聖ホセマリアの生涯-67

1950年頃からオプス・デイは西ヨーロッパとアメリカ大陸の国々に広がっていきました。ますます必要となる司祭と統治の任に当たる人を養成するため、聖ホセマリアはローマ学院と呼んだセンターをたてようとしました。

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1950年頃からオプス・デイは西ヨーロッパとアメリカ大陸の国々に広がっていきました。ますます必要となる司祭と統治の任に当たる人を養成するため、聖ホセマリアはローマ学院と呼んだセンターをたてようとしました。本部とは別の場所を探しましたが結局は無理で、本部を増築してそれに当てることになります。

司祭になるには教会が定めた哲学と神学の課程を履修することが必要です。オプス・デイのメンバーの大部分は司祭にはなりませんが、聖ホセマリアは皆がこの課程を勉強することを望みました。オプス・デイの目的は神学の勉強ではなく世俗の仕事を聖化することですが、現代社会でそれができるためには、しっかりした教理の知識を持つことが不可欠だからです。

ローマに来たメンバーは教皇庁の大学に通い、本部の建築工事の手伝いや様々な雑用をしながら勉強をし、創立者から直接にオプス・デイの精神を学びました。師が特に望んだのは、彼らがカトリック的一致の精神を身につけることでした。パウロが言う「もはやユダヤ人もギリシア人も野蛮人もない。みな神の子である」という民族や人種や文化による差別のない精神です。神父はその精神を「ローマ的」と呼びました。ローマから世界の隅々にこの精神を伝えオプス・デイの一致を強めようと望んだのです。

しかし、これらのためにも莫大なお金がいります。この時期は特に経済的に苦しいときでした。創立者は各国の責任者にローマ学院に必要な援助を提供するよう頼んでいました。1955年からは毎年まとまった数の司祭が生まれるようになりました。

女子部のためにも同じような養成センターが必要でした。ローマ市の南にカステル・ガンドルフォという場所があります。それはアルバーノ湖というカルデラ湖の周囲に広がる集落で、教皇様の別荘で有名です。その村にある貴族の婦人が邸宅を持っていました。彼女はそれを東方の共産主義国家から逃げてきた亡命者を匿うために使っていましたが、1959年オプス・デイに譲ると申し出ました。この邸宅が改築され女子部のローマ学院となりました。工事が完成したのは1963年でした。

尾崎明夫