1946年11月、再びローマに戻った聖ホセマリアはオプス・デイの本部となる建物と土地を探し、オプス・デイの統治やその精神に関する文書の作成など、様々な仕事に取り組みました。同時に、ローマにいる教会の人たちにオプス・デイの説明をしようとしました。そのために使われた手段が、住んでいたアパートに招待し一緒に食事をすることでした。
1946年の年末に女子のメンバーが5人到着し、アパートの管理と家事に当たりました。しかし、それは極端な貧しさの中でした。一人がこう言っています。「すべてが足りませんでした。私たちは折りたたみ式のベッドや床で寝ました。お金がなく暖房をつけることができませんでした。空腹と寒さに苦しみました」。お金がないことに加えて、戦後の食料不足、ガスや電気が頻繁に止まることなど料理人を泣かせる材料には事欠きません。しかし、彼女たちの超人的な働きのおかげで、食事に招待された人々に楽しい雰囲気の中でオプス・デイについて話すことができたのです。皆とても満足して帰りましたが、その裏の困窮には気づきませんでした。「接待客がないときは、私たちは断食をした。喜んで」とドン・アルバロは言っています。この状況の中で、聖ホセマリアやドン・アルバロはよく病気になりました。
1947年2月2日、待望の文書が教皇庁から発布されました。それは『プロヴィダ・マーテル・エクレシア』という名前の文書で、これによって教会の中に「在俗会」という新しい形態の組織が認められました。つまり、修道者になることなしに、社会の中で福音を生きることを誓う聖職者、あるいは信徒の会が教会の中に生まれたのです。2月24日にはオプス・デイが在俗会として認可されました。これによってオプス・デイは教会の正式な一組織として世界のどこででも働くことが可能となったのです。
創立者はこの認可を神に感謝しました。ただ、在俗会という形態にはオプス・デイの純粋に世俗的な性格とは相容れない要素もあり、パドレはなおオプス・デイにぴったり当てはまる法的な形態を探し続けるのです。