、哀れな人間が持つ貧困を打ち破ってもらわない限り、人間の貧弱な知性は何の役にも立ちません。「新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」[12]。そして、聖霊の約束を前にして、魂は光を取り戻し喜びに溢れます。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」[13]と、神は預言者エレミヤの口を借りて告げておられます。典礼においてこの言葉はイエスに当てはめられます。神がこのように愛してくださっていることは、イエスにおいて、はっきりと示されたからです。主は、人間の不甲斐なさや卑小さを処罰するため、あるいは問責するためにおいでになったのではなく、私たちを救うため、赦すため、平和と喜びを与えるためにおいでになったのです。主とその子どもである私たちとの間のこのように素晴らしい関係を認めることができれば、当然私たちの心も変わり、彫りと深さと光に溢れた全く新たな展望が目前に展開することでしよう。

キリストの愛を伝える

しかし、神は、心の代わりに純粋な意志をやろうとは言っておられないことに注目してください。心をくださいます。キリストになさったように心をくださるのです。私は、神を愛する心と人々を愛する心という二つの異なる心を持っているわけではありません。両親や友人を愛する同じ心で、キリストと御父、聖霊、聖母マリアを愛するのです。何度も申し上げたいと思います。非常に人間味に溢れた人にならなければならない、さもなければ、神的になることはできない、と。

人間愛、この世での愛が本当の愛であれば、神の愛を〈味わう〉のに役立ちます。真の愛をもつなら、「神がすべてにおいてすべて」[14]となる天国の「神を所有するという愛」と「人間相互の愛」を垣間見ることができるのです。このようにして、神の愛がどのようなものであるかを理解し始めると、より憐れみ深く寛大、より献身的な態度を示すよう努力することでしょう。

受けたものを与え、学んだことを教えなければなりません。思い上がらず、謙遜な心で、キリストの愛を人々にも伝えなければならないのです。社会において、仕事や職業にいそしむにあたり、仕事や職業を奉仕の営みに変えることができます。またそうする義務があるのです。訓練と技術の進歩を取り入れて完成させた仕事は、それ自体が一つの進歩であり、他の仕事の進歩にも役立つことでしょうが、それだけではなく、そのような仕事は重要な役割を果たし、人類全体に大きく貢献することができるのです。ただし、利己主義に陥らない寛大な心と、自己の利益ではなく、公益を求める心、つまり、キリスト教的な考え方に基づいて働かなければなりません。

人間関係の織りなす日常生活において、仕事を続けるにあたり、キリストの愛と、キリストの愛の具体的な表れである理解と愛情、平和を示さなければなりません。キリストがあまねくパレスチナ地方を巡って「善を行われた」[15]ように、私たちも、家庭や社会、日常の仕事や勉学、休息など人間の辿る道において、〈平和の種蒔き〉作業を繰り広げていかなければなりません。それができる時こそ心に神の国が訪れたと言えるのです。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」[16]と聖ヨハネが書く通りです。

しかし、イエスの聖心という学校で学ばない限り、誰一人として今述べたような愛を実行することはできません。キリストの聖心を熟視し黙想することによってこそ、私たちの心から憎悪と無関心が姿を消し、他人の苦しみ、悲しみを見て、信者に相応しい態度をとることができるからです。

聖ルカが語る場面を思い浮かべてください。キリストはナインという町の近くをお通りになり[17]、偶然、行き交う人々の悲嘆をご覧になります。素通りすることも、あるいは、呼びかけや願い出を待つこともできました。しかし、そのまま行ってしまうことも、待つこともなさいません。ただ一つ残っていたもの、一人息子を失った寡婦の悲しみに心動かされ、自ら近づいていかれたのです。

イエスは哀れにお思いになった、と福音史家が書き記しています。ラザロの死のときと同じように、傍目にもわかるほど心を動かされたのでしょう。イエスは愛ゆえの苦しみに対して無関心でいることはできなかったし、今も無関心ではありません。両親から子どもを引き離してお喜びになることもありません。イエスは、命を与えるため、互いに愛し合う人々が一緒にいることができるように死を克服なさったのです。しかしその前に、そして同時に、正真正銘のキリスト的な生き方をするには、すべてに優越する神の愛に生活を支配させなければならないとお教えになりました。

