聖ホセマリアの生涯-58

創立者は最初からオプス・デイが特定の国のためではなく、全世界で活動をするものと考えていたので、本部をカトリック教会の中心であるローマに置くのがよいと考えていました。そこでバチカンの人々にオプス・デイについて説明を続ける一方で、本部のための家探しを始めます。

過去の記事はこちらから

1946年6月初めてローマの土を踏んだあと、聖ホセマリアはローマとスペインを何度も行き来することになりました。当時はまだオプス・デイのメンバーのほとんどがスペイン人で、全体の統治もスペインからしていたからです。またスペイン内戦後、続々と新しいメンバーが生まれ、彼らの養成にも創立者自身が当たる必要がありました。

他方、創立者は最初からオプス・デイが特定の国のためではなく、全世界で活動をするものと考えていたので、本部をカトリック教会の中心であるローマに置くのがよいと考えていましたし、ローマでもそう勧められました。そこでバチカンの人々にオプス・デイについて説明を続ける一方で、本部のための家探しを始めました。

イタリアは戦後の混乱のまっただ中。不動産の価格は低く、立派な邸宅を安く手に入れることができました。色んな物件を調べているうちにブルノー・ブオッチ通りとヴィリャ・サケッティ通りに挟まれた、元ハンガリーの対バチカン大使館が売りに出されていることを知りました。資金のあてがない中、聖ホセマリアはただ神の助けを信じて家の獲得に動きます。不可能に見えた困難を乗り越え契約を結び、1947年7月に引っ越ししました。この家をヴィラ・テベレと呼びました。

家は通りに面した門とその隣にある守衛の住居、そして敷地の中心に建物(写真参照。この写真ではすでに拡張工事が始まっている)がありましたが、そこには元大使館職員たちが不当に居座っていました。そこで、聖ホセマリアたちは玄関の付近に住むことに。窮屈な生活、暖房なしのローマの冬などで創立者は顔面神経痛になり、ドン・アルバロも病気に倒れることがありました。なによりも苦しい問題は資金の不足でした。

1948年2月、ハンガリー人たちが出ていき、敷地全体を所有することになりましたが、次はここを本部として機能する建物に改築、増築する仕事がはじまりました。この時期も創立者は頻繁にスペインに行きました。一つの目的は寄付を募ることでした。