聖ホセマリアの生涯-62

1946年から50年にかけては、オプス・デイの教会法上の解決とローマの本部の建設などの重要な仕事の中で、スペイン以外の国々で活動が始まっていました。この海外進出は綿密な計画もお金もなしに、また司祭ではない信徒のメンバーによって始められました。

1949年夏。後列左端がホセ・ラモン。三番目がコーマック

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1946年から50年にかけては、オプス・デイの教会法上の解決とローマの本部の建設などの重要な仕事の中で、スペイン以外の国々で活動が始まっていました。

ファティマの聖母の出現を受けたシスター・ルシアの熱心な願いで1944年から活動を始めたポルトガルと、イタリアでは聖ホセマリア自らが関わりました。しかし、それ以外はメンバーが師の指導のもとに道を切り開きました。世界大戦後、この期間にイギリス、フランス、アイルランド、メキシコ、アメリカ合衆国、チリとアルゼンチンでオプス・デイが始まりました。

この海外進出は綿密な計画もお金もなしに、また司祭ではない信徒のメンバーによって始められました。アイルランドの場合を紹介します。初めてその地を踏んだのは、ホセ・ラモン・マドゥルガです。1940年にオプス・デイに入り、マドリード大学工学部を卒業し、ダブリン大学で大学院課程に入るために47年10月にアイルランドにやって来ました。この国はカトリックの古い伝統を持つ国です。友達を作るため入ったスペイン語同好会でコーマック・バークという学生と知り合い、友情を深めるに従ってオプス・デイについても話していきました。翌年の1月、コーマックはアイルランド人最初のメンバーとなります。二人は大学や高校で知り合いの輪を広げ、その中からメンバーになる人も出てきました。ホセ・ラモンは大学院を修了すると電力会社に入り、センターを経済的に支えていきました。

しかしダブリンの大司教は、司祭でも修道者でもない信徒が宗教的活動をすることに不信感を抱いていたので、聖ホセマリアは何人かの司祭を送り説明を試みましたが成功せず、結局1952年ドン・アルバロが大司教と面会し誤解を解くことに成功しました。こうして念願の学生寮を建てることができ、活動が軌道に乗りました。ホセ・ラモンは1950年ローマで司祭に叙階。翌年、アメリカ合衆国に行き、1958年には日本でオプス・デイを始めるため来日し、2002年ここで骨を埋めたのです。

(写真。1949年夏。後列左端がホセ・ラモン。三番目がコーマック)