キリストはご自分を取り巻く群衆が奇跡に驚くだろうこと、また町中にその出来事を言い触らしに行くだろうことをご存じです。しかし、主の身ぶりにわざとらしさはありません。ただあの婦人の苦しみに心を動かされ、慰めを与えずにはおれないのです。事実、彼女の方に近づき、「もう泣かなくともよい」[18]と仰せになります。それは、「涙にくれるお前は見たくない。私は喜びと平和をこの世にもたらすために来たのだから」と悟らせようとなさるかのようです。その後で、神としてのキリストの力が発揮され、奇跡が起こります。しかし、奇跡より先に、キリストの聖心は憐れみに震え、人としてキリストの有する聖心の優しさがはっきりと表れたのでした。

イエスから学ばなければ、本当に愛することは決してできないでしょう。ある人たちが考えるように、神の愛に相応しい清い心を保つとは、人間的な愛情に係わったり染まったりしないことだとすれば、他人の苦しみに対して冷淡になって当然と言えるでしょう。潤いもなく心のこもらない形だけの愛となり、情愛と人間味ある温かさ、つまりキリストの本当の愛徳は実行できないことでしょう。こう申し上げても、人々の心を迷わせ、神から離れさせ、罪の機会にそして滅びに導くような、誤った考え方を認めるつもりは毛頭ありません。

この世においては避けることができない苦しみ、時にはひどい苦悩から人々を救うための真の聖香油とは愛であって、そのほかの慰めはほんのひととき心を慰めるのに役立つとしても、その後で苦痛と絶望を心に残すだけであることが理解できる心、人々の悲しみに同情できる心をくださるよう、今日の祝日にあたって、主にお願いしなければなりません

繰り返し申し上げますが、人を助けたいのなら、理解と献身と愛情、自らへりくだる意志をもって人々を愛さなければなりません。そうすれば、なぜ主が全律法を二つの掟に要約されたかが理解できるでしょう。といっても、実際には一つ、つまり、心を尽くして、神と隣人を愛することなのです[19]

キリスト信者、実はあなたと私のことなのですが、キリスト信者は時として、この掟の実行を全く忘れているのではないかとお考えかもしれません。正義にもとる数多くの行いを避ける努力がなされていないとか、正されていないとか、あるいはまた、根本的な解決策を講じないまま世代から世代へと差別が伝わっていると思うこともあるでしょう。

このような問題の具体的な解決策を提案することは私にはできませんし、またそうするつもりもありません。しかし、キリストの司祭として、聖書の教えを思い出してくださるように申し上げるのは私の務めです。キリストご自身がお示しになる審判の場面を黙想してください。「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ』」[20]

困難や不正義を目にしても反応せず、それらを軽くする努力もしないような人や社会というものは、聖心の愛に従う人でもなく社会でもないと言えます。キリスト信者は種々の解決策を自由に研究し、そして自由に実行に移さなければなりません。当然、多様性を尊重するよう要求されてはいますが、人類への奉仕という同一の目的に向かって一路邁進すべき点では一致していなければなりません。そうでなければ、そのキリスト教は神と人々に対する偽りと見せかけにすぎず、イエスの言葉であるとも、生命であるとも言えないでしょう。

(聖ホセマリア・エスクリバー『知識の香』162、165ー167)


[1] イエスの聖心のミサの祈り参照

[2] ローマ8・2

[3] マタイ25・21参照

[4] 聖トマス・アクィナス『神学大全』I, q. 43, a. 5参照

[5] ヨハネ19・34

[6] ヨハネ19・30

[7] フィリピ2・7

[8] エゼキエル18・23

[9] 聖ボナヴェントゥラ、Vitis mystica, 3, 11 (PL184, 643)

[10] 聖アウグスティヌス『告白録』1, 1, 1 (PL32, 661)

[11] 一コリント11・24

[12] エゼキエル36・26

[13] エレミヤ29・11

[14] 一コリント15・28

[15] 使徒言行録10・38

[16] 一ヨハネ3・14

[17] ルカ7・11ー17参照

[18] ルカ7・13

[19] マタイ22・40参照

[20] マタイ25・41ー43